高等学校世界史B/オスマン帝国とエジプト

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オスマン帝国の没落[編集]

「オスマン帝国の没落の時期はいつか?」と言われると、われわれ現代人はついつい、18世紀 中〜後期の産業革命や、18世紀末ごろのフランス革命を連想してしまいがちである。

しかし、じつは17世紀末のころから、オスマン帝国は軍事的には衰退に向かっていた。


オスマン帝国は17世紀末にウィーン包囲をしたが、これに失敗し、1699年のカルロヴィッツ条約によって(それまでオスマン帝国の領有していた)ハンガリーをオーストリアに割譲することになった。

さらに18世紀では、1762年のロシア・トルコ戦争で、オスマン帝国はロシアにやぶれてしまう(ロシアでは女帝エカチェリーナ2世の時代)。

さて18世紀後半に産業革命やフランス革命も終わり、19世紀に入ると、19世紀半ばに1877年のロシア・トルコ戦争で、オスマン帝国は敗北してしまい、クリミア半島の支配権を失った(ロシアではアレクサンドリア2世の時代)。(※ クリミア戦争とは別の出来事。混同しないように。)


(「ロシア・トルコ戦争」と呼ばれる戦争は、歴史上、数回ある。)

エジプトの自立と挫折(ざせつ)[編集]

じつは18世紀の西アジアでは、イスラーム教の古い教え(預言者ムハンマドの教えなど)に立ち戻るべきだと主張するワッハーブ運動が起きている。

ムハンマド=アリー彼はもともとマケドニア出身のアルバニア人である。オスマン帝国の配下だった時代には、彼は傭兵部隊長として、ナポレオンの送り込んだフランス軍とたたかい、頭角を表した。

さてエジプトでは、1798年にナポレオンひきいるフランス軍が侵略にきたが、ナポレオンが去った後、オスマン帝国はエジプトの侵略に対抗するためにムハンマド=アリーをエジプトに送り込んだ。そして、ムハンマド=アリーは1805年にエジプト総督になった。 彼は、軍隊の改革としてヨーロッパ式の手法を取り入れたり等の改革を行った。また、綿花の専売制などの施策を行った。

また、ムハンマド=アリーひきいるエジプト軍は、ワッハーブ運動を滅ぼした。

ギリシア独立運動が起きると、オスマン帝国はエジプトに援軍を要請し、エジプトはオスマン帝国に協力して出兵したので、ムハンマド・アリーは見返りとしてエジプト総督の世襲化を望んだが、しかしオスマン帝国がエジプト総督の世襲制を認めなかったので、1830年代に2度にわたるエジプト・トルコ戦争が起きた。

2度目のエジプト・トルコ戦争の直後の1840年にロンドン会議がひらかれ、エジプト総督の世襲は認められたが、シリアなどをエジプトは手放すことになった。また、このロンドン会議により、エジプトは貿易の不平等条約のもと関税自主権を失い、国内市場を開放することになった。(※ ギリシア独立戦争のときの「ロンドン会議」とは、別の国際会議。)

1849年にムハンマド=アリーは死没した。アリーの死没後、エジプトでは鉄道がひかれたり、1869年にはスエズ運河が開通するなど、土木開発が進んだ。

しかし、このような急激な開発は資金の負担が大きい。なので、エジプトは外債(がいさい)によって、資金調達をした(「外債」とは、国家などが外国から借金すること)。また輸出産業の主力だった綿花の価格がアメリカ産の綿花のヨーロッパ等への輸出攻勢によって、綿花の価格が暴落した。このことによって、エジプトの財政は悪化し、破綻寸前になった。

スエズ運河は、フランス人技師レセップスが提案した。

スエズ運河の開通時、エジプトはスエズ運河の株を持っていた。スエズ運河の当初の大株主は、エジプトとフランスである。しかしエジプトの財政悪化のため、1875年にはスエズ運河のエジプトの持ち株をイギリスに売却した。

こうして、スエズ運河はイギリス・フランスの管理下におかれることになった。さらに翌1876年には、エジプトの国家財政が破綻した。そしてエジプトの財政は、イギリスとフランスの管理下におかれることになった。

1882年のウラービー
彼が蜂起したころ、日本では明治時代だった。彼ウラービーが蜂起に失敗してセイロン(今のスリランカ)に流されたあと、彼の元には日本から官僚や留学生が訪れ、ウラービーの意見をうかがった。

このような外国の経済支配に対して、エジプトでは抵抗勢力が活発になり、1881年には軍人ウラービーが反ヨーロッパの改革のために立憲議会の設立をめざす運動を行った。しかし、(債権の回収できなくなることをおそれたのか)イギリスは1882年にエジプトを軍事占領し、エジプトを事実上の植民地にした。

だが、ウラービーたちが運動のさなかに掲げたスローガン「エジプト人のためのエジプト」は、その後もエジプト民族運動の精神になった。

イギリスは以降、アフリカ大陸において、エジプトを起点に、植民地を南に拡大しようとしていく(エジプトはアフリカ東北部にある)。

アフリカの植民地化の進展[編集]

じつは1870年代までは、列強によるアフリカの植民地は、沿岸部だけだった。しかし、1880年代ごろから、植民地は内陸部にも拡大していく。

(前の節で上述したように、)エジプトは1880年代に、イギリスの事実上の植民地になってしまった。また、南アフリカのケープは、ナポレオン戦争以降、イギリスの植民地になっていた。

なのでイギリスは、エジプトとケープをつなげようと、植民地を南北に拡大しようとしていき、イギリス植民地でアフリカを南北に縦断しようとしていく。このようなイギリスの植民地拡大の方向性は、(エジプトの)カイロ、ケープタウン、(インドの)カルカッタの頭文字を由来に「3C政策」といわれる。

いっぽう、フランスは1830年代にアフリカ北西部のアルジェリアを獲得して植民地にしており、ここを起点に19世紀後半ごろにはモロッコ(1904年に獲得)やチェニジア(1881年に獲得)などアフリカ北西部に、フランスは植民地を拡大していく。

もっていたフランスは、当初は植民地の拡大の方向をサハラ砂漠一帯の南下方向にしてたが、(アフリカ大陸の「フ」の字型の形状により、行き止まりなので、)さらに植民地を拡大するには東部に植民地を拡大せざるをえず、フランスはイギリスと対立することになる。

さらにドイツでは1890年にビスマルクが皇帝ヴィルヘルム2世と外交政策が対立したことにより解任され、ヴィルヘルム2世が親政を行ったことにより、外交政策が対外膨張主義になり、ヨーロッパ列強のアフリカ植民地の争奪にドイツも参加する。しかし、おくれて植民地争奪戦に参加したドイツの植民地は(英仏と較べて)小さく、アフリカのほとんどの土地は、イギリスまたはフランスの植民地であった。