中学校社会 歴史/室町時代
課題
[編集]この時代はどのような改革が行われ、どのように室町幕府が成立したのだろう。
建武の新政と室町幕府
[編集]建武 の新政
[編集]1333年(
新政をほろぼそうと
後醍醐天皇が政治を行っていた頃、
二条河原 の落書き - このごろ、都に流行っている物は、 夜討ち、強盗、にせの天皇の文書、
囚人 や急をつげる早馬 、大したことでもないのに起きる騒 ぎ、生首 、僧から俗人 にもどる還俗 、逆に俗人から勝手に出家して僧になる者もいる。 急に大名になった者、逆に路頭にまよう者もいる。 土地や恩賞を目当てに起きてもいない戦 で手柄 を立てたと言い出す者もいる。 土地を没収された訴訟人 が、文書の入った細葛 を持って、本領を離れて、やってくる。 おべっかを言う者、他人の悪口を言う者、政治に口出しする者、下克上 をして成り上がったものもいる。 能力の有無も調べられずに、裁判所に任用される。
- このごろ、都に流行っている物は、 夜討ち、強盗、にせの天皇の文書、
- (『
建武年間記 』より、『二条河原落書 』、抜粋、要約。)
原文は、
- 『二条河原落書』(にじょう がわら らくしょ)
- このごろ都(みやこ)に はやるもの、 夜討ち(ようち)、強盗(ごうとう)、にせ綸旨(にせりんじ)。
- 召人(めしうど)、早馬(はやうま)、虚騒動(そらそうどう)。 生首(なまくび)、還俗(げんぞく)、自由出家(じゆう しゅっけ)。
- にわか大名、迷い者(まよいもの)。 安堵(あんど)、恩賞(おんしょう)、虚軍(そらいくさ)。
- 本領(ほんりょう) はなるる(離るる) 訴訟人(そしょうにん)。 文書(ぶんしょ)入れたる細つづら(ほそつづら、細葛)。
- 追従(ついしょう)、ざん人(ざんにん、讒人)、禅律僧(せんりつそう)。 下克上(げこくじょう)する成出者(なりでもの)。
- 器用勘否(きようかんぷ)沙汰もなく(さたもなく)、もるる人(ひと)なき決断所(けつだんしょ)。
- (『建武年間記』(けんむ ねんかんき)より、『二条河原落書』(にじょう がわら らくしょ)。抜粋。原文のカタカナを平仮名に変更。一部の漢字を平仮名に変更。)
室町時代の始まり(1336~1573年)
[編集]足利尊氏(あしかが たかうじ)は、京都にあらたに天皇をたてた。こうして京都に北朝(ほくちょう)が出来た。このときに尊氏が京都にたてた天皇は光明天皇(こうみょう てんのう)。
すると、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は奈良の吉野(よしの)山中に逃れた。後醍醐天皇の吉野側の朝廷を南朝(なんちょう)という。
尊氏は1338年に北朝の天皇から(尊氏が)征夷大将軍に任命され、足利尊氏が室町幕府(むろまち ばくふ)を開いた。
南北朝の対立は、やがて全国的な対立へと発展した。
各国の武士は、南北朝のうち自分に有利な側に味方して争ったので、南北朝の対立は全国的な内乱となり、約60年間にわたって争乱がつづいた。
南北朝から拡大した全国的な争乱によって、各国の守護(しゅご)職の権利が強まり、それまでの軍事や警察権に加えて、さらに年貢の半分を得る権利などが守護に認められた。やがて国司にかわって守護が各国を支配するようになった。このような守護を守護大名(しゅご だいみょう)という。
南北朝の統一
[編集]南北朝の対立は、足利の側の北朝に有利に進み、3代将軍の足利義満(あしかが よしみつ)のころには、南朝はほとんど勢力を失っていた。そして南朝を北朝に合一するように呼びかけ、南朝に従わさせて、1392年に足利義満は南北朝を統一した。
義満は将軍権力を固めて南北朝の統一を行い、天皇に迫る権力を確立する事となる。「室町」時代(むろまち じだい)の呼び名は、3代将軍の足利義満(あしかが よしみつ)が、京都の室町(むろまち)に開いた御所(花の御所(はなのごしょ))が政治の中心地になったことによる。室町幕府がつづいた1573年までの約240年間を室町時代という。南北朝が、幕府主導で統一されたことにより、朝廷は政治的な権限を失っていった。 のちに義満は太政大臣(だじょう だいじん)となり、朝廷の権威も手に入れ、政治の実権をにぎった。さらに、のち、義満は出家したので、義満は天皇の臣下ではなくなった。
室町幕府のしくみ
[編集]室町幕府では、将軍の補佐役として管領(かんれい)という職を置いていた。守護は、有力な守護大名などから選ばれた。細川(ほそかわ)氏や畠山(はたけやま)氏などの有力な守護大名が交代で管領に選ばれた。
また、関東には鎌倉府(かまくらふ)を置かれ、室町幕府による関東支配の拠点になった。関東府の長官には足利氏の一族がついた。
東アジアとの関係
[編集]中国との関係
[編集]14世紀には中国で漢民族の帝国である明(みん)が1368年にたてられた。いっぽう、モンゴル族の元(げん)は北に追いやられた。
南北朝の争いのころから、東シナ海では倭寇(わこう)の海賊的な活動が活発になった。このころの倭寇の人員は日本人が中心だったが、ほかにも中国人や朝鮮人も加わっていた。倭寇は海賊行為や密貿易をしていた。倭寇は、沿岸の街から食料などを略奪したり、人をさらったりした。明は、日本に倭寇の取り締まりを求めた。
明は貿易を制限し、明に朝貢をする国にのみ、明との貿易を認め、自由な貿易を禁止した。貿易そのものも、明への朝貢の一部とみなされ、周辺国からの朝貢としての輸出品に対し、明は返礼を与えてやるという形式での貿易だった。
足利義満は、この機会に明と国交をむすび、倭寇の取り締まりも行い、明への朝貢貿易を行った。明の皇帝からは義満は「日本国王」(にほん こくおう)と認められた。正式な日本の貿易船には、海賊船と区別するために、文字の書かれた合い札(あいふだ)が日本として、明から勘合(かんごう)という合い札の片方が日本の貿易船に与えられた。
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勘合の片方
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勘合の片方
合札の、もう片方は中国側が持っており、日中両国の合い札を合わせることで、文字が正しく出来上がる。日明貿易のことを、勘合を用いたため、勘合貿易(かんごう ぼうえき)という。 日本からは、銅や刀剣が輸出された。明からは、銅銭、生糸、絹織物、陶磁器などが日本にもたらされた。
日本の明との貿易の利益は、幕府の収入源に なった。
朝鮮との関係
[編集]14世紀末の朝鮮半島では、李成桂(り せいけい、イ・ソンゲ)が高麗(こうらい、コリョ)をたおし、朝鮮(ちょうせん)という国をたてた。 朝鮮も明への朝貢貿易を行った。また朝鮮も日本に倭寇の取り締まりを求め、日本とは対等な国交をむすび、朝鮮と日本との貿易も行われた。勘合に似た仕組みの合い札が、朝鮮との貿易でも使われた。
朝鮮では、公用語が漢文だったが、あらたに独自の文字のハングルが民衆のために作られ、1446年(
朝鮮との貿易は、のちに対馬の宗(そう)氏だけが朝鮮から貿易をみとめられ、貿易の独占権を与えられ、宗氏が朝鮮との貿易を独占するようになった。
琉球
[編集]沖縄では14世紀には、3つの勢力に分かれていて北山(ほくざん)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)の3つの地域が争っていたが、15世紀に中山王(ちゅうざんおう)の尚(しょう)氏が沖縄本島を統一し、琉球王国(りゅうきゅう おうこく)をたて、首里(しゅり)を都とした。(首里の場所は現在の那覇(なは)市。)
なお、北山を山北(さんほく)という場合もあり、南山を山南(さんなん)という場合もある。
琉球の貿易では、東南アジア・中国・日本とをむすぶ中継(ちゅうけい、なかつぎ)貿易が行われた。
蝦夷地(えぞち)
[編集]北海道は蝦夷地(えぞち)と言われていた。蝦夷(えぞ)では、アイヌ民族が、くらしていた。
津軽(つがる)半島の十三湊(とさみなと)を拠点に、和人とアイヌとの交易が行われた。 蝦夷地からは鮭(さけ)や昆布などが輸出され日本にもたらされた。
この十三湊の領主の安東氏(あんどう し)が栄えた。
15世紀には、北海道の南部に和人が進出し、渡島(おしま)半島の沿岸部に館(たて)と呼ばれる根拠地を多くつくり、アイヌと交易した。和人の進出により、それまでいたアイヌと衝突を起こした。アイヌの首長のコシャマインが蜂起したが、和人に鎮圧された。
コシャマインの蜂起の鎮圧後、しばらくすると和人とアイヌとの交易が再開され、交易は安定していった。また、この時代、和人の居住区域は限定されていた。(※ 帝国書院のデジタツパンフレット版の教科書見本より。)
応仁の乱
[編集]6代将軍 義教(よしのり)が暗殺されたころから、すでに守護大名どうしが対立していました。(※ 東京書籍、日本文教出版の教科書で紹介。)
そして15世紀の8代将軍 足利義政(あしかが よしまさ)の時代に、義政には実子がおらず、跡継ぎ(あとつぎ)の座をめぐり、まず先に弟の足利義視(あしかが よしみ)が形式的には跡(あと)を継いだが、その翌年に正妻である日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ)を生み、このことが発端となり15世紀なかばに争いになる。
(※ 自由社の教科書で、上述のような、あとつぎ争いのイキサツが紹介されている。)
細川方(東軍) | 山名方(西軍) | |
---|---|---|
主導者 | 細川勝元(管領) | 山名持豊 |
将軍家 (先代将軍は義政) |
足利義視(義政の弟) | 日野富子 足利義尚(義政の子) |
斯波家 | 斯波義敏(養子) | 斯波義廉(養子) |
畠山家 | 畠山政長(養子) | 畠山義就(血縁) |
また、三官領のうち斯波(しば)氏では斯波義敏(しば よしとし)・斯波義廉(しば よしかど)のあいだで相続争いが起こり、また畠山氏では畠山政長(はたけやま まさなが)・畠山義就(はたけやま よしなり/よしひろ)の間でそれぞれ相続争いが起こった。
このころは既に将軍の権力は衰えており、各地の守護大名が力を強めていて、たがいに勢力争いをしていた。将軍や官領の跡継ぎ(あとつぎ)争いが起こり、それぞれの家中でそれぞれ細川勝元(ほそかわ かつもと)と山名宗全(やまな そうぜん)につき、このため二派の争いはその後に全国的な争いに発展することとなる。
畠山政長と義就の衝突から、京都を戦場とする戦いが1467年(
(この応仁の乱を要因として、戦乱が地方にも広がり、しだいに戦国時代へと突入することになる。)
- (※範囲外:)戦国時代突入のトリガーは応仁の乱とされているが、東国では鎌倉公方と周辺勢力の外交戦争や相剋により、いち早く戦国時代に突入していた。西国でのターニングポイントも応仁の乱ではなく、明応の政変であった可能性が高い。
民衆の生活
[編集]室町時代の産業
[編集]- 農工業の発達
米と麦などの二毛作(にもうさく)が西日本だけでなく東日本でも広まり、全国各地に広まった。 手工業も進歩し、農具が普及したこともあり農業技術が進歩した。かんがい(灌漑)の技術の発達が発達して灌漑に水車が用いられるようになったり、用水が作られた。また人の糞尿や牛馬の糞などから作られた肥料の使用の普及や、牛馬を用いた耕作も普及していった。これらに加えて、従来の肥料である草や木を燃やして灰にした草木灰(そうもくかい)や、刈草をくさられた肥料なども使用されていた。
農業の生産力が増えたこともあり、多くの種類の農作物が栽培された。麻(あさ)、桑(くわ)、藍(あい)、茶なども生産され、養蚕(ようさん)もさかんになった。16世紀には、朝鮮から伝わった綿の栽培も、三河(みかわ、愛知県)などでさかんになった。
紙の原料の こうぞ、油の原料の えごま、漆器(しっき)の塗料(とりょう)の原料の うるし、なども栽培された。手工業では、京都の西陣(にしじん)や博多(はかた、福岡県)などの絹織物(きぬおりもの)や、紙、陶器、刀や農具なども生産された。各地の特産物が手工業や農業では作られた。 茶の特産地では、京都の宇治(うじ)などが特産地になった。
刀や農具を作るための鍛冶(かじ)や鋳物(いもの)業も、さかんになった。その原料を掘り出すための採掘も多く行われ、銅や金・銀、砂鉄などが採掘された。
手工業では、業種ごとに同業者どうしの組合の 座(ざ) がつくられ、座には製造や販売を独占する権利が、有力な寺社などから与えられた。
- 商業の発達
室町時代には、鎌倉時代よりも ますます商業が発達した。たとえば定期市は、鎌倉時代は月3回の 三斎市(さんさいいち) だったが、室町時代には月6回の 六斎市(ろくさいいち) になった。
- (※ 範囲外、参考 : ) なお、この時代、育児は女がする事もあっただろうが、老人が育児をする事も多かったと考えられている。その根拠としては『法然上人絵伝』など、鎌倉時代~室町時代を扱った絵画を見ると、子供の近くに老人のいる絵画が多いことなどの理由から、老人による育児が多かったのだろうと推測されている。(※ 帝国書院の検定教科書デジタルパンフレットで紹介されている。)
- 運送業の発達
室町時代の産業では、運送業(うんそうぎょう)が発達した。商業や農業・工業が発達したので、商品を運ぶ必要がふえたからである。
この時代の陸上での運送業者は、馬を使って運送をすることが多かったので、 馬借(ばしゃく) と言われる。なお、牛車で運ぶ場合は 車借(しゃしゃく) と言う。
道路も整備された。幕府や寺社などは、交通の要所に関所(せきしょ)をもうけ、通行税をとった。
- 貨幣経済(かへい けいざい)の普及(ふきゅう)
商業には貨幣(かへい)が必要である。明の銅銭である明銭(みんせん)を日本に輸入されて使われた。この明銭とあわせて、鎌倉時代に宋から輸入して使われた宋銭(そうせん)も引き続き使われていた。このころの日本では、正式な貨幣は作られず、明銭や宋銭などを日本国内での貨幣として使用していた。
明銭では永楽通宝(えいらくつうほう)が有名である。
農民は、年貢を貨幣で納めることも多くなっていった。そのために、農作物を市で売って貨幣に変えることも行われた。
他にも、倉庫などの保管業などを行っていたり輸送の管理をしたりする 問丸(といまる) が出来た。これが問屋(とんや)の起源である。
高利貸し(こうりがし)で金貸しをおこなう金融業者(きんゆう ぎょうしゃ)が京都や奈良などの都市で増えてくる。土倉(どそう) や 酒屋(さかや) と言う。土倉(どそう)とは今でいう質屋(しちや)のことで、客から品物をあずかるかわりに、客にお金を貸した。酒屋は、文字どおり酒もつくっていたが、大きな利益をえていた一部の酒屋は土倉も行い、金貸しも行っていた。幕府は、土倉や酒屋から税を取って利益を得るかわりに、土倉や酒屋を保護をした。
諸産業の発達により、各地の湊には港町が発達した。また寺社の門前には門前町が発達した。
-
室町時代ごろの芸能の職人。『職人尽歌合』(しょくにんづくし うたあわせ)より。
職業が増えるに連れ、庶民の職業の中でも、いやしい職業だと差別される職業も出てきた。たとえば、動物の革を加工して革製品をつくる皮革業などが、動物を殺したり死体を扱うので、いやしい職業だと差別されるようになった。このような差別される職業には、「河原者」(かわらもの)と言われる、河原に住んでいるような者がなった。河原に住んでいた理由は、河原が無税だったから貧しい者などが住んだという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説と、加工などの際の臭気などで人里から離れたところに住む必要があったという説などがある。河原者のつく職業には、皮革加工の他にも、河原者は井戸掘り、芸能(能の役者)、運搬業、行商、庭づくりなどの造園業などにも河原者が多く従事していた。
のちの江戸時代には、皮革業の職業の身分は「えた」とされ、「ひにん」という農民よりも低い身分と同様に扱われるようになった。
いっぽう、僧侶や武士などの職業も、死にふれる機会は多い職業だが、これらの職業は差別されなかった。
もっとも、皮革業なども商工業に必要な職業なので、皮革業などの職業からも商売で成功して金持ちになる者も出てきた。また、江戸時代には、必要な職業なので皮革業は差別されつつも、規制によって一定の保護もされた。明治時代の以降、職業の自由化にともなう競争により、皮革業などの職業の者の多くが没落し貧しくなったが、それ以前の時代は、必ずしも皮革業は貧しくなかった。
河原者の中で最も著名なのが庭師の善阿弥で、彼は足利義政にも仕え、銀閣寺の庭園を彼と彼の子と孫とによって作った。その他、京都の中世以降の石庭の多くは河原者(御庭者)の作である。
神道では、「けがれ」(穢れ)という思想があって、死は「けがれた」物だという考えがあり、それに関わることは良くないことだとされていた。仏教でも、殺生を嫌う考えがあった。このようなこともあり、皮革業などは、けがれの多い職業だと見なされており、「エタ」と言われた。エタは江戸時代ごろの後世には「穢多」という当て字をされた。「けがれ」(穢れ)の概念は、不衛生などの概念とは異なる。
農村の団結
[編集]農村の自治
[編集]室町時代には、農民の自治が前の時代よりも強くなった。 色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決める 寄合(よりあい) という集まりが開かれるようになった。
このような主体的な村を惣(そう)または 惣村(そうそん) という。このような惣は、産業が発達していた近畿地方から始まり、しだいに地方へも広がっていった。
- ( 近江国(おうみのくに) 今堀(いまぼり)の掟(おきて) )
- 一. 寄り合い(よりあい)を開くことを連絡したのに、2度出席しなかった者には、50文(もん)の罰金。
- 一. 森林の苗木を切った者は、500文の罰金。
- 一. 若木の葉をとったり、くわの木を切った者は、100文の罰金。
- (1488年『今堀 日吉神社文書』(いまぼり ひえじんじゃ もんじょ) )
近江(おうみ、今は滋賀県)の国の今堀惣(いまぼり そう、今は近江市)で、1488年に定められた。
翌年1489年には、つぎのような別の規則も定められた。
- 惣掟(そう おきて)
- 一. よそ者は、身元保証人が無ければ、村に住ませてはいけない。
- 一. 惣の共有地と個人の私有地との境界についての争いは、金(かね)で解決すること。
- 一. 家を売った人は、100文につき3文ずつ、惣に差し出す。これにそむいた村人は、座から、ぬく。
- 一. 村を囲っている塀(へい)より東には、屋敷にしてはいけない。
- (1489年『今堀 日吉(ひえ)神社文書(もんじょ)』 )
なお、現在も山間部の一部の村において寄合の風習がのこる地域がある。
一揆(いっき)
[編集]室町時代には、農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。 年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という強訴(ごうそ)をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう逃散(ちょうさん)などで、対抗しました。
- 土一揆(どいっき)
農民や馬借などは、あまり裕福ではなく、これらの貧しい職業の民は、当時は 土民(どみん) と言われていた。
この土民たちが集団で実力行使にでることを 土一揆(どいっき) という。
室町時代には、貨幣による経済がすすんできたので、生活苦の農民などは借金をする必要が生じました。そのため、借金のふくらむ農民などが多くなり、たびたび借金帳消しの徳政をもとめて高利貸しなどをおそって借金の証文(しょうもん)を焼きすてる土一揆が、よくおきた。
このような一揆のきっかけが、次にいう 正長の土一揆(しょうちょう の どいっき) である。
- 正長の土一揆(しょうちょう の どいっき)
近江国(おうみのくに、滋賀県のこと)の貧しい馬借(ばしゃく)たち運送業者が、京都で高利貸しをしている酒屋や土倉をおそい、幕府に徳政を要求した一揆である。 当初、幕府は徳政の求めには応じなかったので、一揆の民衆は借金の証文(しょうもん)を焼き捨てたり質物をうばうなど、実力行使(じつりょくこうし)に出た。
- 正長の土一揆を示した碑文
- 正長元年ヨリ
- サキ(先)者(は) カンヘ(神戸)四カン
- カウ(郷)ニ ヲイメ(負い目) アル
- ヘカラス
・
・オイメ(負い目) - 借金のこと。
1428年より先の借金は、神戸(こうべ)の4か郷では、帳消しにする。
奈良の興福寺(こうふくじ)大乗院(だいじょういん)の日記には、この正長(しょうちょう)の土一揆(どいっき)について、次のように書かれている。
- 『大乗院日記目録』(だいじょういん にっき もくろく)
- 正長元年(1428年)9月、天下の土民が暴動を起こした。「徳政」と唱え、酒屋・土倉・寺院をこわし、いろいろな品物を思うままに奪い取り、借金の証文を破り捨てた。管領が、この暴動を鎮圧した。国が滅びる原因として、この暴動以上の事件は無い。日本の国が始まって以来、土民の蜂起は、これが初めてである。
- 一向一揆(いっこう いっき)
また、北陸地方の加賀(かが、今で言う石川県)では、農民などが浄土真宗の一向宗(いっこうしゅう)を中心にして、一揆(いっき)によって守護を追い出し、それから自治が100年間ほど続いた。このような、一向宗を中心にした一揆のことを一向一揆(いっこう いっき)という。 一向宗の信仰では、蓮如(れんにょ)が中心的になった。
- 山城(やましろ)の国一揆(くにいっき)
京都の山城(やましろ)では、地侍(じざむらい)や農民たちの団結した一揆により、守護大名の畠山(はたけやま)氏を追い出し、自治を8年間ほど行った。これを、山城の国一揆 という。
室町時代の文化
[編集]禅宗などの影響はみられるが、鎌倉時代と比べると仏教色や大陸色は一層薄れたものになり、現代に伝統文化、伝統芸能と呼ばれるものの多くはこの時代にその源流が求められるものが多い。室町時代には、京都の文化が地方にも伝わっていった。
北山文化
[編集]足利義満(あしかが よしみつ)によって、北山(きたやま)の別荘として金閣(きんかく)が建立された。3つの階の1番下は寝殿造り、2階は武家風、3階は禅宗の様式となっており、公家と武家の文化がまざった造りになっている。後の禅宗の鹿苑寺(ろくおんじ)。
このころの文化のことを北山文化(きたやま ぶんか)という。
- 能(のう) - 田楽(でんがく)や猿能(さるのう)をもとに、観阿弥(かんあみ)と世阿弥(ぜあみ)の父子によって能(のう)が大成された。能の あいま には、喜劇として狂言(きょうげん)が演じられた。
東山文化
[編集]京都の東山に、足利義政によって銀閣(ぎんかく)が建立された。2層からなり、下の層は寝殿造り、上の層は禅宗の様式というように、内部の様式は金閣と似た様式になっている。後の慈照寺(じしょうじ)。(京都)
このころの文化のことを東山文化(ひがしやま ぶんか)という。
- 書院造(しょいんづくり) - 今日の和室の様式につながっている様式である。書院造には床の間(とこのま)があり、そこでは掛け軸などが飾られ、茶の湯や生け花などが行われた。 書院造の特徴は違い棚(ちがいだな)という棚が段差になった棚、障子や ふすま、 畳(たたみ)の床 、などである。銀閣の銀沙灘(ぎんしゃだん)を挟んで向かいにある、東求堂同仁斎(とうぐどう どうじんさい)にこの手法が用いられる。
- 枯山水(かれさんすい) - 竜安時(りょうあんじ)の石庭(せきてい)。
- 水墨画(すいぼくが) - 明から水墨画が伝わり、日本では雪舟(せっしゅう)によって大成された。
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水墨画。『秋冬山水図』(しゅうとうざん さんすいず)。 東京国立博物館の所蔵。
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雪舟の自画像。 禅僧だった雪舟は、中国に渡り、水墨画の技法を学んだ。 重要文化財、藤田美術館の所蔵。
- 御伽草子(おとぎぞうし) - おとぎ話に絵をそえた絵本であり、『浦島太郎』(うらしまたろう)や『一寸法師』(いっすんぼうし)や『ものぐさ太郎』などが庶民に親しまれた。
- 茶の湯 - 鎌倉時代に、宋から栄西(えいさい)がもたらした茶を飲む風習は、茶の産地を当てる茶の湯(ちゃ の ゆ)になった。
- 生け花 なども、室町時代ごろに始まった。
- 連歌(れんが) - 和歌の上の句(かみのく)と下の句(しものく)を、別々の人が詠んで、つないでいく遊び。