日本史/原始/弥生時代
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「弥生」の名の由来
[編集]- 弥生土器の名称は1884(明治17)年に東京都文京区弥生町ではじめてこの土器が発見されたので、この地名で呼ばれるようになった。また、この土器が使用されていた時代を弥生時代という。
弥生文化の成立
[編集]- 弥生時代の区分
- 紀元前8世紀~紀元後5世紀頃までの期間を前期、中期、後期の3期に区分する。
- 弥生文化の特色
- 金属器(青銅器・鉄器)の使用。
- 弥生土器の使用。
- 階級社会の成立
弥生土器の特色
[編集]- 焼成温度が高く(1200℃)、薄手で硬質である。赤褐色で文様は幾何学文様・無紋が多い。器形は壺型・瓶型・高坏型・鉢型などに分化している。
水稲耕作
[編集]- 伝来の経路
- 稲作は中国の長江(揚子江)下流域から直接北九州へ伝わった。
- 稲作の発展
- 代表的な遺跡
金属器の使用
[編集]- 大陸から鉄器と青銅器(銅矛・銅戈・平形銅剣・銅鐸)がほぼ同時に伝来した。青銅器は権力者の権威を示す祭器・宝器として用いられ、鉄器は実用品として使われた。
- 鉄器…武器や生産用具(農具・工具)として使用。
弥生文化の社会生活
[編集]- 集落
- 平野部の水田近くに竪穴建物を築き定住した。
- 生産力の発展や人口増加にともない大集落も現れた。
- 階級の発生
- 農産物の蓄積が可能になると、貧富の差や身分の差が生じ、強力な支配者も出現した。
- 葬制の変化
- 葬法…前代の屈葬から、遺体の手足を伸ばしたまま葬る伸展葬へ変わった。
- 墓制…九州北部では甕棺墓・支石墓・箱式石棺墓が作られ、噴丘のまわりに方形の溝をめぐらせた方形周溝墓も各地に作られた。後期には西日本に大きな噴丘墓が築かれた。
- 副葬品…中国製の銅鏡や銅剣・銅矛・勾玉・菅玉などが墓に入れられた。特定の墓にのみ副葬されている事から、階級の発生していた事がわかる。