高等学校世界史探究/産業革命Ⅱ

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産業革命の世界史的影響[編集]

 1825年、イギリスは機械を国外に輸出するのを違法とする法律を廃止しました。そこで、産業革命の波は19世紀前半の西ヨーロッパ諸国、そしてアメリカ、ロシア、日本へと広がっていきました。イギリスの製品は非常に安く、またイギリスの軍隊は非常に強かったので、これらの国々は意識的にイギリスの産業革命を真似し、独自の産業革命を起こそうとしました。それは、日本が明治時代に行った「富国強兵」政策に表れています。

 この目標に向かって最も早く進んでいるのが、ベルギーフランスです。つまり、両国とも1830年頃から産業革命の中心は繊維産業でした。18世紀、フランスの経済はイギリスにそれほど劣っていませんでした。しかし、英仏通商条約(通称イーデン条約)により、両国の貿易が開放されました。イギリス製品の大量流入とフランス革命による混乱で、フランスは産業革命に大規模に加わるのが難しくなりました。

 同じ頃、ドイツのライン川流域では、産業革命が始まりました。ドイツでは、19世紀後半に重化学工業の発展が特徴的でした。19世紀初頭、アメリカでは綿花産業が発展しました。しかし、本格的な産業革命が起こるのは南北戦争後です。1870年代には、ドイツやアメリカで産業革命が起こり、イギリスはもはや「世界の工場」ではなくなってしまいました。日本でも、日清・日露戦争をきっかけに産業革命的な変化が起こりました。

 産業革命の時代、イギリスを初めとする各国は、アジア、アフリカ、中南米の一部を原材料や食料の市場として利用しました。その結果、これらの地域と産業革命を経た国々との間に経済格差が広がり、現在の南北問題につながりました。イギリスの綿花産業が発展すると、カリブ海やアメリカ南部では、綿花の栽培に奴隷が使われるようになりました。世界でも有数の綿織物産業を持つインドは、原料である綿花の輸出拠点となりました。

都市化の進展と労働者階級[編集]

 イギリスでは、産業革命によって、ランカシャー州のマンチェスター、イギリス中部のバーミンガム、スコットランドのグラスゴーなど、多くの都市が変わりました。また、リヴァプールのような港湾都市も変わりました。都市に住む人の数は急速に増え、人々の生活様式も変わりました。そのため、失業、貧困、病気など、様々な社会問題が発生しました。

 産業資本主義の台頭に伴い、同じような目的を持った集団として自らを捉える「労働者階級」も台頭してきました。19世紀のイギリス社会は、おおまかにいうと、労働者階級、資本家階級、地主階級(地主貴族)の3つの集団で構成されていました。

 工場を中心とした機械工業によって、産業革命は大量生産をもたらしました。そのため、熟練工が不要になり、給料の安い女性や子供がよく使われるようになりました。工芸品を作って生計を立てていた人達の中には、職を失う人もいました。彼らは、囲い込みで農業を続けられなくなった農民と同じように、都市でも田舎でもお金のために働くしかありませんでした。

 産業革命の時代には、多くの工場労働者がアイルランドから仕事を求めてやってきました。1801年にアイルランドがイギリスの一部となると、この傾向はさらに強くなりました。

 1814年には、徒弟制度がなくなり、誰でも独立開業出来るようになりました。そのため、それまでギルドに守られていた親方職人の存在意義がさらに薄れました。例えば、ロンドンでは仕立て屋は一般的で尊敬される仕事でした。しかし、事業に自由が与えられると、スラム街で縫製の仕事のほとんどを他の貧しい女性に非常に低い賃金で任せる人が増え、社会問題化しました。また、徒弟制度がなくなり、若いうちから工場で給料を貰って働けるようになったため、若いうちに結婚する人が多くなりました。この結果、この時代に人口が急速に増加したと考えられています。

 人口が急増するにつれ、住宅などの生活環境は格段に悪くなりました。この間、労働者の家は狭く、暗く、トイレも下水もありませんでした。ドイツ人のフリードリヒ・エンゲルスは、『イギリスの労働者階級の状態』という本を書きました。その中で、彼は悲しい光景を詳しく語っています。労働時間が長く、食事もろくに取らないので、ペストは流行らなくなりましたが、結核、梅毒、天然痘といった伝染病は残っていました。特に、1830年代前半はコレラの発生が相次ぎました。

 都市部だけでなく、地方の伝統的な農民社会も乗っ取られ、共有地の放牧や木の伐採で小遣い稼ぎをする家族も少なくありません。多くの人が貧しく、その様子は当時の文章によく記されています。ロマン主義は、当時の文学作品、特に詩に大きな影響を与えました。ロマン主義は、産業革命以前の農民の生活を空想し、産業文明を批判する傾向がありました。それ以来、産業革命がイギリス人の生活を良くしたのか悪くしたのかが話題になるようになりました。現代から見れば、産業革命を経た国々の生活水準が高いのは明らかです。しかし、その間に様々な社会問題が発生したため、かつては生活水準が低下したという説も根強くあります。都市部の人々は農村部のようにお互いをよく理解していないので、貧困救済が両地域で大きな問題となりました。18世紀末には、基本的な生活水準を満たすだけの収入が得られない人々を支援するために、補助金制度が設けられました。しかし、この制度はあまりにも高額だったため、1834年、エリザベス1世の時代から続いていた救貧法を全面的に改め、「自助」の精神を重視するようになりました。自助の精神に重きを置く考え方は、ピューリタニズムから生まれ、産業革命が進むにつれて勢力を拡大した中産階級に受け入れられました。この考え方からすると、貧困の原因は個人にあります。サミュエル・スマイルズの『自助論』という本は、自助の精神の必要性を訴え、大ヒットしました。明治時代「西国立志篇」には、中村正義がこの本を日本に持ち込み、大ヒットさせました。

ラッダイト運動のイメージ

 これに対して、労働者は団結して労働条件の改善を求めるようになりました。これには政府も神経を尖らせ、団結(結社)禁止法(1799年~1800年)を制定して、これをやめさせようとしました。機械化で職を失った職人達は、古くからの打ち壊し習慣に従い、中部のメリヤス織りを中心とした「機械打ち壊し運動(ラッダイト運動)」に参加しました。「ネッド・ラッド」がリーダーでしたが、本当に存在したのかどうかは定かではありません。この運動も1810年代にピークを迎え、その後消滅しました。機械化は止められない流れになりました。

 もちろん、産業革命で悲劇ばかりが起こったわけではありません。産業革命以前は、女性も子供も懸命に働かなければならず、何の権利も持っていませんでした。夫であり父親である世帯主がすべてを仕切っていました。工場制度が普及すると、家族はバラバラに働き、妻や子供の仕事は、どんなに小さなものでも、はっきりと評価され、報酬が支払われるようになりました。家庭の中では、女性や子供にとって、物事がより良い方向に進んでいるように見えます。

 一方、工場で働くようになった母親は、子供のために洋服などの物を作る時間がありません。そこで、産業革命以前は家族が提供していた多くの商品やサービスが、現金で支払われるようになりました。食料も薪も同じです。人々の暮らしは、より商品らしくなっていきました。

 工場の仕事は、農業のように日払いではなく、時間払いが多いので、労働者は機械の時計に従って時間を守らなければなりませんでした。当時、人々はこのような習慣に馴染みがありませんでしたから、労働時間の問題は上司との間に多くの問題を引き起こしました。そのため、1802年以降に制定された工場法のほとんどは、労働者の労働時間を短縮するための内容でした。

 時給制が一般的だった時代、働く時間と自由な時間は明確に分けられていました。労働時間は自由時間でもあり、多くの労働者はパブに行って酒を飲み、楽しんでいました。これを嫌った工場経営者などは、「時は金なり」といったピューリタニズムのルールを強制する一方で、旅行や読書、音楽といった「上品」な取組みもさせようとし、これまた大変な騒ぎになりました。

 産業革命の時代、人々の読み書き能力は一時的に低下しましたが、すぐに回復し、労働者のための新聞やパンフレットなどの出版物の数も増えました。この結果、労働者の集団としての団結力に大きな差が生まれました。

資料出所[編集]

  • 山川出版社「改訂版 詳説世界史研究」木下康彦ほか編著 ※現在市販されている最新版ではありません。
  • 株式会社KADOKAWA「大学入学共通テスト 世界史Bの点数が面白いほどとれる本」平尾雅規著
  • 実教出版株式会社「世界史探究」 ※上記資料出所の記述で足りない部分を記述しています。