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高等学校世界史B/インドのムガル帝国

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
タージ=マハル   タージマハルは、第5代シャー=ジャハーンが妃の死をいたんで建てた墓廟(ぼびょう)である。

ティムールの子孫バーブール(位1526〜30)が北インドに侵入し、1526年にロディー朝を倒してムガル帝国の基礎を建てた。

ムガル帝国を実質的に建国した人物は、(ムガル帝国の)第3代皇帝アクバル(位1556〜1605)であり、アクバルが北インドを統一して、帝国の中央集権化をすすめた。

また、アクバルは全国の土地を測量させて検地を行い、徴税制度を整えた。またアクバルは、ヒンドゥー教徒の支持を得たいなどの目的もあってか、アクバルは、非イスラーム教徒に対する人頭税(ジズヤ)を廃止した。このようにしてアクバルは、イスラーム教とヒンドゥー教の融和につとめた。

また、アクバルは首都をアグラ(Agra)に移した。

ムガル帝国は第6代アウラングゼーブ(位1658〜1707)の時代に最大の領土になった。しかし、アウラングゼーブは、イスラーム教とヒンドゥー教の融和をやめて、イスラーム教ばかりを優遇した。そのためアウラングゼーブは、非イスラーム教徒への人頭税(ジズヤ)を復活し、ヒンドゥー教徒を破壊させ、このように非イスラーム教徒を圧迫し、このため各地で農民反乱が起きた。


また、17世紀にはヒンドゥー国家のマラーター王国が誕生して、ムガル帝国に対抗した。

さらに、アウラングゼーブのイスラーム原理主義的な政策が、シク教徒の反発をまねき、西北インド(パンジャーブ地方)ではシク教徒が反乱を起こした。

アウラングゼーブの死後、ムガル帝国は衰退し、解体に向かっていく。

インド=イスラーム文化

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15〜16世紀のインドでは、ヒンドゥー教とイスラーム教を融合させた新しい宗教をつくる動きが起きた。

まず、宗教家カビールによって、ヒンドゥーの神もイスラームの唯一神も、本質的には同じ神の、別々のあらわれかたにすぎないとする思想が登場した。

つづけて、宗教家ナーナクによって、カーストの否定をして、偶像崇拝も否定する、一神教のシク教が、開かれた。

北インドでは、インドの地方語にアラビア語・ペルシア語のまざったウルドゥー語が登場してきた。

※ なお、ウルドゥー語は、現在のパキスタンの公用語である。

建築においても、インド様式とイスラーム様式の混合が起きた。タージ=マハルは、インド=イスラーム様式の建築だとされる。