高等学校世界史B/南北アメリカの発展
アメリカ合衆国が独立した時期は、フランス革命よりも前である。(むしろ、フランス革命の側が、アメリカ合衆国を参考にした可能性があるくらいだ。)
アメリカ合衆国の領土拡大
[編集]合衆国3代大統領ジェファーソンのころ、フランスでは皇帝ナポレオンが支配していた。ジェファーソンひきいるアメリカ合衆国は、ルイジアナを(ナポレオンひきいる)フランスから買収した。
アメリカはナポレオン戦争では中立を守っていたが、イギリスが海上封鎖を行って通商を妨害したので、1812年に米英戦争が起きた。
その後1819年にはスペインからフロリダを買収した。
1820年代にアメリカ合衆国 第5代大統領モンローは、そのころラテンアメリカで独立運動が盛んだったが、欧州各国に対して(アメリカの問題に干渉しないように呼びかけ、アメリカも欧州になるべく干渉しないという)相互不干渉の方針のモンロー主義を主張し、以降のアメリカ外交でもモンロー主義がアメリカ外交方針での手本となった。
そしてアメリカは領土拡大の方針を国家方針とし、方針として北アメリカ大陸の西部への領土拡大を目指していったので、メキシコと対立した。
アメリカは1845年にテキサスを併合したが、メキシコがこれに反発し、1845年にアメリカ=メキシコ戦争が起き、3年ほど戦争はつづき、この戦争に1848年にアメリカが勝利して、アメリカはさらにメキシコから領土としてカリフォルニアを獲得した。
同1848年、このカリフォルニアで金鉱が発見されたので、世界中から金鉱を掘り当てようとした者達が集まった(ゴールドラッシュ
)。
このような領土拡大の実態は、アメリカでは、神から与えられた使命であるとして「明白な使命」(マニフェスト ディスティニー)であるとして正当化された。
※ アメリカでは、西部への領土拡大は「フロンティア」への「開拓」などと言われたが、実際には先住民から土地を奪うものであった。
1828年に大統領になっジャクソンは、男子普通選挙を導入するなどの改革を行い、ジャクソン=デモクラシーと言われたが、黒人奴隷の問題は放置された。また、先住民は強制移住法によって、従来の土地をうばわれた。
南北戦争
[編集]真相
[編集]中学校では、「南北戦争の原因について、農業中心で奴隷制維持の南部と、工業中心の北部とが、国家の方針をめぐって対立したから」的にならうが、これは、やや不正確。
より正しくは、以下のとおり。
じつは、南部は分離独立しようとしていた。南部は上述のように北部と政策が対立していたので、独立しようとしていたのである。しかし、北部が南部の独立を認めず、戦争になった。(※ 参考文献: 中経出版『改訂版 センター試験 世界史Bの点数が面白いほどとれる本』、茂木誠、2014年8月24日、320ページ。 )
これが南北戦争の真因である。
南北戦争の経緯と結果
[編集]1860年に大統領に就任したリンカンが、奴隷制の拡大反対の政策を主張した(奴隷制そのものに反対したのでなく、奴隷制拡大に反対しただけの穏健派)。それに南部は反発し、1861年には分離独立しようとしてアメリカ連合国(Confederate States of America)を結成し、しかし北部は南部の独立を認めず、そして同1861年に北アメリカで南北戦争が始まった。
※ もともと、南部の国家主権を認めるかどうかの問題であるが、しかし北部は奴隷解放宣言(1863年)を発表するなどして、この問題を人権問題に変えていった。 このように、歴史には、いろんな視点がある。視点によっては、奴隷解放を口実として、北部は南部に介入し、南部の国家主権を侵害した、という視点もある。 北部には厳しい視点かもしれないが、しかし後の帝国主義〜第二次大戦後の冷戦の時代に、ソビエト連邦や中華人民共和国などが、人民の「解放」などを口実に、諸外国を侵略していく。このように、「人権」は侵略の口実に使われることもある。日本も例外ではなく、大日本帝国の時代には、満州事変のさいに、「民族の共和」など満州人の権利保護を口実に主張していた。
1863年、北部のリンカンは、南部で奴隷反乱が起きることを期待して、奴隷解放宣言を出した。そして同1863年、北軍はゲティスバーグの戦いで南軍に勝利したことで、戦争を有利にすすめた。1865年に南軍は降伏し、合衆国は統一された。
合衆国が統一されると、黒人にも投票権が与えられた。だが南部では公共施設が人種によって区別されるなど、差別が残った。また、事実上の差別団体であるクー=クラックス=クランという白人至上主義団体が結成された時期も、この1865年の頃である。
なお、人道主義者の女性作家ストウが『アンクル=トムの小屋』を発表して奴隷制を批判したのは1852年であり、南北戦争よりも少し前の時代であり、リンカンの大統領就任前である。
- ※ つまり、時代順にいうと、ストウの作品が影響になって奴隷解放の世論が高まり、のちのリンカンの大統領当選に影響し、のちの南北戦争における奴隷解放宣言に影響したのである。
また、黒人奴隷解放の政策には土地の提供は含まれておらず、解放された黒人の仕事は土地をもたないため、小作人などにならざるをえず(南北戦争後のこのようなアメリカ黒人の小作人は「シェアクロッパー」(share cropper)といわれた)、黒人は貧しいままだった。
外交
[編集]1854年、江戸時代の日本にペリーが来航して日米和親条約が結ばれた。(南北戦争よりも前の時代である。その頃は、まだリンカンは大統領ではない。)
ペリーの日本来航は、時期的にはカリフォルニアの併合後であるが、べつにペリーの船団はカリフォルニアの西海岸を出発したのではなく、インド方面から日本に来航したのである。
また、1867年にアメリカは、ロシアからアラスカを買収した。
西部開拓
[編集]南北戦争中の1862年に、北部は農家の支持をあつめるため、西部の国有地に5年間定住して開拓した者に一定の土地を無償で提供するホームステッド法を(1862年に)出した。
1869年には最初の大陸横断鉄道が完成した。