高等学校世界史B/クリミア戦争とロシアの改革
東方問題
[編集]1820年代のギリシア独立戦争(ギリシアがオスマン帝国から独立した戦争)によってギリシアが独立に成功すると、オスマン帝国に実質的に支配されていたエジプトでも反トルコ的な思想にもとづく領土拡大の気運が高まり、1830年代に2度のエジプト=トルコ戦争が起きる。
ロシアは、南下政策をたくらんでいるので、見返り(不凍港や、地中海へ進出するための海峡(ボスポラス海峡およびダーダネルス海峡)通交権など)をもとめてオスマン帝国を支持した。いっぽう、イギリスおよびフランスはエジプトを支持した。
(※ イギリスは、インドへの航路をイギリス支配下にしたい。フランスは、ナポレオンのエジプト遠征のころからの利権がある。) エジプト=トルコ戦争において、最終的に、英仏の支援をうけたエジプトが勝利し、ロシアの南下は失敗する。そして1940年のロンドン会議によって、ロシアはボスポラス・ダーダネルス海峡の軍艦通行を禁止された。
このような、バルカン半島周辺の外交問題・国際問題は、ヨーロッパから見て地理的に東方にあるので、「東方問題」といわれた。
クリミア戦争
[編集]南下政策を進めたいロシアは1853年、ギリシア正教徒の保護を口実に、オスマン帝国と開戦した(クリミア戦争)。イギリス・フランスはロシアの南下を阻止するため、クリミア戦争ではオスマン帝国を支援したので、この戦争はヨーロッパ列強国を巻き込む戦争になった。
クリミア半島のセヴァストーポリ要塞を中心に激しい戦闘が行われ、最終的にロシアは敗退し、1856年にパリ条約が結ばれた。
そして、このパリ条約によって、黒海の中立化が決定し、ロシアは南下を阻止された。
- ※ 偉人伝によくある看護師ナイチンゲールが活躍したのも、このクリミア戦争である。また、赤十字社の設立につながった出来事も、このクリミア戦争である。
ロシアの改革
[編集]クリミア戦争末期に即位したロシア皇帝 アレクサンドル2世は、クリミア戦争の敗戦後、敗戦の原因はロシアの工業化がおくれていることが原因だと考え、また、工業化の遅れた原因のひとつは農奴制にあると考え、アレクサンドル2世は1861年に農奴解放令を出した。
また、1863年にポーランドで独立運動が起きると、皇帝は専制政治を強化した。ロシアのこの頃の専制に反感を感じた知識人(「インテリゲンツィア」と言われた)の中から、農村を革命に協力させようと「人民の中へ」(ヴ=ナロード)というスローガンをかかげるナロードニキ運動が起きた。
しかし、この運動は弾圧された。弾圧によって絶望したナロードニキ運動の一部はテロに走り、アレクサンドル2世を暗殺し、その他、政府高官を暗殺した。
- ※ 近現代の日本では知識人のことを「インテリ」とも言った。語源は、上述のナロードニキ運動の「インテリゲンツィア」である。