電磁気学/電磁場/第一類/真空電磁場の基本法則/場の概念

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

正負にそれぞれ帯電した 2 個の小球が空間にある距離をおいておかれたとき,それらのあいだに引力がはたらく. これによく似た現象として有名な Newton の万有引力の法則がある. 万有引力は物体間の作用を媒介するものは何もなく,直接物体間に力がはたらく遠隔作用によるものであると考えられている. 電気的な力も,万有引力の場合とおなじく,遠隔作用によるものであると解釈する立場がある. 一方電気的作用にたいして,次のような比喩による描像をえがくことも可能であろう. いま容器に水銀をみたし,その上に適当なガラス球を 2 個うかべたとしよう. それぞれのガラス球のまわりの水銀表面は,ガラス球の重さのためゆがんでいる. これらのガラス球を近づけると,それらは水銀の表面張力のために引きつけられ,たがいに接触するにいたるであろう. このとき,もし水銀をみることができないとすれば,われわれはこのガラス球間には引力がはたらいていると考えるであろう. 真空内に帯電体球をおいたときも同様に,そのまわりの真空中にはある種のゆがみを生じ,そのゆがみが真空中に伝わることにより,帯電体間に引力をひきおこすと考えるのである. このように真空中のゆがみを媒介として電気的作用が伝わるという考え方が近接作用の立場である.

物理学の目的は物理的現象を正確に記述することであるという考え方があるが, 近接作用の立場は単に自然現象を記述するにとどまらず, どのようにして帯電体球のあいだに力がはたらくかという‘からくり’にまでたちいる点で説得力をもつという利点がある. しかしこのような模型的な解釈が,かならずしも正しいとはいえないことは後にくわしくのべる. これらの二つのいずれの立場にたつにしても,それぞれの立場で電気的現象を記述したとき, それからえられる物理的結論がまったく同等であるならば, いずれの立場をとるかは単に各自の趣味の問題にすぎず, 物理学的見地からは二つの立場はまったく同等である. しかしながら,もしそれらの立場からみちびかれる結論に,何らかの相違があるときには,実験事実がそれらのあいだの優劣を決定してくれるであろう.

真空中に帯電体球が孤立している場合を考えてみよう. 遠隔作用の立場では,帯電体球のまわりの真空はそれがないときと比べて何の変わりもない. 他の帯電体があらわれたとき,はじめてそれに対して作用をおよぼす. したがって,孤立した帯電体球をはげしく振動させても,そのまわりの真空中には何事もおきようはない. 近接作用の立場にたつと,事情は一変する. このときは,ほかに帯電体があるなしにかかわらず,孤立した帯電体球のまわりの真空はゆがんだ状態にある. 水銀にうかべたガラス球に例をとるなら,孤立したガラス球のまわりの水銀表面は,他のガラス球のあるなしにかかわらず,ゆがんだ状態にある. このガラス球をはげしく振動させてみよう.明らかに,水銀表面のゆがみは波動として水銀面上を伝播していくであろう. そして,じゅうぶん遠方にある他のガラス球を振動させるであろう. 同様に帯電体を真空中ではげしく振動させると,そのまわりの真空のゆがみは波動として真空中を伝播していく可能性がある. この結論は近接作用特有のものであって,遠隔作用の立場からはでてこない. 上にのべた真空中を伝播する波動こそ実にわれわれのよく知っている電磁波なのである. したがって現在ではこれらの二つの立場の優劣はきわめて明らかであるから,ここではもっぱら近接作用の立場から電磁気の理論を解説する.

近接作用の立場をとるとき,ただちに問題になるのは,真空の‘ゆがみ’とはないか,ということである. 水銀面上のゆがみの場合はそれを純力学的効果とみなすことができる. 電気的作用の場合には,何もない空虚な空間すなわち真空がゆがむというのである. ‘ゆがみ’を考えるためには,それを生ずる母体の存在を予想せざるをえない. Newton 力学万能の 19 世紀前半の物理学者は,いわゆる力学的自然観にもとづいて,‘ゆがむもの’の存在を仮定することにより, 電気的現象を Newton 力学の問題に還元しようとこころみた.すなわち‘真空’と考えられている空間は, 人間の五感ではその存在を感知することのできないある種の力学的性質をもつ物質によりみたされていると考えた. この物質を エーテル(ether) となづける.このエーテルの力学的振動が電磁波であるとするのである. しかし不幸にして,このような試みはまったく失敗におわったのである.

自然現象にたいしてある種の模型をつくり,それにもとづいて現象を解釈することは,その研究の所期の段階においてはきわめて有効な場合が多いが, その模型にとらわれてしまうと,往々にしてその現象の本質が見失われてしまうことはよくあることである. 上の失敗はエーテルの検出という問題によって,決定的に明らかにされた. 宇宙がエーテルなるものによってみたされているならば,そのエーテルの静止している空間を絶対静止の空間と考えることができるであろう. 絶対静止のエーテルが実在するものならば,それを物理的現象によって検出することができるはずである. その方法の一つとして,エーテルに対する地球の絶対速度の測定があげられる. 電磁波(光波といってもよい)はエーテルに対して光速度で伝播するから,エーテルに対して運動している地球上からみると, 光の速さはその方向により異なってくるはずである. この相違を検出することにより,地球のエーテルに対する絶対速度を知ることができ, それはまたエーテルの実在を検証するものと考えられる. しかるに,あらゆる努力にもかかわらず,地球のエーテルに対する絶対運動を検出することはできなかった. 絶対静止のエーテルの存在は否定された.これがきっかけとなって,かの有名な特殊相対論がつくられたのである. 電気的現象を力学的に解釈しようという試みは,20 世紀初頭において,まったくすてさられた.

電気的現象を力学的模型により説明することができないということがはっきりしたいま, われわれは近接作用による真空のゆがみというものをどのように理解したらよいであろうか. 手がかりは真空という言葉にある. その言葉の示す意味から,われわれは‘真空’を何もない空虚なひろがりのみをもつ数学的な 3 次元空間と考えがちである. しかし,われわれのまわりにひろがる真空空間が,そのような空虚な何も物理的性質ももたないものであるという先験的な理由はまったくない. 一見無にすぎない真空空間がおもいがけない物理的性質をもつか否かは,実験によりはじめてたしかめられるものであって,はじめから無にすぎないと考えることは,まったく独断にすぎないというべきであろう. むしろ電気的現象は物理的真空の性質の一端を解明する手がかりをあたえたものと考えるべきであって,何もない真空に‘ゆがみ’ができるわけがないという考え方は,真空がまったく物理的性質をもたない空虚なものであるという先入観にわざわいされているのである. くりかえしていうと,われわれの真空空間は物理的な真空空間であって,その性質は実験によってのみたしかめられる. 現在の時点において,自然記述のもっとも基礎的理論であると考えられている場の量子論においては,電気的現象のみならず,物質を構成する素粒子さえもが,物理的真空における波動現象としてとらえられており,真空は空虚どころか背負いきれぬほどの複雑な性質をもつものと考えられる.

帯電体が物理的真空にあるとき,物理的真空自身の性質によって,そこに物理変化を生ずる. この変化の空間的分布を電場(electric field) という. 電場を記述するには,ある時刻 のある場所(その座標を であらわす)における物理的変化の大きさ,すなわち電場の強さをあらわす量 をもいちる(以下においては をまとめて であらわし, と略記する.注意すべきことは, なるベクトルの関数ということではなく, を独立変数とする関数であることである.). この は 3 次元空間におけるベクトル量であり,空間のすべての点 において定義される. したがって,空間内に適当な表面を考えると,その面上の各点においてベクトル があたえられて,それらを矢じるしであらわすと,あたかも麦畑のような図ができるので,これを場 (field) となづけた. 時間とともに,その矢じるしの方向と大きさが変化するさまは,麦の穂が風にそよぐ様子に似ている. 念のため注意しておくが,上の は空間の各点の場所を指示するパラメーターであって,物理量ではない. 質点の力学において,粒子の位置を同じ という文字でかくことがあるが,このときの は時間 をパラメーターとして,粒子の位置という物理量 という物理量を示すもので,上記の場所を指定するパラメーター と混同してはならない. は空間内の各点 において,それぞれあたえられる物理量であるから, が連続的数値をとりうることに対応して,場 連続無限の自由度をもつ物理的体験を表現するものであると考えられる.この章においては,物理量である電磁場がどのように決定されるかという基本法則をあたえる.