高等学校世界史B/エジプト文明
この項目では、高等学校世界史Bにおける古代エジプト文明について概説する。太字の場所は重要事項である。
概要
[編集]エジプトはアフリカの右端に位置し、国土には世界最長のナイル川が流れている。ナイル川の水は定期的に氾濫し、その水を引く灌漑農業によりエジプトは栄えた。これをギリシャの歴史家ヘロドトスは、「エジプトはナイルの
また、毎年のナイル川の増水の時期を予測するために天文観測技術が発達し、1年を365日とする太陽暦がつくられた[注釈 1]。また10進法[注釈 2]が用いられ、農地の配分などのため測地術・幾何学などの数学が発達した。
用いられた文字ヒエログリフ (Hierogryph, 神聖文字)は、崩し字であるヒエラティック (Hieratic, 神官文字)およびデモティック (Demotic, 民衆文字)へと発達し、デモティックはアルファベットの基礎となった。
歴史
[編集]エジプトは上エジプト (Upper Egypt)と下エジプト (Lower Egypt)から成り、エジプトという国はこの2つの国が統一されたものであるという意識は3000年のエジプトの歴史の中で常に存在した。
統一国家以前、エジプトでは氾濫したナイル川の水を効率的に農業に生かすための大規模な灌漑・治水工事を実行する必要が発生したため、共同体の権力は責任ある一人の人物に集中するようになった。これが王の原型である。また、紀元前3000年以前に自治体である州 (ギリシャ語でノモス)が成立した[注釈 3]。
紀元前31世紀ごろ、上エジプトの王ナルメルが下エジプトを征服し、ナイル川下流のメンフィス[注釈 4] (Memphis)を都とする統一王国を建てた。
エジプトには合計して30または31の王朝 (Dynasty)があったがその中で特に繁栄した時代を古王国時代、中王国時代、新王国時代という。
古王国
[編集]都:メンフィス
古王国時代 (前2686年頃〜前2181年頃)[注釈 5]では王の権力が高まり、エジプトは最初の繁栄期を迎えた。例として、クフ(Khufu)王の時代には巨大なギザの大ピラミッド(Pyramid)が建造された。
中王国
[編集]中王国時代 (前2055年頃~前1795年頃[注釈 8])末期、アジア系の異民族ヒクソス(Hyksos)がエジプトに流入し、権力が衰えたエジプト王家にとって代わりエジプトを支配した。ヒクソスは、馬と戦車で武装しており、ナイル川下流域のデルタ地帯を中心とする王朝を建てた。
新王国
[編集]都:テーベ[注釈 9]
軍備を増強したテーベの王家はヒクソスを撃退し、新王国時代 (前1550年頃~前1069年頃)が開始される。「エジプトのナポレオン」とも言われるトトメス3世は、幾度もシリア・パレスティナ方面へ軍事遠征し、新王国時代最大の領土を築いた。
宗教改革
[編集]新王国では、首都テーべの守護神アモン[注釈 10]と、古くからの太陽神ラーとが結びつき[注釈 11]、アモン=ラーという神としてまつられていた。この時、アモン神をまつる神官の権力は増大し、同じく権力を保有する王と対立状態になった。
父王の影響で専制君主的に育ったアメンホテプ4世は主神をアモンからアトン[注釈 12]に変更する宗教改革を行い、従来の多神教を否定した[注釈 13]。 また、アメンホテプ4世はみずからの名を、「アモン神を満足させる者」という意味のアメンホテプから、「アトン神に有益なる者」を意味するイクナートン[注釈 14]へと改め、都もテル=エル=アマルナ[注釈 15]に遷した。また、この時代では体の輪郭を強調する、写実的なアマルナ美術が生まれた。
しかしながら、王の死を経てその息子ツタンカーメン[注釈 16]の時代に、信仰は従来の多神教に戻された。
また、新王国時代にはラメス2世[注釈 17]によりアブ・シンベル神殿をはじめとする数多くの建築物が築かれた。
宗教
[編集]古代エジプトの宗教は、多神教であったが、その3000年の間の人々の思想の変化により変化を繰り返したため一概に説明することはできない。しかし、エジプトの歴史を通して太陽神ラー (Ra)は信仰され、王(ファラオ)は太陽神の息子とされた。
エジプト人は霊魂の不滅と死後の世界を信じて遺体をミイラ化させ、埋葬した。また、パピルスに書かれた『死者の書(Book of the Dead)』を副葬品とする場合もあった。死者の書において、画像右端に座っているのは冥界の神オシリス (Osiris)であり、死者は自分の心臓と正義の羽が釣り合うかどうかを判断され、釣り合った場合は楽園へ行けるとされた。
文化
[編集]前述のように、エジプトではヒエログリフが用いられていたが、これはフランス人学者のシャンポリオンによって解読された。この解読のきっかけとなったのがナポレオンのエジプト遠征の際に発見されたロゼッタ・ストーンである。この碑文には (画像では上から順に)ヒエログリフ、ヒエラティック、ギリシャ文字の3種の文字で同じ内容が刻まれており、ギリシャ語との対比からヒエログリフは解読することができたのである。
また、パピルス草から作った紙であるパピルス(Papyrus)が発明され、数多くの文学作品がパピルスに書かれた。そのうちいくつかは、現在でも読むことができる[注釈 18]。
注釈
[編集]- ^ 現在のグレゴリオ暦においては、一年は365日ではない端数が存在するためうるう年を設けるが、エジプトは行わなかったため、4年に1日のずれが発生してしまった。このため、暦とは別に天文観測も行われたようである。
- ^ ただし、一日は昼の12時間と夜の12時間に分けられていた。
- ^ 州は時代ごとに変化はあるものの、最終的には上エジプトに22、下エジプトに20の42州となった。
- ^ メンフィスはギリシャ語名で、エジプト語ではイネブ・ヘジュといい、「白い壁」という意味を持つ。
- ^ 年代は松本(1998)に拠った。学者によって年代は多少ずれがあることに留意されたい。
- ^ エジプト語でワセト。
- ^ 中王国時代全体として都をテーベとする教科書の一般的な記述は実際には正確ではない。中王国時代は王朝区分では第11~12(学者によっては13も含む)王朝であるが、このうち11王朝ではテーベが都である。しかし、12王朝初代アメンエムハト1世はイチ・タアウィに遷都し、これ以降(と13王朝)ではイチ・タアウィを都とした。
- ^ 諸説あり。第12王朝セベクネフェルウの治世までを中王国とする場合(松本, 1998)1795年となるが、第13王朝全体を入れる場合(スペンサー, 2009)1650年までとなる。
- ^ 同様にこの記述も正確ではない。新王国時代は第18, 19, 20王朝からなり、18王朝のアクエンアテン治世4年まではテーベ、アクエンアテン治世4年からツタンカーメン治世3~4年にはテル=エル=アマルナ、ツタンカーメン治世4年から19王朝ラメセス1世まではメンフィス、19王朝セティ1世から20王朝はペル・ラメセスである。
- ^ 「アメン, Amen」が一般的だが、エジプト学者の中にもアメンを用いる人(例:吉村作治、屋形禎亮、松本弥、吉成薫、河江肖剰、A.J.スペンサー等)やアムンを用いる人(例:大城道則)が存在する。
- ^ エジプト学用語で、習合という。
- ^ 「アテン, Aten」が一般的。アトンを用いる日本人学者はおそらく存在しない。
- ^ しかし、治世前半ではラー信仰は容認されていたとの説もある(屋形、1969)。
- ^ 現在はイクナートンの表記は全く用いられず、もっぱらアクエンアテンの名称が用いられる。
- ^ エジプト語でアケトアテン。
- ^ より厳密な表記ではトゥトアンクアメン。
- ^ この表記も全く用いられず、通常ラメセス2世またはラムセス2世とされる。
- ^ 有名な作品に、古王国時代の『プタハヘテプの教訓』、中王国時代以前に存在した第1中間期の『メリカラー王への教訓』、中王国時代の『シヌヘの物語』、『難破した水夫の物語』がある。 教科書には中王国時代の事柄はヒクソスの侵入しか書かれていないが、特筆すべきことがないわけでは一切なく、中王国時代に書かれた文学作品も多い。
参考文献
[編集]- 松本 弥 『図説 古代エジプト文字手帳』 株式会社 弥呂久、1994年。ISBN 4946482075。
- 松本 弥 『図説 古代エジプトのファラオ』 株式会社 弥呂久、1998年。ISBN 4946482121。
- 松本 弥 『古代エジプトの神々』 株式会社 弥呂久、2020年。ISBN 9784946482366。
- 吉成 薫 『ヒエログリフ入門』 株式会社 弥呂久、1999年。ISBN 4946482121。
- A.J.スペンサー 『大英博物館 図説古代エジプト史』 近藤 二郎, 小林 朋則訳、原書房、2009年。ISBN 978-4-562-04289-0。
- 屋形 禎亮, 大貫 良夫 et al. 『世界の歴史I 人類の起源と古代オリエント』 中央公論社、1998年。