軍事学概論

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本書『軍事学概論』は軍事学の基礎的事項について概観したものである。

戦争の理論[編集]

軍事学において戦争 (war)は中心的な主題の一つである。戦争とは複数の勢力が敵味方に分かれて戦っている紛争の状態であり、理論的には国家もしくは組織化された政治的団体による交戦状態を指す。軍事学では戦争状態に対して軍事的な安全保障を実現するために軍事力を準備、活用することを主要な問題とし、戦争で有効な軍事的能力を整備する問題は軍事組織の問題、戦争で効果的に戦う問題は戦略や戦術などの問題などと派生する。これらの諸問題の中で戦争は常に中心的な論点の一つである。ここでは戦争を生起させる諸要因と戦争を抑制する諸条件に着目して戦争の性質について概説する。

戦争の原因[編集]

組織的な暴力を以って人々が戦うという行為には社会的な要因が関係する。その社会的要因は同時に普遍的な要因であるために、歴史の中で戦争が繰り返されてきた。この戦争の原因に関する最も古い学説の一つとして知られているものがトゥキディデスの歴史的叙述により示唆されている。トゥキディデスはペロポネソス戦争の経過を記述するにあたって、政治指導者たちの演説を通じて両陣営が戦争の開始において何を考えていたのかを描き出している。そこで繰り返し描き出される戦争の誘因に敵国の脅威に対する恐怖、戦争により期待される利益、そして戦争によってでも維持されるべき名誉の三つである。ここではこれを軍事的要因、経済的要因、政治的要因に区分して述べる。

軍事的要因[編集]

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ヴェゲティウス・レナトゥス(生没年不明)は古代ローマの著述家。当時のローマの勢力が後退していた時代に復古的な軍制改革を主張した貴族階級の人物であると推測されている。傭兵ではなく厳格な規律に基づいたレギオンとそれに基づいた作戦について記述した『古代ローマ人の軍制』の著者として知られており、ヨーロッパの軍事思想史に重要な影響を及ぼした人物である。

戦争の原因における軍事的要因は軍事力の不均衡を意味している。ヴェゲティウスはこのことを逆説的な表現で「平和を望むならば戦争に備えよ」と語っている。この言葉は軍事力の優劣がはっきりしている場合において戦争の危機が最も高まることを指している。

戦争が常に強者によって弱者に対して行われることを警告したのはニッコロ・マキアヴェッリである。マキアヴェリが生きた15世紀から16世紀のフィレンツェではヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、教皇領、ナポリ王国の五代勢力の均衡が失われたために政治的変動と混乱が生じ、そこにナポリ侵攻を企図するフランスの介入を招いた。これに対抗するために教皇がヴェネツィアとスペインとの連合を結んでフランスを排除したが、これ以降フィレンツェでは外国勢力を交えた諸勢力の権力闘争が繰り広げられた。マキアヴェリはこのような時代の中で国家こそが重要な主体であると捉え、統治者の使命とは軍事的な安全保障を実現することであり、またその手段として軍事力が活用しなければならないという現実主義(realism)の政治思想の伝統を示した。

この現実主義の伝統はカーによってさらに発展されることになった。カーは第一次世界大戦後に戦争が違法化され、国際連盟が創設されたにもかかわらず第二次世界大戦の勃発をもたらした原因について分析した。そしてカーは当時の平和主義者や理想主義者が語る平和は単に現状を維持することで既得権益を維持できる勢力にとって望ましいものに過ぎず、そのような平和に世界共通の利益など存在していないと「平和の欺瞞」を指摘した。相互の軍事力がもたらす均衡を調整することが重要なのであり、それほど戦争の勃発と軍事力の存在は不可分の関係にあると論じた。

この軍事力と戦争の関係を戦後に理論化したのはハンス・モーゲンソーであり、戦争の原因を勢力均衡(balance of power)の概念で裏付ける現実主義理論で明らかにしようと試みた。彼にとって戦争とは現状を打破してでも新たに利益を追求することを試みる勢力が台頭し、均衡が破壊されることによって発生する状態であった。相手に対して勢力の均衡を調整するためには同盟(alliance)の構成が重要になってくる。同盟によって味方の軍事力の全体量を相手のそれに調整することが可能となるためである。しかし優位に立つ勢力によって戦争は開始されるという現実主義の妥当性は厳密に戦争を観察すると限定的であることが分かっている。オルガンスキーとカグラーは近代戦争の分析して圧倒的な優劣が明確である時期には戦争は発生していないことを明らかにした。つまり戦争にとって重要なのは事実としての勢力の完全な均衡ではなく、彼我の軍事力に関する双方の評価の均衡と関係している。自分の軍事力の評価と相手の軍事力の評価に相容れない点が生じると、両者は自らの優位性を信じて戦争に訴える決断を下すのである。

経済的要因[編集]

カール・マルクス(1818年-1883年)はドイツの哲学者。ベルリン大学を卒業し、社会主義の理論研究と政治運動に携わった。革命を提唱したエンゲルスとの共著『共産党宣言』の著者として知られており、後の革命戦略の思想に対して重要な影響を与えた。他の著作には『フランス内乱』、『資本論』などがある。

戦争の経済的要因とは一般に利益の配分が不平等である状態を指す。アリストテレスは内戦の原因について「どの場合においても、ひとは平等を求めて内乱を起こす」と述べている。この指摘は特定の勢力だけが経済的利益を独占し、かつ他の勢力がその独占によって著しい不利益を被っている状況において戦争の危険性が高まることを示している。このような経済的要因を取り上げた論者にカール・マルクスがいる。マルクスは国内における資本の発展に伴って社会階級の間に発生する経済的不平等を是正するための階級闘争を提唱した社会主義の思想家であった。

またマルクス主義の立場からウラジミール・レーニンは第一次世界大戦の性質を帝国主義戦争と特徴付けた。19世紀末から大企業による資本の独占が進展し、ヨーロッパ列強はアジアやアフリカに進出して植民地化を進めた。レーニンはこのような政策は資本の経済学的法則により形成されると主張し、この資本の運動はやがて全世界を列強の勢力圏に組み込み、最終的には列強の間での戦争へと展開すると考えた。

自由主義(liberalism)の立場からは貿易を通じて国際的に共有できる利益が確保することが可能であるとする比較優位の学説が提示され、国際的な経済交流により戦争の原因となる経済的不平等を取り除くことが考えられている。デイヴィッド・リカードは国際貿易の理論の中で自由な貿易活動により貿易当事国の双方が利益を獲得することができる比較優位説を提起した。しかしながら、マルクス主義の立場から考えればそのような通商関係とは権力闘争の延長であり、経済的な相互利益や平等を反映するのではなく経済的従属関係や不平等を反映するものであると見なす。歴史的事例から見ても第一次世界大戦が勃発する直前の参戦主要国の間には貿易関係が認められる。仮に経済的平等が確立されたとしても、それは必然的に一時的なものに過ぎない。各人に供給される経済的な利益が常に一定であると、人口の増加に伴って再び不平等状態が発生するためである。

マルサスは人口というものが1世代にあたる25年の間で常に倍加しうる一方で、人間の生活に必要な資源の生産能力を拡大するには限界があることを指摘した。人口は幾何級数的に増加する一方で資源は算術級数的にしか増加しない。その結果、時間の経過とともに生存に必要な資源が得られない過剰な人口が発生することになる。マルサスはこのような人口の法則に基づいて出生率の低下、疫病や飢餓、もしくは戦争がもたらされ、人口が生活資源に対して社会的に調整されると論じた。経済的要因としての不平等は人口や資本の法則に従いながら社会に出現する状態であり、それを認識して是正を試みる際に暴力的な手段が選択されることで戦争がもたらされる。

政治的要因[編集]

カール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780年-1831年)はプロイセンの軍事学者。シャルンホルストからの教育を受けており、ナポレオン戦争ではプロイセンやロシアでフランス軍と戦った。戦争の暴力性と政治性の法則について論じた『戦争論』の著者として知られている。他の著作には『1812年のロシア戦役』、『フリードリヒ大王の戦役』などがある。

戦争の原因の中でも合理的な軍事力の均衡や経済的な利益に基づいた軍事的要因や経済的要因と異なり、政治的要因はその本質として必ずしも合理性に支配される要因ではない。戦争と政治の関係を理論的に明らかにしたクラウゼヴィッツは「戦争とは他の手段をもってする政治の継続にほかならない」と述べた。なぜなら、クラウゼヴィッツは戦争はそれ自体は我の意思を敵を強制する暴力行為であるものの、「それ自身の法則を持っているが、それ自身の論理を持たない」と考えていた。この見解に基づけば戦争の目的とは政治によって決定されるものである。

アリストテレスは人間という存在が生まれながらにして政治的動物であるという命題を立て、国家が必然的に成立したものであると主張した。人間の政治的本質についてハンナ・アーレントは人間が言語を発することが可能な存在であることからアリストテレスの考察を発展させる。つまり、人間とは表情や身体、口調や意味合いを他者に伝達することができるものであり、この言語の活動によって政治共同体が成り立っているのである。この学説は人々を結合させる言葉の力が衰退することで共同体は解体することになることを示唆するものである。

その一方でトマス・ホッブズは異なる立場から国家という政治秩序が自然状態の「万人の万人に対する戦争」から自身の生存を確保するために構築されるものと位置づけられている。ホッブズのような人間の本性に対する見方に立脚しているカール・シュミットは人間の政治的本性が対立的であるという認識から、政治の本質について「政治的な行動や動機がそこへと還元される政治に特有の区別とは友と敵の区別である」と論じた。ここでの敵概念とは便宜的な競争相手という意味ではなく、現実の存在としての異質な他者を意味し、その究極の形態が殺戮によって存在の様式を否定する絶対敵である。政治はその原理として誰が敵であるかを決定し、またどの程度において敵であるかを定めうるものである。

シュミットが指摘したように他者がどのような敵となるかは政治イデオロギーの対立として理解することができる。政治イデオロギーは人間の本性、歴史観、理想の社会を規定する観念の体系であり、フランス革命の革命思想を掲げたフランスは他のヨーロッパの君主制国家から成る反仏大同盟の抵抗を受けてナポレオン戦争が発生し、また自由主義を掲げるアメリカと西側陣営、そして共産主義を掲げるソビエトと東側陣営は自らのイデオロギーを巡って対立を深め、冷戦の勃発を招いた。クラウゼヴィッツが指摘したように、戦争という暴力行為は常に政治の影響下に置かれながら発生、展開するものであり、他の社会的現象から孤立した軍事問題では在り得ないと考えられる。

平和の条件[編集]

平和の条件と平和を実現するための計画を考案した学説は何らかの形で18世紀以後のヨーロッパで普及した啓蒙主義の思想と関係している。そもそも戦争とは歴史で繰り返されてきた人間社会の現実であった。しかし理性を以って普遍的な法則を理解してその法則を応用しながら世界を改善することが可能であるという啓蒙思想の考え方は、そのような戦争状態が発生することを防ぐ条件についての規範的な考察を促した。ここでは政治的要件、法律的要件、道徳的要件に大別して概説する。

制度的要件[編集]

イマヌエル・カント(1724年-1804年)はプロイセンの哲学者。ケーニヒスベルク大学で神学や自然学を学び、家庭教師などを経て同大学の哲学教授に就任した。認識論や倫理学の研究を行ったが、自然状態から脱却するための国際平和を実現する政治秩序を提唱した。著作には『人倫の形而上学』、『永遠平和のために』などがある。

平和の条件における政治的要件として制度がしばしば挙げられる。自由主義の哲学者であるジョン・ロックは個人が生まれながらにして平等に生存や財産に対する権利が神から与えられているという前提から出発し、個々人の権利を協力して保護するために自身たちによる自由な契約に立脚して政府が樹立されなければならないと論じた。これは一国内において公正な政治制度を確立することによって、平和状態を達成しようとする構想である。

このような制度による平和という観点から国際平和の問題に取り組んだのがイマヌエル・カントであった。カントが生きた時代のプロイセン王国は周辺諸国との戦争を繰り返していた時期であり、特に1792年に勃発したフランス革命戦争ではプロイセンを含む対仏大同盟とフランスとが対決していた。カントはこのような事態から世界平和の構想について国内の政治制度が民主主義的なものでなければならないと論じている。カントの見解によれば、そもそも戦争は市民にとって忌避すべきものであり、したがって市民の意思を政府に反映する代議制や権力分立という共和制の制度が確立されていれば、国家は必然的に戦争を行うことが極めて困難となり、平和的解決を志向するようになる。したがって、敵対する国家でも相互に共和制を採用すれば、危機的状況が発生したとしても相互に信頼することが可能となる。さらにこのような国家が互いに連合体制を構築し、国際的危機を平和的に解決するための国際機関を創設することによって、国際平和を恒常的に維持することが可能となるとカントは主張した。このようなカントの主張を継承した民主的平和理論(democratic peace theory)があり、研究によれば国際政治史において民主主義国家と非民主主義国家の間の戦争は繰り返されてきたが、民主主義国家同士の戦争が極めて少数であることを発見し、その理由として民主主義国間においては世論の動向により政府の行動が左右されることが指摘された。

またカントの平和連合の構想は第一次世界大戦後の国際連盟、そして第二次世界大戦後の国際連合により実践されており、戦争の違法化と侵略行為に対する国際的協調に基づいた制裁の機能が準備された。また制度により国際平和を実現しようという試みはさらに国際レジーム(international regime)の形成によっても行われている。ステファン・クラズナーは国際レジームが国際関係において利害に関する期待を収斂させる原則や規範、政策手続の集合だと定義しており、例えばウィーン会議以後のヨーロッパにおいて成立していたヨーロッパの協調とは一種の安全保障の国際レジームであったと言える。

法律的要件[編集]

フーゴー・グロティウス(1583年-1645年)はオランダの法学者。ライデン大学で学んで官職に就くが、内乱のためフランスに亡命することになった。自然法の概念に基づいて近代国際法の基礎を理論化し、同時に戦争についての自然法の規制を論じたことで知られる。著作には『自由海論』、『戦争と平和の法』などがある。

平和の条件としての法律的要件は国際法を意味しており、特に国家による武力行使を規制する戦争法規が重要な要件である。かつて古代ローマのキケロは「理由なしに企てられた戦争は不正である。なぜなら、復讐あるいは敵の撃退という理由以外に、いかなる正しい戦争も行うことができないからである」と述べて正しい戦争のあり方を定義した。キケロの定義はヨーロッパの正戦論の起点となり、トマス・アクィナスやアウグスティヌスのスコラ学的な正戦論に発展していった。自然法論の立場に立っていたフーゴー・グロティウスの学説は戦争の正当化の条件として防衛、回復、刑罰の三つであると定めている。

また戦争とは避けがたい不知によって交戦国の双方が自身の正当性を主張しうると認識し、その法的効果は両者に平等となると考えていた。このグロティウスの見解は戦争の法的規制の在り方をめぐる議論を引き起こし、国家の安全保障や独立、名誉のために戦争行為を認める学説や戦争を紛争解決手段としてのみ認める学説が示された。その結果として正しい戦争と不正な戦争の区別が法的に困難であるという合意に基づき、戦時国際法は当事国の双方に対して公平に適応されるものと考えられるようになった。

しかし、同時に武力行使を一般的に規制する国際法が成立するようになり、国際連盟の設立条約である国際連盟規約によれば、加盟国は「戦争に訴えさるの義務」を受諾し、平和的手段によって解決された紛争で武力を行使することを禁止した。この戦争の違法化は不戦条約でも明確に示され、国際紛争の解決手段としての戦争を否定しただけでなく、国家政策の手段として戦争を放棄することが定められた。また戦後の国際連合憲章では武力の行使だけでなく武力による威嚇にも規制が拡大されることになった。

現在の国際法では間接侵略を含むあらゆる武力の使用が禁止されていることが確認されており、領土の保全や政治的な独立を軍事力によって侵害することに対しては国際連合として制裁を加えることが定められている。国際連合では平和に対する脅威を与える行為や侵略行為を認定して必要な措置をとる安全保障理事会が設置されており、平和に対する脅威または平和の破壊を認定することによって、即時停戦や兵力の撤退を当事国に要請、または勧告することや、非軍事的措置と軍事的措置を発動する権限が準備されている。ただしこのような法的構造の中でも国家が自衛権に基づいた場合は武力行使が許されている。自衛権とは自国の主権に対する重大な侵害がある場合にそれを実力で排除する権利である。したがって、現在の国連憲章の下においても国家は自衛に限定する範囲において武力行使が可能であり続けており、その許容範囲は個別的自衛権だけでなく集団的自衛権も含まれている。

道徳的要件[編集]

マイケル・ウォルツァー(1935年生)はアメリカの政治哲学者。ハーヴァード大学で博士号を取得し、プリンストン大学やハーヴァード大学で教鞭をとった。共同体主義の政治哲学の研究で知られており、また戦争における道徳性を正戦論として考察した。著作には『正しい戦争と不正な戦争』、『戦争を論ずる』などがある。

平和の条件としての道徳的要件とは国際法学の領域とは異なる道徳哲学の領域に属する問題であり、具体的には戦争を規制する正義の要件を指している。戦争に道徳的性質を一切認めない平和主義の立場に立脚すれば、戦争を道徳的に正当化することは認められない。ガンジーは真理とは行動で示すものであり、それは肉体的な行動を精神により統一する純潔と一切の生命を傷つけない不殺生により示すことができると考えた。そしてこの非暴力の思想により恒久平和が実現するならば自国が犠牲になることも許容できると説いた。このようにガンジーは完全な非暴力を正義と同一視しているが、逆に暴力に正義を見出す現実主義の立場もある。

ホッブズは個人の自己保存を追求する行為は平等に与えられた自然権で正当化し、平和を望むことができないならば生存のために万人により戦われる戦争を許した。なぜならば、戦争状態において法は存在せず、したがって正義と不正義は判断しえないためである。これら両者の立場から区別するべき立場として正義の戦争と不正義の戦争を識別する正戦論の立場がある。現代における正戦を論じた哲学者マイケル・ウォルツァーは暴力行為が行われる戦争においても道徳的判断が存在することを前提とし、戦争への正義としての開戦法規と戦争における正義としての交戦法規の二重構造を戦争のジレンマとして扱っている。

例えば正しい戦争が生じればそれに必ず勝利しなければならず、そうでなければ不正な立場にあるはずの当事者が戦争により利益を得ることとなるためである。しかしながら、相手が不正行為である軍事行動に出ればそれに対抗して不正行為を行うことはどれほど道徳的に許容できるのかは自明ではない。ウォルツァーはこの勝利と適切に戦うことのジレンマに対して最高度緊急事態に対してのみ戦争放棄は無効とされうることを提唱している。ウォルツァーのような正戦論の立場に属しながらウォルツァーとは異なる議論としてジーン・ベスキー・エルシュテインの見解がある。彼女もウォルツァーと同様に戦争の正しさと戦争における正しさを区別しながら、戦争において使用する武力の程度は相手の脅威との比例しなければならず、また戦争において非戦闘員を保護しなければならないことを正当化の要件としている。

軍事学の方法[編集]

学問としての軍事学は問題の原因や性質などを考察する理論と問題に対する解決策を考察する実践の両方を包括する学問である。したがって学問としての方法論についても経験的方法と科学的方法、実践的方法が用いられる。伝統的に軍事史の研究が重要な位置を占めてきてきたが、その戦史から抽出された教訓は実践の中で経験的に修正しながら発展してきた。現代では科学的方法が導入されており、数学的モデルや統計調査に基づいた研究も行われている。

哲学的方法[編集]

哲学的方法の伝統は古代ギリシアで確立されたものであり、軍事学にその方法論を適用した研究者にクラウゼヴィッツがいる。哲学的方法は「どのようにあるか」を問う記述的問題だけでなく「どのようにあるべきか」を問う規範的問題にも対応できる方法論である。したがって、「統合作戦において海上兵力はどのように運用するべきか」、「攻勢と防勢のどちらを一般的に採用するべきか」などの問題に対して概念化とその概念の適応、前提の精査を通じて応答することができる。クラウゼヴィッツはヘーゲル哲学の弁証法の方法に示唆を受けながら戦争理論を構築しており、理念としての戦争の法則と実態としての戦争の事例を総合することで戦争の一般理論を提唱した。その戦争の一般理論に基づきながら戦略と戦術の概念を定義しており、軍事力の運用が依拠するべき原則が何であるかを明らかにしている。

歴史的方法[編集]

軍事学において戦略や戦術の原則や適用、軍事組織の構成、情報活動、兵站の機能などの主題は軍事史、特に戦史の観点から研究が伝統的になされてきた。マキアヴェリは古代ローマのレギオンから着想を得て近代国家の下に訓練された自国民から組織される常備軍を設置することを提唱し、シュリーフェンはハンニバルが戦ったカンネーの戦史から戦争の原則を抽出して戦争計画シュリーフェン計画に採用している。クラウゼヴィッツの戦争理論もフリードリヒ2世の戦史とナポレオン1世の戦史の研究に基づいて構築されている。このように軍事研究において軍事史は伝統的に教訓と示唆を与えてきた。

この歴史的方法の前提にはある特定の歴史観を認めることができる。それはモルトケが「平和の間に戦争を教える最も効果的な手段」と位置づけたことに示されるように、過去における事象が将来の事象を理解する上で有用であるはずという教訓主義である。またリデル・ハートが歴史を「普遍的な経験」と述べたように、平和が実現できたとしても過去に繰り返されたように戦争は将来において再来するものであるという循環史観が採用されている。

科学的方法[編集]

軍事学において科学的方法が導入されたのは18世紀から19世紀にかけての出来事であった。もともと17世紀にデカルトやライプニッツなどによって発展された合理主義の哲学、また同時期にロックなどにより確立された実証主義の思想によって科学的方法の哲学的基礎が提供された。

軍事思想史において科学的方法を採用した初期の研究者にヘンリー・ロイドとジャック・ギベールがいる。彼らはそれまで原理や法則の研究が未発達であった軍事研究に普遍的法則や一般的原理の観念を持ち込んだ。そして優れた戦略とは軍事的天才の独占物ではなく、理論化が可能な一個の技術であるものと捉えることを提唱した。この啓蒙的な軍事思想はプロイセンの軍事思想家たちに継承され、シャルンホルストが陸軍大学校を創設した際に軍事科学という研究領域が学問的にも制度的にも確立されるようになる。プロイセンで発達した軍事研究の科学的方法の一つに図上演習がある。19世紀にバロン・フォン・ライスヴィッツが砂盤演習の方法を軍事教育として洗練し、地図上に示した戦闘状況に演習員が応答することで戦術的思考と指揮能力を訓練することが可能となった。現在では戦闘損耗に関するランチェスターの法則などの数学的モデルが導入されるなど、軍事研究において重要な方法論として使用、発展されている。

軍事史学[編集]

軍事学における戦争、戦闘、軍事制度の分析の方法として軍事史の研究は中核的な位置を占めている。軍事史は慣習的に専門的観点と学術的観点から研究されており、作戦・戦闘の歴史を調べる専門的観点が伝統的な軍事史の基礎となっている。軍事史学の独自性とは戦略、戦術、兵站のような要素や指揮官の技能や決断、兵器や軍事制度の特性や影響に着目することであり、これらの着眼点から他の歴史学全般から区別することができる。ここでは軍事史を研究する上での基本的な理論的立場を踏まえた後に、古代から現代までの軍事史を概観する。

軍事史の理論[編集]

専門的軍事史[編集]

ハンス・デルブリュック

新しい軍事史[編集]

近世以前の軍事史[編集]

古代の軍事史[編集]

トゥキディデス(前460-395年)はアテネの将軍であり、歴史家である。ペロポネソス戦争においてアテネ軍の部隊指揮官として戦うが、戦闘の敗北責任から追放刑に処され歴史家となる。ペロポネソス戦争に対して現実主義的な叙述を行っている。著作は『戦史』がある。

中世の軍事史[編集]

近世の軍事史[編集]

ナポレオン・ボナパルト(1769年-1821年)はコルシカ島出身の軍人であり、フランスの皇帝である。フランスで政権を掌握し、その後の戦争でも勝利を重ねてた。迅速に機動し敵に奇襲をかける戦争術を実践した。彼の軍事思想は『ナポレオン格言集』から研究することができる。

近代の軍事史[編集]

現代の軍事史[編集]

戦略学[編集]

戦略の概念[編集]

戦略の原理[編集]

フリードリヒ2世(1712年-1786年)はプロイセンの国王である。1740年に即位してから2度にわたるシュレージエン戦争、七年戦争、バイエルン継承戦争などの戦争を指導した。軍事研究にも取り組み、戦略だけでなく戦術についても考察している。著作には『軍事的遺言』や『七年戦争史』などがある。

戦略の応用[編集]

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戦術学[編集]

戦術の理論[編集]

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攻勢作戦の要則[編集]

アルフレート・シュリーフェン

防勢作戦の要則[編集]

兵站学[編集]

軍事行政[編集]

補給・輸送・衛生[編集]

戦闘の損害[編集]

陸上作戦[編集]

陸上戦力の役割[編集]

陸戦の基本特性[編集]

陸軍の装備体系[編集]

海上作戦[編集]

海上戦力の役割[編集]

海戦の基本特性[編集]

海軍の装備体系[編集]

航空作戦[編集]

航空戦力の役割[編集]

空戦の基本特性[編集]

空軍の装備体系[編集]

軍事地理学[編集]

地政学[編集]

軍事地誌学[編集]

地形分析[編集]

国際法と戦争[編集]

国際法の秩序[編集]

国際安全保障[編集]

武力紛争法[編集]

指揮・統率・管理[編集]

指揮[編集]

統率[編集]

管理[編集]

情報作戦[編集]

情報戦の理論[編集]

偵察・監視[編集]

保全・防諜[編集]

安全保障[編集]

軍事政策[編集]

外交政策[編集]

平和作戦[編集]

軍隊組織[編集]

政軍関係の理論[編集]

軍隊と社会[編集]

軍隊と経済[編集]

軍事技術[編集]

電子戦[編集]

ミサイル技術[編集]

大量破壊兵器[編集]

ジョン・フレデリック・フラー(1878年-1966年)はイギリスの軍人である。イギリス陸軍の将校として第一次世界大戦に従軍し、陸軍大学校での教育と研究に携わった。機甲部隊によって敵の防御陣地を突破する戦闘教義を開発した。彼の著作には『第一次連盟戦争』、『機甲戦についての講義』、『戦争の指導』などがある。
ウラジミール・レーニン(1870年-1924年)はロシアの革命家である。カザン大学で社会主義を研究した後に、ロシアでの革命運動を指導した。帝国主義戦争の分析と国家を暴力で転覆する革命戦略について論じている。著作に『帝国主義論』、『国家と革命』などがある。
イヴァン・ブロッホ(1836年-1902年)はポーランド出身の実業家である。銀行員として勤務したが、後に鉄道事業に携わり、ポーランドとロシアの鉄道建設に貢献した。普仏戦争の後に戦争研究を発表し、軍隊の大規模化、軍事産業の観点から長期的消耗戦の戦争の発生を予測した。著作には『将来の戦争』がある。
エーリヒ・ルーデンドルフ(1865年-1937年)はドイツの軍人であり、政治家である。第一次世界大戦ではドイツ軍の参謀として戦っていたが、後に参謀次長としてドイツの戦争指導に携わり、戦後はナチ党の政治家へ転身した。戦争が軍隊だけで行われるのではなく、国民をも巻き込む総力戦へと本質的に変化したと主張した。著作に『世界大戦を語る』、『国家総力戦』などがある。
ヘンリー・キッシンジャー(1923年生)はアメリカの外交官であり、政治学者でもある。ハーヴァード大学で博士号を取得して同学で教授となるが、ニクソン政権で政界に入り安全保障政策に携わるようになった。現実主義に基づいた欧米の外交史と核戦略を理論化した研究成果で知られているだけでなく、実際の実務においても業績が認められている。著作に『核兵器と外交政策』、『回復された世界秩序』などがある。
トマス・シェリング(1921年生)はアメリカの戦略研究者である。ハーヴァード大学で経済学の博士号を取得し、政府組織で勤務した後にイェール大学やハーヴァード大学で教鞭をとる。ゲーム理論の領域で研究を進め、外交を交えた戦略的行動についての理論を提唱した。著作に『紛争の戦略』などがある。
ライモンド・モンテクッコリ(1609年-1680年)はオーストリアの軍人である。三十年戦争で伯父のエルンスト伯爵の連隊に将校として所属し、時には捕虜となりながら各地の戦闘を転戦した。戦争の合い間に著述を行い、戦争の法則や政策との関係を研究した。著作には『戦争論』、『兵術論』などがある。
オットー・フォン・ビスマルク(1815年-1898年)はプロイセン、ドイツの政治指導者である。ベルリン大学を卒業し、プロイセンの首相としてドイツ統一を牽引してドイツ帝国の初代宰相となる。晋仏戦争を指導しただけでなく外交手腕を発揮してビスマルク体制と呼ばれる国際関係を構築した。
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べジル・リデル・ハート(1895年-1970年)はイギリスの軍事史家であり戦略研究者である。ケンブリッジ大学で学び、陸軍将校として第一次世界大戦で戦い、戦間期から軍事問題に関する著述と評論を行う。機甲部隊の戦略的効果を指摘し、戦略理論の発達に寄与した。著作に『戦略』、『戦車』などがある。
ハインツ・グデーリアン(1888年-1954年)はドイツの軍人である。ドイツ陸軍の将校として第一次世界大戦では部隊勤務を経験し、第二次世界大戦で師団長として戦歴を重ねる。機甲戦術の研究を行い、機動力を最大限に発揮する教義を開発して陸軍の自動車化を指導した。著作に『戦車に注意せよ』、『電撃戦』などがある。


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近代において軍隊(armed forces)はナショナリズム、代議制、憲法、官僚機構、警察組織などと並んで国民国家の基盤であり、歴史的にはヨーロッパで近代的な軍隊が形成されたが、列強が植民地化を進める過程でアフリカやラテンアメリカ、アジアなどにも同様に導入されていった。軍隊は軍事行動の中心的な主体であり、国家の下で国防の責任を担っている武装した社会集団である。近代以前において市民兵によって軍隊が組織されていたが、18世紀から19世紀にかけて社会の産業化や軍事知識の専門化が進むにつれて職業軍人が軍隊を組織するようになった。また軍隊では軍事的機能に組織を特化させるために一般の社会とは異なる制度や慣習が定着している。そのために社会に対して軍隊は独自の組織的特性を備えている。ここでは軍隊について概説するために、軍事組織、文民社会、そして政軍関係の観点から論じていく。

グスタフ2世(1594年-1632年)はスウェーデンの国王であり、軍の指揮官である。スウェーデン・ポーランド戦争や三十年戦争で戦争を指導し、またスウェーデン軍の近代化を促す軍制改革を実施したことから、その教義や制度は諸外国でも参照された。その軍事的業績によってバルト帝国の基礎を築いた。
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