高等学校世界史B/インドの植民地化

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インド大反乱とインド帝国[編集]

ムガル帝国が衰退すると、インド各地で地方勢力が蜂起して、利権を争った。

この頃、イギリスやフランスがそれぞれ別個に東インド会社の経営によってインドに進出しており、インドの紛争に介入し、英仏が利権を争った。

1757年のプラッシーの戦いでは、フランスはベンガル太守軍を支援したが、イギリスはベンガル太守軍をやぶった。

そして1765年にイギリスがベンガル地方の徴税権を獲得したことをきっかけに、イギリスの東インド会社の方針は、インドの植民地拡大の方針に変わっていく。

その後、イギリスは、インドの地方勢力との抗争(南部のマイソール戦争、中西部のマラータ戦争、シク戦争)に勝利し、最終的にインドの大半を植民地にした。

インド大反乱
反乱の直接の原因は、弾薬包の紙にヒンドゥー教の神聖史する牛の脂と、イスラーム教の忌避する豚の脂が使われ、これを噛み切らなければならないというウワサであった。

1857年、イギリス東インド会社の雇っていた傭兵集団(シパーヒー)が、(イギリス支配に対する)反乱を起こすと、反乱はまたたくまにインド全土に拡大した (インド大反乱)。

シパーヒーは、名目だけの存在となっていたムガル皇帝を擁立して戦ったが、反乱はイギリス軍によって1859年には鎮圧されてしまい、ムガル皇帝は流刑(るけい)にあい、ムガル帝国は滅亡した。

その後インドは1877年、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることになり、イギリス支配下のインド帝国になった(1947年の独立まで、インド帝国はつづく。)。

そしてイギリスは、統治のため、宗教対立やカースト制度などを利用し、インド人同士の団結をふせぐ方針で統治を行った(特定の勢力だけを不公平に優遇することで、インド現地人の不満がイギリスに向かわずに、異なる宗教や異なるカーストのインド人にむかうように仕向けたので、このような支配の手法を「分割統治」という。)。

(なお、「分割統治」と名前の似ている「間接統治」はインド支配ではなく、東南アジア支配でイギリスが用いた手法。)