病理学/病理学の歴史

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病理学と医学の歴史[編集]

病理学は英語で pathology というが、語源となったギリシア語は パトス pathos という語である。

※ 哲学などで感情・情念のことをパトス pathos というが、つづりは同じ。

古代[編集]

古代ギリシアでは、医学者ヒポクラテスが、それまでの宗教的な医学観をしりぞけ、解剖学的に病気を解明しようとつとめた。

しかし、ヒポクラテスの時代は研究手法が未熟であり、ヒポクラテスはあらゆる病気を血液・粘液などの体液に由来するものと考えた。 そして、「体液病理学」などと言われるような学問が、後進者などにより提唱された。

もちろん、ヒポクラテスのこの考え(体液病理学)は、現代からすれば間違っている。

しかし、ヒポクラテス以前の時代では、さらに間違った信仰として、精霊や悪霊によって病気が起きるという宗教観も蔓延していた。

古代ギリシアだけでなく、その前後の時代のメソポタミアやインドでも同様の、精霊や悪霊などによる病気観であった。

これらの宗教的な病気観と比較すると、一見するとヒポクラテスの学説は科学的に見えてしまう。

なので、2世紀にガレノスなどの古代人がヒポクラテスの理論を集積し、 そして中世までヒポクラテスの理論がヨーロッパ各地では信じられていた。

そのせいで中世まで、間違った治療法として、悪い体液を抜こうとして、たびたび、患者の血液を抜くことが、治療のつもりで医療として行われてしまった。 (※ 「瀉血」(しゃけつ)という。「瀉血」という用語は医学書では紹介されてないので、覚えなくて良い。)

しかし、現代でも、ヒポクラテスの倫理観は通用し、「ヒポクラテスの誓い」などに名残りをみる。(なお20世紀後半以降の現代では、医師の倫理の宣言として、『ヘルシンキ宣言』が世界医師総会によって宣言されている。)


また、炎症の研究をしてケルススは、紀元前1世紀のローマの人物である。 炎症における「ケルススの4主兆」は、現代でも、ほぼそのままの形で医学書に引用されており、現代に通用している。


なお、上記の瀉血(しゃけつ)のほかにも、あやまった医学の歴史はあり、具体例では、たとえば中世~近世には、傷をつけた武器や刃物に軟膏を塗ると傷口が治るだろうと考えられた事もある[1]。(※ 『武器軟膏』という。医学書には『武器軟膏』の用語は紹介されてないので、覚えなくて良い。)

ルネサンスの解剖学と生理学[編集]

ヨーロッパでは、10世紀や11世紀の頃には、人体の解剖が禁止された。

しかし、14世紀頃から、解剖が許可されるようになった。

人体解剖による知見の集積により、ルネサンス期には、イタリアの医学者ベサリウスが従来の通説だったガレノスの理論の間違いを指摘し、解剖学が修正されていった。 なおベサリウスは、画家の助けを借りて、写実的な大著『ファブリカ』を弱冠28歳で出版した。

そして、さまざまな医学者により、病死した患者の解剖をして研究をしていく、病理解剖学による研究が進んでいった。

なお、生理学では17世紀にはイギリスのハーヴェイが血液循環を発見した。

顕微鏡の発明とその影響[編集]

近世に入ると、顕微鏡が発明され、肉眼レベルの観察に加えて、ミクロの組織レベルの観察が可能になったので、飛躍的に研究が進んだ。

顕微鏡はオランダのヤンセン父子が16世紀終わり頃に発明したとされる[2]

そして、レーウェンフックやフックにより、血球や微生物や細胞が発見されていった[3]


しかし、病理学と細胞が結び付けられたのは意外と遅く、19世紀になってからウィルヒョウが「病気のもとは細胞にある」[4]および「すべての細胞は細胞から」[5]という格言を残した。

ウィルヒョウのこの2つの格言のうち、「すべての細胞は細胞から」は現代でも通用しており、医学教科書でも、よく紹介される。なおウィルヒョウは、解剖学で有名なミュラーの弟子である。ミュラーの弟子には、ウィルヒョウのほか、解剖学で有名なヘンレ、シュワン、および物理学で有名なヘルムホルツがいる。

「病気のもとは細胞にある」については、実際には感染症など、必ずしも当てはまらない場合もあるが、しかし当時は古代ギリシア由来の「悪い体液」が病気を及ぼすという概念から未だに脱しきれておらず、そのような旧来の間違った理論の「体液病理学」にトドメを刺すという意味があったと考えられる[6]


さて、19世紀の半ば以降になると、ホルマリン固定法などの固定法やパラフィン包埋法、カルミン染色やヘマトキシリン染色やエオジン染色などの染色法が発明されていった。

これらの古典的な固定法や染色法の多くは、21世紀の現代でも臨床の場では実務で使われており、この時代に現代につながる近代医学の手法の基礎が作られていった事が分かる。


ウィルヒョウの研究手法も、ヘマトキシリン染色も、ともに細胞の観察によるものである。

結局のところ、医学では細胞の観察が必要不可欠である。


21世紀現代では遺伝子工学などによる研究手法もあるが、医療や人体の仕組みが複雑なことや未解明なことも多いことなどから、現代でも臨床では引き続き、上述のような固定法や染色法が、実務において重要とされている。


さて、同じく19世紀、パスツールによる有名なフラスコ実験などにより、無から生物は誕生しない事が解明され、微生物学が科学的に進んだ。

のちに、コッホがさらに、結核菌などの発見をした(1882年)。

※ なお、大腸菌の発見は、1892年にエシェリヒが発見。黄色ブドウ球菌の発見は1878年で、パスツールが先行研究し、コッホが観察。

また、コッホは細菌の培養方法などの研究手法も整備し、コッホおよびコッホ以降の時代、細菌学が急速に進歩していった。


さて、日本で「明治維新」と呼ばれる開国が1868年に起きる。この時代、医学ではドイツ医学が世界をリードしていた。

そして北里柴三郎のペスト菌の発見や、志賀潔の赤痢菌の発見、野口英世の梅毒スピリヘータの発見につながる。

なお、解剖学の分野でも、田原淳がドイツのウィルヒョウ[7]のもと、心臓の刺激伝道系を発見している[8]

※ 外部サイトだと、田原が学んだのはアショフとされているが、しかし『スタンダード病理学』ではウィルヒョウとされている。

脚注[編集]

  1. ^ Bertram G.Katzung 著『カッツング薬理学 原書第10版』、柳澤輝行 ほか監訳、丸善株式会社、平成21年3月25日 発行、P1
  2. ^ 『標準病理学』
  3. ^ 『標準病理学』
  4. ^ 『標準病理学』
  5. ^ 『スタンダード病理学』
  6. ^ 『シンプル病理学』
  7. ^ 『スタンダード病理学』
  8. ^ 『スタンダード病理学』