高等学校世界史B/アジアの民族運動

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西アジアの民族運動[編集]

オスマン帝国の改革[編集]

1839年、アブデュル・メジト1世は、改革としてギュルハネ勅令を出し、司法・行政・財政などの西洋化の改革であるタンジマートを開始した。これらの改革は、法治主義による中央集権化をめざすものであった。

改革のさなか、1853年にはロシアがギリシア正教徒の保護を口実に攻め込んできて、クリミア戦争に発展したが、(ロシアの南下を嫌う)イギリス・フランスの支援もあってオスマン帝国が勝利して、ロシアの南下をくいとめた。

しかし、改革や戦費のための外債(がいさい)がオスマン帝国は返済できず、オスマン帝国の国家財政は1875年に破綻し、イギリス・フランスに経済的に支配されることになった。

クリミア戦争後、オスマン帝国では憲法制定の気運が高まり、1876年には大宰相(だいさいしょう)ミドハト=パシャによって起草された憲法(ミドハト憲法)が発布された。このミドハト憲法が、アジアで最初の近代憲法となった。

しかし翌1877年に発生したロシア=トルコ戦争を理由に、アブデュル=ハミト2世は1878年に憲法を停止し、議会も解散し、専制政治が始まった。 この戦争でオスマン帝国は敗北し、バルカン半島の領土を大幅に失った。


オスマン帝国の人々のいくらかは、ハミト2世の専制に反発し、立憲政治の復活をもとめる運動を展開した。やがて、当時のイタリアで展開されていた「青年イタリア」運動にならって、オスマン帝国で立憲運動をしている彼らは「青年トルコ人」と呼ばれるようになった。

(青年トルコの直接の手本は、名前のとおり、青年イタリアであるが、しかし日露戦争で白人国家のロシアに勝利した日本も、おそらく青年トルコの手本になっていると考えられる。)

そして1908年に青年トルコ人の蜂起が成功して、政権をにぎり(青年トルコ革命)、ミドハト憲法を復活させた。


なお、これら一連の改革のあいだ、外交政策として、オスマン帝国は(当時イギリスと対立しかけていた)ドイツに接近した。

イラン立憲革命の失敗[編集]

この頃のイランの王朝(カージャール朝)は、近代化のための鉄道敷設・道路建設などに必要な資金をおぎなうために、欧州の列強にさまざまな利権を与えることで、彼ら欧州列強にイランの近代化のための投資を出してもらおうとした。(※ 東京書籍『世界史B』平成28年検定版、および、山川出版社『新世界史B』平成27年検定版)

イランでは、1890年にタバコの専売の利権がイギリス人に与えられると、ウラマーや商人層がこれに反対し、タバコ・ボイコット運動という反イギリス・反国王の運動がキッカケとなり、政治運動が盛り上がった。

その結果、イラン政府はイギリスのタバコ利権の提供を破棄し、タバコの専売権はイランに回収された。

(1905年には日露戦争で日本がロシアに勝利した。)

そして1905年には、経済政策への不満や、王の専制への不満から、抗議運動が盛り上がった。その結果、翌1906年には国民議会が開かれて憲法も制定されたが(イラン立憲革命)、しかしイギリス・ロシアが干渉したことにより、1911年にイラン国王は議会を廃止し、革命は終了した。

インドの民族運動[編集]

イギリスは、現地インド人たちの要望を知るために、インドで有力者の代表などをあつめて政策要望を出してもらうインド国民会議を1885年に設立させた。

このインド国民会議は、当初は親英的な態度であったが、しだいにティラクらの急進的なヒンドゥーナショナリストが民族運動を主張していき反英的な傾向が強まった。

1905年にイギリスがヒンドゥー教徒とムスリムの分離を定めたベンガル分割令の公布がされると、これは民族運動を分断させようとするものだと判断され、インド全国に反対運動が広がり、国民会議では反英的な勢力が急増した。

そして翌1906年に開催された(国民会議の)カルカッタ大会では、イギリス製品の不買スワデーシー(国産品愛用)、スワラージー(自治)、民族教育の4綱領(こうりょう)が採択された。

いっぽう、イギリスは国民会議に対抗させる組織をつくろうと、ヒンドゥー教優位の国民会議のなかで少数派になっているイスラーム教を信仰しているムスリムたちの不安を利用し、イギリスの支援により1906年に全インド=ムスリム連盟が結成された。