高等学校世界史探究/産業革命Ⅰ

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

本節では、2回に分けて産業革命についてまとめます。かなり、詳しく執筆しました。

世界史の転換点[編集]

 SFのように、自由に時間を戻せるとしましょう。現在から過去へ順に進んでいった場合、どの時点で現在とは全く違う世界に来たと感じられるでしょうか。もちろん、小さな変化はたくさんありましたが、特に西ヨーロッパで社会が本当に変化するようになったのは、18世紀末頃です。

 1800年代、この国境の向こう側には都市がありましたが、ほとんどの人はまだ大きな工場や鉄道のない地方に住んでいました。ほとんどの場合、家族全員が一緒に働き、一日中一緒に働いていました。学校も職場も、同じ年齢の人が大勢集まる環境はあまりありません。時給制ではないので、好きな時に働いたり休んだり出来ます。町でも村でも、ほとんどの場面で人々はお互いを知り、助け合っていました。お祭りや地元の人との交流が主な楽しみ方でした。

 しかし、この社会は全てが完璧というわけではありません。生産効率は悪く、科学技術もあまり発達しておらず、人々は貧しく、生活はとても苦しくなっています。人々は飢えや病気でよく死に、多くの子供が生まれてもすぐに死んでしまい、生きていても長生きしないので、人口はあまり増えません。病気になったとしても、治療法は迷信に基づくものしかありません。女性や使用人など多くの人々は、政治的にも社会的にも完全な一員として扱われず、投票権や財産を所有出来なかったりします。

 つまり、18世紀末から19世紀初頭にかけて、近代世界の基礎が築かれたともいえます。また、この変化はどこよりもまず、そして最も早くイギリスで起こりました。この大きな変化を産業革命と名付けたのは、1852年から1883年まで生きたイギリスのスラムの改革者、アーノルド・ジョゼフ・トインビーです。19世紀後半に活躍したアーノルド・ジョセフ・トインビーは、産業革命こそが、都市スラムの貧困、病気、犯罪などの社会問題の原因と考えました。

 しかし、産業革命は、国全体の生産性を高め、伝統的な社会が抱えていた貧しさを解消しました。だから、結局、歴史家の中には「産業革命は人間にとってかなりありがたい。」と考えるようになった人もいます。特に、現在、第三世界と呼ばれている国々は、産業革命や工業化と呼べるような経験をした国はありませんから、北の先進国に高い生活水準をもたらしたのは、産業革命だと考えられます。

 つまり、良い意味でも悪い意味でも、産業革命は近代世界の始まりとなりました。

イギリスの産業革命[編集]

産業革命が進むにつれて、イギリスで作られるものの数は、他の国よりも早く増えていきました。

 つまり、産業革命という言葉は、もともと18世紀後半のイギリスで、経済活動に機械動力を利用し、機械制工場を発展させて行った時代を指しています。これを契機に、経済や社会、人々の生活が大きく変化しました。

 従来の農業社会から工業社会へと発展したため、工業化ともよばれています。それでもなお、工業化は世界中で起こっています。

 つまり、16世紀にはすでに資本主義が形づくられ始めていたにも関わらず、産業革命の間にそれが成長し、少しずつ変化してきたわけです。資本家にとって産業資本主義の時代であり、商人や農業経営者から工場労働者が最も有力な立場になりました。資本主義とは、機械や土地などの生産手段(資本)を所有する「資本家」が、「労働者」に給料を払って、市場に出す商品を作らせるという意味です。また、資本家が労働者に対して支配権を持っているという意味もあります。

 なぜ、イギリスは最初の産業革命が発生したのでしょうか。一つの原因は外からでした。それは、七年戦争によって、イギリスが世界貿易の担い手となり、植民地帝国を築き上げたからです。特にイギリスは、西アフリカ、カリブ海、北アメリカ南部と自国を結ぶ「三角貿易」を仕掛けて、奴隷貿易で大儲けしました。産業革命は、この貿易で儲けたお金で実現しました。

 また、アフリカには綿布が送られ、カリブ海からは砂糖と綿花が持ち込まれました。そのため、ロンドンとともに奴隷貿易の中心地となっていたリバプールに近いマンチェスター周辺では、綿工業が発展していきました。

ノーフォーク農法

 一方、イギリス国内の様子も後押ししました。この時代、イギリスは人口が増加しており、工場労働者が増えました。人口が増えた主な理由は、ノーフォーク農法(近代農業)です。空いていた畑を半分に分け、クローバーや蕪を植えたのです。これらの植物は、動物達の餌となり、特に蕪は寒い冬を越すのに役立ちました。動物が増えれば、「糞尿」も増えました。

 ジェントリはこの新しい農法に注目し、「これだけ穀物を育てれば、ビジネスになる」と言いましたが、土地を4つに分けるには多くの農地が必要でした。そこでジェントリは、中小農民の土地と村の共有地をまとめて広い農地を作りました(第2次囲い込み)。羊の飼育のために作られた第1次囲い込みに比べ、第2次囲い込みははるかに大規模でした。イギリスの農地の約2割を集約しました。土壌の関係で農業の改良(農業革命)が困難な北西部では、18世紀半ばから毛織物産業を中心に、手工業(プロト工業)とマニュファクチュア(工場制手工業)の卸売制度で工業生産が行われていました。

 しかし、産業革命が始まって仕事が増え、エドワード・ジェンナーが種痘法を発見するなど医学が進歩すると、人口が大幅に増えました。その結果、イギリスは再び穀物の輸入大国となりました。

 こうしてイギリスは、産業革命に必要な資金と人材を獲得していきました。また、禁欲と勤勉を奨励し、世俗的な仕事に重きを置いたプロテスタント(ピューリタニズム)、自然科学を発展させた科学革命など、知的・精神的な条件も整えられました。その結果、常に定時に出勤する近代的な労働者や合理的な経営を行う企業経営者が台頭してきました。

機械化と工場制度[編集]

 イギリスでは、マンチェスター近郊の綿花産業で新しい技術が使われた時から、産業革命が始まりました。ジョン・ケイ(1704年〜1764年頃)は、1733年に毛織物産業用に飛び杼を作りました。その後、綿花産業でも使われるようになり、綿花を織る工程が格段に早く、効率的になりました。そのため、綿糸を十分に確保出来ないので、ジェニー紡績機や水力紡績機といった機械が考え出されました。

 その後、水力紡績機が蒸気機関に接続され、より効率的になりました。また、1779年にミュール紡績機が作られた後は、紡績分野での技術的な進歩は見られなくなりました。1785年には、織物部門のエドモンド・カートライト(1743年~1823年)が力織機を考え出しました。しかし、この部門では機械化がそれほど進まず、依然として多くの手織り機が必要とされました。そのため、1830年代から1840年代にかけてのチャーティスト運動には、多くの手織工が参加しています。

 この後、こうした技術の変化、特に動力の利用によって、工場の建設に力を入れるようになり、工業都市の出現につながりました。工場制度は、労働者の生活を大きく変えました。

 つまり、綿織物産業で始まった工場制度や技術の進歩は、やがて毛織物工業にも広がりました。とにかく、産業革命が始まった当初は、繊維産業と陶器などを作る軽工業が経済の主役でした。

産業革命のころの蒸気機関。ワットの蒸気機関

 しかし、経済や社会全体に最も大きな影響を与えたのは、重工業交通手段の変化でした。まず、18世紀初頭、エイブラハム・ダービー(1711年〜1763年)がコークスを使った鉄の製造方法を考案しました。これにより、工場で使う燃料が、イギリスで枯渇していた木炭から、大量に作れる石炭に変わりました。これにより、石炭業や鉄工業が発展し、より多くのが作られ、鉄製の機械が広まるようになりました。

 17世紀にトーマス・ニューコメン(1663~1729年)が実際の炭鉱のために作った蒸気機関を、ジェームズ・ワット(1736年~1819年)が改良して以来です。これによって、炭鉱の仕事が上手くいくようになりました。また、紡績機械なども蒸気機関に接続され、生産が効率的に行われるようになりました。

ロケット号 スチーブンソンが発明した蒸気機関車の複製。1830年ごろには、鉄道がリバプール=マンチェスター間に設けられた。

 重い鉄や石炭について費用をかけて移動させるために、交通手段は次々と改良されていきました。人々は最初の道路や運河を利用しました。特に石炭の移動には、マンチェスター周辺の運河が非常に役立ちました。ジョージ・スティーブンソン(1781年~1848年)は、1825年に最初の蒸気機関車を作りました。それは瞬く間に全国に広がり、1850年までに1万マイル以上を走行しました。19世紀後半、イギリスの最も重要な輸出品は鉄道であり、世界各地に建設されました。さらに、1807年、ロバート・フルトン(1765年~1815年)というアメリカ人が蒸気船を実用化しました。世紀の中頃から改良が重ねられ、蒸気船は徐々に帆船と立場を逆転させました。国内外を問わず、鉄道や蒸気船は人と人との出会いを容易にし、都市の発展を促しました。このような現象を交通革命といいます。イギリス人労働者は、工場で朝食をとり、中国やインドのお茶にカリブ海産の砂糖を加えて飲むようになりました。

資料出所[編集]

  • 山川出版社「改訂版 詳説世界史研究」木下康彦ほか編著 ※現在市販されている最新版ではありません。
  • 株式会社KADOKAWA「大学入学共通テスト 世界史Bの点数が面白いほどとれる本」平尾雅規著
  • 実教出版株式会社「世界史探究」 ※上記資料出所の記述で足りない部分を記述しています。