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高等学校世界史B/プロイセンとオーストリアとロシアの台頭

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

日本人にとって、プロイセン(ドイツ)は、日本史において明治維新のあとに、日本の近代化のための手本にされた国である。明治日本で、おもに軍隊(日本軍)の近代化の手本や、立憲君主制の手本として、プロイセンが手本にされることになる。

では我々、学生は、このプロイセンの成立と台頭について、学んでいこう。

なお、日本史では時期的に江戸時代後半〜幕末のころが、下記に紹介するプロイセンやロシアの台頭してきた時代と、同じ頃の時代である。

プロイセンとオーストリアの台頭

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プロイセンの原型になった国は、もともと15世紀のホーエンツォレルン家のブランデンブルク公国であった。

そして17世紀、ドイツ騎士団領をもとにプロイセン公国が成立し、さらに18世紀はじめの1701年にはプロイセン王国になった。

プロイセン王国の2代目の国王であるフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、制度を整え、軍備も増強し、プロイセンにおける絶対王政の基礎を築いた。(なお、後世でいわゆる「フリードリヒ大王」とは、彼 フリードリヒ1世のことである。)

ついで1740年にフリードリヒ2世(在位1740〜86)が即位し、(国の改革のためか)啓蒙思想を取り入れ、農民を保護し、農耕業を奨励し、さらに教育を充実させ、宗教の寛容の政策を実施するなどの施策を実行したので、彼 フリードリヒ2世は典型的な「啓蒙専制君主」となった。フリードリヒ2世は「君主は国家第一の しもべ」と言ったと伝えられる。


さて、そのころオーストリアでは、1740年、マリア=テレジアがハプスブルク家の領土を継いだ。

フランスおよびプロイセンは、マリア=テレジアの継承に異議をとなえ、武力介入し、オーストリア継承戦争となった。

なお、この開戦当時のプロイセン国王はフリードリヒ2世なので、フリードリヒ2世が武力介入したことになる。


そして最終的にプロイセンはオーストリアからシュレジエン(地名)を獲得した。

戦争後、オーストリアは対立するプロイセンに対抗するために、それまで敵対していたフランスと友好的な外交政策を行った。

そして1756年には、オーストリアが目標としてシュレジエンの奪回をめざす七年戦争(1756〜63)が起きた。

しかしプロイセンもイギリスの支援を得て対抗したこともあり、オーストリアはシュレジエンを獲得できなかった。最終的にプロイセンがシュレジエンを確保した結末で和議となった。

さて、マリア=テレジアはプロイセンに対抗する目的もあって、さまざまな内政改革をすすめていた。そしてテレジアの子ヨーゼフ2世は農奴解放令や宗教寛容令などを実施して、オーストリア政治の近代化を行い、彼ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として知られることになった。

ロシアのロマノフ朝と近代化

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ピョートルの活躍

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ロシアでは1682年、ロマノフ朝ピョートル1世が、ロシアの近代化のために、西ヨーロッパ地方の造船術などを取り入れた。

彼ピョートル1世じしんが、300人ほどの部下とともに西ヨーロッパに視察に出てまでして、西欧の造船術などの工業を学んだ、ほどだであった。)


そしてピョートルの時代、清(シン、中国)と国境を確定するためのネルチンスク条約が結ばれた。

ピョートル1世はアゾフ海に進出した。

1700年に始まった北方戦争は、ロシア対スウェーデンの戦争であり、最終的にロシアが勝利した。スウェーデンは敗退した。勝利したロシアは、バルト海東岸を獲得した。そしてロシアは、このバルトの地に、ロシアの新首都サンクト=ペテルブルクを築いた。

エカチェリーナ2世の活躍

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時はすぎ、18世紀の後半、ロシアでは女王エカチェリーナ2世が、ロシアを東方まで進出させ、その一貫として日本に使節ラクスマンを送った。

また当時のロシアは南方ではトルコと戦い、ロシアはクリミア半島を獲得した。

エカチェリーナ2世は当初は(近代化を目指すためか)啓蒙専制君主を目指し、啓蒙思想家ヴォルテールなどの助言も参考にしたが、しかし農民反乱が発生してしまい(ブガチョフの農民反乱)、(おそらく貴族の協力を得るために)エカチェリーナは農奴制を強化した。

  • 備考
なおロマノフ王朝そのものは、1618年にミハイル=ロマノフが開いた。

ポーランド分割

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ポーランドでは16世紀後半、ヤゲウォ朝が断絶し、選挙による王政に移行した。

1772年、プロイセンが侵略目的のため、プロイセン・ロシア・オーストリアの3か国でポーランドの分割を提案し、実行されてしまい、ポーランドはまず国境ちかくの領土を3か国にうばわれてしまった。

ポーランド側では義勇軍が貴族コシューシコ(←人名)に率いられて抵抗したが、抵抗むなしく失敗してしまい、ポーランドでは最終的に(1772年の最初の領土分割も含めて)合計3回の領土分割が行われてしまい(ポーランド分割)、そのため地図上からポーランドは、いったん消滅した。(ポーランドが独立を回復するのは第一次世界大戦後である)