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高校受験社会 歴史/ビスマルク体制

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

発展: ドイツとヨーロッパ

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ドイツの統一とビスマルク

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(※ ビスマルクなど本節の内容については発展内容の単元。現在の検定教科書では範囲外。市販の参考書などには「ビスマルク」「鉄血政策」などは記述されている。)
『ドイツ帝国の成立』(アントン・フォン・ヴェルナー画) 即位の場所はフランスのベルサイユ宮殿である。占領したフランスで即位を行っている。画像中央ちかくの白い服を着た人物がビスマルクである。
ビスマルク

フランスは市民革命などによって国力が強化した。いっぽう、周辺国であるドイツ地方では、フランスなどへの対抗が必要になった。ドイツはそれまで小国に分かれていたが、ドイツで統一が進んだ。そしてドイツ地方でプロイセン(「プロシア」ともいう)を中心にドイツ内の統一が進み、統一のさまたげになるフランスやオーストリアなどとプロイセンは戦い、1871年にドイツは統一されドイツ帝国になった。プロイセンの王ヴィルヘルム1世がドイツの皇帝になり、ドイツ(プロイセン)の宰相(さいしょう)のビスマルクが首相として実際の政治を行った。

ドイツは工業化および軍事力の増強の政策を推し進めた(おしすすめた)。これらビスマルクの主導する政策は「鉄血政策」(てっけつ せいさく、独: Blut und Eisen)といわれ、そのためビスマルク本人は「鉄血宰相」(てっけつ さいしょう)と言われた。

 「現在の問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」 (ビスマルクの演説の要約)


 ビスマルクの鉄血政策(要約)

ドイツが期待するべきは自由主義ではなく武力である。プロイセンは力を蓄えておかねばならない。現在の問題は、演説や多数決によってではなく ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― 、鉄と血によってのみ解決される。

ビスマルクの外交政策では、ドイツに脅威になる周辺国があらわれないようにヨーロッパの勢力の均衡を重視し、時代によってドイツと組む相手国を上手く変えていった。また、フランスをドイツの脅威(きょうい)となる国と考えられたため、ドイツはフランスを孤立させるために、フランス以外の国とドイツは同盟をしていった。こうしてドイツ国内の平和を守り、ドイツの国力を高めていった。ビスマルク政権下でのドイツでは、軍備は備えていたが、アジア・アフリカの植民地への進出はあまり重視しなかった。

ビスマルク体制とフランスの孤立

このようなビスマルクの外交を「ビスマルク体制」、「ビスマルク外交」などという。

ビスマルクは三帝同盟(さんていどうめい、英:League of the Three Emperors)をドイツ・ロシア・オーストリア間で1873年に結んだ。1882年にはドイツ・イタリア・オーストリア間で三国同盟(さんごくどうめい、英:Triple Alliance )を結んだ。

どちらの同盟とも、フランスが入っていないことに注意しよう。また、イギリスとドイツとの関係については、ビスマルクは友好関係につとめた。同盟の名前を覚えるよりも、ビスマルクの外交方針に注目してもらいたい。

これらの同盟の細かい経緯(けいい)については、もはや中学の範囲を超える。ここまで知っていれば、もう、じゅうぶんだろう。

ビスマルクと日本との関係

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なおビスマルクと日本との関係について、日本の明治時代の政治家の伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、日本の近代化のための欧米への視察団である「岩倉使節団」の一員として、ヨーロッパを明治6年(1873年)に訪問中の際に、首相だったころのビスマルクに面会してもらっている。伊藤たちはビスマルクの鉄血政策などの政治手法に、たいそう感激したそうである。またビスマルクは、使節団との会談中、伊藤たちに、イギリスなど欧州列強の外交の本質は軍事力を背景としたものであり、国家どうしの友好や外交儀礼などは表面上に過ぎないのが実情である事を説いたという。

伊藤ら政府の首脳は、日本への帰国後には、主にドイツを参考にして日本の政治制度を作った。この理由の一つとして、ドイツの鉄血政策を参考に明治日本の「富国強兵」の政策方針を行ったから、とも考えられている。

ビスマルク失脚後のヨーロッパ

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のちに皇帝が変わり、ウェイルヘルム2世の即位後は、ビスマルクとヴィルヘルム2世の外交方針などがあわず、皇帝ウェイルヘルム2世からはビスマルクが臆病(おくびょう)・消極的と見られ、そしてビスマルクは1890年に辞職した。 ビスマルクの失脚後、ドイツは海外への進出をしようと海軍を強めようとして軍艦(ぐんかん)の建艦(けんかん)をすすめたので、イギリスと対立するようになる。(イギリスは島国であり、また世界各地に多くの植民地を持っている。)

イギリスとフランスは、ともにドイツと対立していたため、イギリスとフランスとが結びついて、最終的に三国協商(さんごくきょうしょう、英: Triple Entente)がイギリス・フランス・ロシアとの間で1907年に成立された。

こうしてヨーロッパの列強は、イギリス中心の三国協商の陣営と、いっぽうドイツ中心の三国同盟の陣営とに、二分化していく。そして二つの陣営が対立していった。

同盟や協商の名前を覚えるよりも、海外進出を図ったドイツがイギリスと対立するようになったという知識をおさえてもらいたい。また、ドイツと対立するイギリスとフランスとが、反ドイツ国どうしで協力をしあったという知識をおさえるのが大切である。

※ 市販の参考書を見ると、このほかにも、この時代について、いろんな知識が書いてあるだろうが、まずはイギリスとドイツが対立するようになったことが中心だという基礎知識を知っておく必要がある。

このドイツを中心とした列強の二分化した対立が、のちの第一次世界大戦のさいのヨーロッパ列強どうしの同盟関係の基礎にもなっている。