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高等学校世界史B/ロシア革命

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

ロシア革命

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じつはロシア革命の発生時の1917年3月、革命運動家レーニンはスイスに亡命中であり、彼レーニンは最初の革命を起こしてない。

1917年3月、革命によって臨時政府が樹立した(二月革命)。(ロシア暦では2月なので、二月革命という。)

臨時政府は、当初、戦争を継続した。

その後、1917年4月、スイスからレーニンが帰国し、臨時政府と対決した。

レーニンはボリシェヴィキの支持を集めた。いっぽう臨時政府はメンシェビキの支持を集めた。

また4月には、レーニンは、ドイツとの戦争の即時停止などをうったえる「四月テーゼ」を発表した。(四月テーゼでは、「即時停戦」と「すべての権力をソヴィエトへ」などのスローガンを主張していた。)

だが臨時政府は、首相をケレンスキーに変えて戦争を続行した。

そして、1917年11月に、レーニン側の勢力であるボリシェヴィキが武装蜂起し、ソヴィエト政権を樹立した(十月革命)。

そしてレーニンの政権獲得後、「平和に関する布告」を列強に呼びかけ、無併合・無賠償・民族自決をよびかけた。同時に、新政権は「土地に関する布告」も発表し、土地の自由権を廃止して、大地主の土地を没収し、農民に分配した。

フランスがロシア革命前にロシアに投資していたぶんの債権(さいけん)は、ロシア革命によって消失した。(※ 参考文献: 東京書籍『新選 世界史B』)

(なお「債権」(さいけん)とは、相手に「カネを返せ」と要求できる権利。 いっぽう「債務」(さいむ)とは、相手から「カネを返せ」と要求されてしまう義務。)

なお、一連の革命によって、帝政ロシアの皇帝ニコライ2世は退位した。(のちに、革命政権の処刑により、ニコライ2世は銃殺される。)


そして1918年3月に、ロシアはドイツと単独講和した(ブレスト=リトフスク条約)。なお、この講和で、ロシアはポーランドやフィンランドなどをドイツに割譲し、領土を失った。(なお、のちの1919年のパリ講和会議でドイツの敗戦が決まると、ポーランドやフィンランドの独立が国際的に承認される。)

ロシア国内では、選挙でレーニンの政敵の社会革命党が優勢になると、レーニンは議会を解散し、レーニンひきいるボリシェヴィキによる独裁体制を築いた。(なお、1924年にレーニンが死亡すると、スターリンがソヴィエトの政権をにぎり、ひきつづき独裁政治を進めていく。)

なおボリシェヴィキは1918年3月に、自分たちの政党の呼び名を共産党と改称し、首都をモスクワに移した。


さて、十月革命の頃、トロツキーという人物がいた。

レーニンやトロツキーは、ロシア以外の地域でも社会主義革命を起こさせるべきだという「世界革命」を主張していた。1919年にモスクワで設立されたコミンテルンも、世界革命を目指して設立された組織である。


レーニンの死後、トロツキーとスターリンが政権をあらそい、最終的にスターリンが政権をにぎった。

すると、スターリンは、それまでの世界革命を否定し、ロシア地域が単独で社会主義を推進すべきだという「一国社会主義」を主張した。そして、スターリンはトロツキーを失脚させ、やがて国外追放した。(※ トロツキーは、1940年、亡命のためメキシコに滞在している時に、暗殺された。)

トロツキーの失脚後、スターリンは、トロツキーがレーニンの側近のように映っている写真を修正させ、それらの写真からトロツキーの姿を消させた。

(※ 現代の私たちにとっては、第二次大戦後の冷戦中のソヴィエトによる東欧支配などを考えると、ソヴィエトの政治は「一国社会主義」とは、結果はまったく違うという実情を知っている。だが、じつはスターリン政権の最初のころ、スターリンは領土獲得には、あまり関心が無かったのである。)


  • その他
(※ 範囲外:) レーニンが、地主や資本家などの不労所得を戒める意味で「働かざる者、食うべからず」と共産党の機関紙で述べたが、この慣用句(「働かざる者、食うべからず」)はもともと新約聖書にある一文である。けっしてレーニンの発明した格言ではない。

対ソ干渉戦争

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(上述のように)ボリシェヴィキが十月革命などの革命を起こすと、帝政ロシアの将軍たちが各地に反ソヴィエト軍の組織(白軍)をつくり、内戦が始まった。

また、イギリス・アメリカ・日本が、反ソヴィエト軍を支援するため、出兵して、対ソ干渉戦争が始まった。

日本はアメリカ合衆国とともに、シベリアに出兵した。

ソヴィエト政府は、赤軍(せきぐん)を組織して、対抗した。また、ソヴィエト政府はチェカ(非常委員会)を組織して、反革命運動を取り締まった。 さらにソヴィエト政府は戦時共産主義をしいて、食料の強制徴発(ちょうはつ)、中小企業まで含むほとんどの企業の国有化、などを行った。

しかし、戦時共産主義には、農民の不満が高かった。

そこで1921年になると、反ソヴィエト軍もほとんど倒され、外国軍もほとんど撤退をしていたので、1921年にレーニンは戦時共産主義を撤回し、1921年に食料の強制徴収をゆるめ、国有化もゆるめる新経済政策ネップ、NEP)をソヴィエト政権は採用した。

そして1922年にソヴィエト政権は、ロシア・ベラルーシ・ウクライナ・ザカフカースの4つの地域を4つの「ソヴィエト共和国」として連合してソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の成立を宣言し、1924年にソ連の憲法を発布した。


※ 備考: 共産主義(communism)とは、文字通りに考えれば共産党の者(communist)の思想という意味であり、「ソビエトの思想」のような意味で使う場合もあるが、しかし日本語で『共産主義』といった場合、私有財産の否定の思想のことを言う場合も多い。高校レベルでは、私有財産性の否定としての意味での『共産主義』とは、具体的には、企業の生産設備を国有化して、国の有にする主義思想だから、有の生設備の主義という意味で、共産主義という、くらいに覚えておけばいい(※ 教科書では説明されてないが、山川の用語集などで『共産主義』の意味が書いてある。)。高校の日本史や世界史では、ロシア革命以降の単元で、『共産主義』という用語がたびたび出てくるので、意味を把握しておくように。