高等学校世界史探究/欧米における近代国家の成長 学習のポイント

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

 イギリスの産業革命は、農業を中心とした社会から、工場を中心とした社会への変化の始まりでした。綿花産業から始まった技術の変化は、生産や人々の生活を大きく変えました。産業革命は、イギリスからヨーロッパ、アメリカへと広がっていきました。機械工場による大量生産は、産業資本の発展をもたらしましたが、同時に都市や労働者の問題など、新たな社会問題を引き起こしました。

 アメリカ革命やフランス革命を「市民革命」と呼びます。産業革命は、これらの市民革命と同時期にイギリスで起こった工業化の過程の名称です。19世紀前半、この2つの革命は大西洋を越えて、ヨーロッパ、アメリカ大陸に次々と広がっていきました。歴史家達は、これを「二重革命」「大西洋革命」という言葉で表現するようになりました。西洋の人々は、この2つの「革命」から生まれた政治や市民社会の考え方、モノの作り方や暮らし方を取り入れ、世界各地に広めていきました。これらの考え方は、現在でも政治や社会、生活をする上で非常に重要です。

 七年戦争後、北米東部の13のイギリス植民地は、税制をめぐって本国と対立していました。植民地の人々の権利と自由を求める急進派は、本国の政策に激しく抵抗しました。ボストン茶会事件で対立はさらに激化し、独立戦争の発端となる最初の武力衝突はボストン近郊で起こりました。大陸議会は独立を訴え、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の援助を得て、1783年、アメリカは自由を手に入れました。独立後につくられたのが、アメリカ合衆国憲法です。その後、修正条項を除き、あまり変わっていません。これはアメリカの政治システムの基礎となっています。

 旧体制の問題が深刻化していたフランスでは、三部会が集まって革命が始まりました。バスティーユの襲撃で地方は衝撃を受け、「大恐怖」が広がりました。国民議会が封建的特権をなくし、人権宣言を採択した時、旧体制は終わりを告げました。王の逃亡や革命に反対する国々との戦争で革命はさらに激しくなり、共和制の誕生、王の処刑、ジャコバン急進派による恐怖政治が行われました。クーデタによりマクシミリアン・ロベスピエールの恐怖政治が終焉を迎えると、ブルジョアジーは革命を復活させようと試みました。ナポレオン・ボナパルトのクーデタは、専制君主制が果たせなかった政治体制の安定をもたらしました。しかし、ナポレオン・ボナパルト政権は、ヨーロッパを戦争の渦に引きずり込みました。彼が政権を取った後、古い体制に戻されましたが、それでも革命の影響は全て払拭されたわけではありません。