高等学校世界史B/ヨーロッパ中世世界の変容
教皇の権威の確立
[編集]11世紀ころ、聖職の売買や、聖職者の妻帯など、俗化し、厳格な信者からは堕落(だらく)と考えられてていた。11世紀後半にクリュニー修道院で戒律を遵守させる運動が起こると、これが広まり、教会全体を改革する運動となった。そして教皇グレゴリウス7世(Gregorius VII、在位1073〜85)は、聖職売買や聖職者の妻帯を禁止した。
しかし、この改革は、教会を支配していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(Heinrich IV)と対立した。そして教皇と皇帝の間で、聖職者の任命権をめぐる、叙任権闘争(じょにんけん とうそう)が起きた。 そして教皇が皇帝を破門するに至った。すると、破門に乗じて、諸侯が皇帝から離反する動きが起こったので、1077年、やむなく皇帝が教皇に謝罪するに至った(カノッサの屈辱)。 北イタリアのカノッサ城で、カノッサ城主のトスカーナ女伯(じょはく)に教皇へのとりないを頼んだので、こう言われる。皇帝は雪の中、3日3晩、許しをこうたという。
その後、この叙任権闘争は1122年のヴォルムス協約で妥協が図られ、聖職者は教会が信仰にもとづいて選出し、皇帝が世俗的権利を選ばれた聖職者に与えるという形式になった。
こうして、西ヨーロッパの教会に対しては、皇帝よりも教皇権が優位になった。 13世紀の教皇インノケンティウス3世(在位1198〜1216、Innocentius III)のとき、教皇の権威は絶頂期に達した。 インノケンティウス3世は、対立したイギリス王ジョンを破門して屈服させるなど、強大な影響力を持った。
十字軍
[編集]11世紀にイスラーム系のセルジューク朝がイェルサレムを支配下に置き、ビザンツ帝国を圧迫する。
ビザンツ帝国はローマ教皇に援助をもとめる。教皇ウルバヌス2世(Urbanus II)が1095年にクレルモン宗教会議を開き、聖地イェルサレム回復のための聖戦を行うために十字軍(Crusades)を派遣して遠征すべきことを提唱した。こうして翌1096年、各国の数万人の騎士からなる第1回十字軍(1096〜99)が出発し、1099年にはイェルサレムを占領して、ムスリムやユダヤ人に対する虐殺や略奪をして、イェルサレム王国(1099〜1291)をたてた。 しかしその後、イスラーム勢力がもりかえしたので、第2回十字軍が派遣された。
その後、アイユーブ朝のサラディンによってイェルサレムが奪回されたので、これに対抗するために第3回十字軍(1189〜1192)が派遣されたが、十字軍は失敗した。 十字軍に加わっていたイングランド王が講和をアイユーブ朝のサラディンにもちかけた。サラディンは、講和は、イスラームの復讐を禁ずる教えにもとづくとして、講和を承諾した。
第4回十字軍(1202〜04)は、当時のヨーロッパで絶大な権力をもっていた教皇インノケンティウス3世が提唱したのだが、どういうわけか、ヴェネチア商業の要望により、十字軍はイェルサレムには向かわずに、ヴェネチアの商業上のライバルであるコンスタンティノープルを占領して1204年にラテン帝国(Latin Empire)をたてるという、聖地回復の目的から外れた結果となった。
- ※ このコンスタンティノープルは、ビザンツ帝国の領土である。つまり第4回十字軍は、ビザンツ帝国を侵略したことになる。そして、ビザンツ帝国で主に信仰されている宗教はキリスト教である。(コンスタンティノープルは、イスラム教徒の街ではない。) なので、つまり十字軍は、キリスト教を信仰する都市(コンスタンティノープル)に攻め込んだことになる。
第5回十字軍では、戦争には乗り気でない神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位1215〜50、Friedrich II)が十字軍の指揮官として派遣され、フリードリヒ2世はアイユーブ朝との外交によってイェルサレムを形式的に回復した。フリードリヒ2世はシチリア育ちであり、そこにはアラブ人が多く居住しており、フリードリヒ2世自身もアラビア語を話すことができた。アラブ人やムスリムに、フリードリヒ2世は偏見をもたなかった。
第6回・第7回十字軍は、フランス王ルイ9世によって、エジプトやチェ二ジアを攻めたが、失敗した。
最終的に十字軍は1270年までに7回行われた。 1291年に十字軍の最後の拠点アッコン(Akkon)が陥落し、十字軍国家は消滅した。
これらの一連の十字軍のほかにも、ドイツ騎士団などの宗教騎士団が各地で組織された。修道士と騎士の性質をあわせもった騎士団である。三大宗教騎士団として、ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団がある。
ほかにも宗教的陶酔によって起こされた少年十字軍が1212年にあったが、参加者が離散して、参加者の一部が奴隷に売られるなどの、ぶざまな結果に終わった。
結局、十字軍の軍事的な成果は、すべて失敗に終わった。そのため、教皇の権威が低下した。また、参戦した諸侯や騎士も没落する者が多く、いっぽうで、国王が没落した諸侯・騎士の領地を没収し、国王の権力が増した。
また、東方貿易が活発になり、ヴェネチアが経済発展した。また東方貿易の結果、ビザンツ文明やイスラーム文明が西ヨーロッパに流入することになった。
都市の発展と自治
[編集]ヨーロッパでは11世紀ごろから、地中海貿易を中心とする地中海商業圏のほかに、北海・バルト海を中心とする北ヨーロッパ商業圏が栄えた。
北ヨーロッパ商業圏で、北ドイツのリューベック(Lubeck)、ハンブルク(Hambrug)、ブレーメン(Bremen)などの諸都市は、木材や毛皮、穀物、海産物などの取引きで儲けた。
いまでいうフランスとドイツの境いあたりにあるブルッヘ(ブリュージュ)、ヘント(ガン)などのフランドル地方(Frandre)は、毛織物工業で栄えた。
フランスのシャンパーニュ地方(Champagne)は定期市で栄えた。
地中海商業圏では、ヴェネチア(Venezia)、ジェノヴァ(Genova)、ピサなどのイタリアの開港都市が東西貿易で栄え、香辛料・絹織物などが取引きされた。また、この影響で、内陸部のミラノ(Milano)やフィレンツェ(Firenze)などの都市も毛織物産業や金融業などで栄えた。
都市は、諸侯や領主などの支配を受けていたが、しだいに自治の志向が高まり、11世紀ころから自治権を獲得し、自治都市になっていった。
都市は、自治の権利を行政的に正当化するため、皇帝や領主などから特許状(とっきょじょう)をもらい、その都市を自治した。 また、都市どうしで同盟をむすび、諸侯の支配に対抗した。 北ドイツでは諸都市がハンザ同盟(Hansebund)をむすび、北イタリアでは諸都市がロンバルディア同盟(Lega Lombarda)をむすぶなどの都市同盟がむすばれ、これらの同盟の都市は諸侯と同等の地位に立った。
いっぽう、イギリスやフランスの諸都市では国王との結びつきが強かった。
有力な大商人のなかには、国際政治に影響をおよぼす者も、あらわれた。フィレンツェのメディチ家(Medici)や、アウクスブルク(Augsburg)のフッガー家(Fugger)などが、そのような大商人として代表的である。
都市内部では、商人ギルドや同職ギルド(ツンフト)などの同業組合が、あった。同職ギルド(「ツンフト」ともいう)は、商人ギルドと対立しながら(ツンフト闘争)、市政に参加していった。
同職ギルド(ツンフト)は、きびしい規制で自由競争を規制し、それぞれの職業の市場を独占した。 また、同職ギルドの組合員になれたのは親方だけであり、徒弟(とてい)などは従属的な身分として扱われた。