利用者:Brevam/草稿:欧州史

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
GNU Free Documentation License の関係上、このページの編集はご遠慮願います

絶対王政の変遷[編集]

/../../../../../../../../../../../../../..

宗教改革[編集]

フランス絶対王政[編集]

オーストリア・プロイセン[編集]

植民地戦争[編集]

イギリス産業革命[編集]

産業革命の背景[編集]

イギリスでは絶対王政以降、統一市場が形成され、市民革命以降は商業に関する特権や規制が撤廃されていたので、イギリスの国内市場は大きく成長していた。また、数々の植民地獲得戦争やウィーン議定書によって、広大な海外植民地を手に入れていたので海外市場も成長していた。 また、この頃のイギリスでは重商主義政策がとられていたため、奴隷貿易などにより資本家は巨大な資本を有していたため、工場への大規模な設備投資が可能であった。

同時期、農業革命も起こり大農地経営による資本主義的穀物生産を行うようになった。 この農業革命に伴う第二次エンクロージャー(土地囲い込み運動)によって土地を失った小農民は浮浪人となって都市部へ流入し、安価な工場労働力となっていた。

技術革命[編集]

このような背景の下、インド産綿布の需要増大により国内生産の必要性が生まれたので、軽工業である綿工業において最初に技術革命が起こった。

1733年、ジョン・ケイによって飛び杼が発明され綿布を大量かつ安価に織ることができるようになった。 綿布の生産が効率化されると綿糸が不足したので、一度に手動で8本の糸を紡ぐことができるジェニー紡績機がハーグリーヴズにより発明された(1764年)。 1769年にはアークライトがジェニー紡績機を改良し水力を動力とする水力紡績機を発明した。この結果、生産性が高く丈夫な糸が作られるようになり、純綿の布を作ることができるようになった。 ファーウッドの生まれの紡績工クロンプトンは、ジェニー紡績機とアークライトの水力紡績機の長所を併せ持った手動のミュール紡績機を発明した(1779年)。アークライトの水力紡績機は太い糸しか紡げなかったが、ミュール紡績機は細くて丈夫な糸を紡げたため、質のよい綿布が生産されるようになった。

このような生産性の高い紡績機が開発されると糸が過剰に生産されてしまったため、カートライトは蒸気機関を利用した力織機を発明した(1785年)。

動力革命[編集]

当時のイギリスの炭鉱は坑道が深くなり出水が絶えなかっため、その水を排水する必要があった。そこで、ニューコメンが排水ポンプの駆動機として蒸気機関を発明した(1710年)。

ニューコメンの蒸気機関は熱効率の悪さなどのいくつかの問題を抱えていたため、ワットが改良を加えピストンの上下運動を回転運動に転換する発明を行った(1769年)。

交通革命[編集]

アメリカ独立革命[編集]

フランス革命[編集]

ナポレオン戦争[編集]

ウィーン体制の成立[編集]

ウィーン会議[編集]

ナポレオン1世のエルバ島配流を機に、フランス革命・ナポレオン戦争後の諸問題、国際関係の処理のために1814年9月から1815年6月にかけ、全ヨーロッパの国々が出席しウィーン会議が開催された。 主な会議出席者は、会議を主宰するオーストリア帝国外務大臣メッテルニヒ、イギリス王国の首相ウェリントンと外務大臣カッスルリー、プロイセン王国の首相ハンデンベルグ、ロシア帝国の皇帝アレクサンドル1世、そして、フランス帝国の外務大臣タレーランであった。

会議は当初、大国オーストリア・プロイセン・イギリス・ロシアが中心となって進められたが、各国の利益が対立し会議は一向に進まなくなった。会議は進まないにもかかわらず、毎晩繰り広げられる盛大な舞踏会を見て「会議は踊る、されど進まず」といわれたのは有名である。 しかしながら、ナポレオン・ボナパルトが2月にエルバ島を脱出すると、各国は妥協して6月9日にウィーン議定書が調印された。

タレーランは大国の対立を巧く利用し、正統主義を採択させることに成功した。正統主義とは、フランス革命以前の主権と領土を正統なものとして、革命前の体制の復活を目指す復古保守主義であるが、この考え方が採択されたことにより敗戦国であるフランスの損失は最小限に抑えられた。

議定書による体制の変更[編集]

ウィーン議定書による領土と体制の変更は次の通りである。

イギリスはフランスからマルタ島、オランダからケープ植民地とセイロン島を獲得。オランダはケープ植民地・セイロン島を失う替わりにオーストリア領南ネーデルラント(後のベルギー)を獲得。スウェーデンはデンマークからノルウェーを獲得し、ノルウェーとの同君連合となった。

ドイツでは、ライン同盟は解体されたが神聖ローマ帝国は復活せず、オーストリアを盟主とし35の君主国と4つの自由都市から成るドイツ連邦が成立した。オーストリアは南ネーデルラントを放棄し、イタリアからヴェネツィア・ロンバルディアを獲得した。プロイセンはポーランドを分割する代わりに、ザクセンの北半分とランラント・西ポンメルンを領有した。

ロシアはオスマン帝国からベッサラビア、スウェーデンからフィンランドを得た。ワルシャワ大公国の大部分はポーランド王国になったが、ポーランド国王はロシアの皇帝が兼任することとなり、実質上ポーランドはロシア領となった。

フランス、スペイン、ナポリでは革命前のブルボン王朝が復活し、フランス王にはルイ18世が即位した。 スイスは5つの州を併合し永世中立国として承認された。また、ローマ教皇領も復活した。

神聖同盟・四国同盟[編集]

ウィーン条約調印後1815年内に、ロシアのアレクサンドル1世が提唱した神聖同盟が結ばれた。キリスト教的正義・友愛・平和をもとに国際秩序を守ることを趣旨とするものであったため、多くのヨーロッパの国々が加盟した。 しかし、イギリス国教会であるイギリスやローマ・カトリックのローマ教皇、また、イスラムであるオスマン帝国はロシアと宗教が異なるため加盟しなかった。

さらに同年内に、自由主義的運動を抑圧するためイギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアの4か国によって、政治的・軍事的な四国同盟が結ばれた。1818年にフランスが加盟し五国同盟となるが、後の1822年にはイギリスが脱退する。

ウィーン体制の崩壊[編集]

フランス第二帝政[編集]

イタリア・ドイツの統一[編集]