高等学校世界史B/契丹と宋と周辺地域

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

契丹[編集]

8世紀、モンゴル高原はウイグルが支配していた。 しかし9世紀なかばの840年、ウイグルは滅ぶ。

モンゴル高原では、モンゴル系の遊牧民である契丹(きったん)(キタイ)の勢力が強まる。 10世紀はじめ、唐が滅亡した。

燕雲十六州(黄色)

916年、モンゴル高原で耶律阿保機(やりつあぼき)が契丹諸部族を統一した。 926年、耶律阿保機は渤海(ぼっかい)を滅ぼした。その後、つぎの大宗は後晋の建国を援助して、見返りとして、中国東北部にある燕雲十六州(えんうん じゅうろくしゅう)を割譲させた。その結果、契丹は中国東北部を領有するに至った。これらの領土拡大により、契丹の領土は、西はモンゴル高原から、東は中国東北部を領有するに至った。

中国で960年に宋(そう)が建国しても、契丹は、たびたび宋に侵入した。

宋は、和議を契丹に申し出、和議の見返りとして、宋が銀や絹を毎年大量に契丹に送ることを条件とし、そして1004年に契丹と宋は和議した。(澶淵の盟、せんえんのめい)

契丹の文化は、はじめウイグル文化の影響を受けていたが、しだいに中国文化の影響を受けるようになり、仏教を受け入れた。

契丹は文字に独自の契丹文字を持っている。契丹人や遊牧民には遊牧社会の制度にもとづく部族制を適用し、漢人や農耕民には州県制などを適用するという、部族制と州県制をあわせた二重統治体制を取っている。

契丹は947年に、国号を(りょう)と定めた。


  • 西夏

また、中国北西部ではチベット系の民族が西夏(せいか)をたて、貿易の通商路の要衝となって、利益を得た。西夏文字を持っている。

宋の建国[編集]

960年、節度使の出身である趙匡胤(ちょうきょういん)によって、が建国された。 燕雲十六州をのぞく中国各地を平定し、平定後、軍人勢力をおさえるため、政策が文治主義(ぶんちしゅぎ)になった。 そして宋は、科挙の制度を整備した。科挙に、皇帝みずからが面接をおこなう殿試(でんし)を加えて、官僚との信頼の強化をはかった。

科挙は、たてまえは、だれでも受験できるというものだったが、それに合格するためには長年かつ毎日長時間の受験勉強が必要であったので、農民には受験勉強が実質的に無理で、実際には経済力のある地主層などでないと合格できないような試験だった。

宋は、防衛費や外交費と官僚制の人件費などが膨大なため、財政が悪化した。

王安石

そのため第6第皇帝の神宗(しんそう)は、宰相に王安石(おうあんせき)を起用して、改革を行った。王安石の改革は新法(しんぽう)と言われる。 改革の内容は、経済政策の改革では、農民や小商工業者を支援して大商人を抑制し、低利融資を行うことで高利貸を抑制するものだった。

新法は地主や大商人の既得権益を侵害しているので、大地主や大商人は、この新法に反対し、また、司馬光(しばこう)などの保守派(旧法党)の官僚も、新法に反対した。いっぽう、新法を支持する側の官僚たちの勢力を、新法党という。

改革は旧法派の抵抗がありながらもかなりの成果を挙げ、財政は赤字から黒字になり国庫には莫大な財産が蓄えられた。国内情勢も安定し反乱も大幅に抑えられた。 しかし、王安石の引退と神宗の死去でこの改革は中止された。

その後、新法党と旧法党とが政策抜きの党派闘争を行ったため、宋の国政は大混乱した。


新法の内容は、おもに青苗(せいびょう)・市易(しえき)・募役(ぼえき)・均輸(きんゆ)・保甲(ほこう)・保馬(ほば)である。

  • 青苗(せいびょう)

中小農民への低利貸し付けで、金銭や穀物などを貸す。植え付け時に農民に貸して、収穫時に農民からの生産物などで回収する。

  • 市易(しえき)

中小商人への低利貸し付け。

  • 募役(ぼえき)

労役を免除するかわりに銭納させる。

  • 均輸(きんゆ)

物価調整。

  • 保甲(ほこう)

農民を民兵にする制度。

  • 保馬(ほば)

軍馬を農民に飼育させる。

女真族の金[編集]

1142年

契丹の勢力範囲の東北部では、ツングース系の女真族(じょしんぞく)が、契丹による支配を受けていた。(女真のことを「女直」(じょちょく)ともいう。) しかし12世紀はじめ、女真族の完顔阿骨打(ワンヤンアグダ)に率いられ女真族が反乱し、そして女真族は独立して(きん、1115〜1234)を建国した。

宋は新興の金と結んで、契丹を攻撃し、ついに1125年に遼(りょう)を滅ぼした。このとき、遼の王族の耶律大石(やりつたいせき)は中央アジアに逃れ、西遼(せいりょう、カラ=キタイ)をたてた。

遼の滅亡後、金と宋は対立し、金は華北を占領し、宋の都・開封(かいほう)を陥落し、宋の皇帝・欽宗(きんそう)を捕らえた。

このため、皇帝の弟の高宗(こうそう)が一族は江南(こうなん)に逃れ、南宋(なんそう、1127〜1279)をたて、臨安(りんあん)(現在の杭州)を首都とした。


金は独自の女真文字を持つ。金も、二重統治体制をとっており、女真族には部族制にもとづく猛安・謀克の制(もうあん・ぼうこくのせい)をとり、漢人には宋の州県制を継承し適用した。

金に対する南宋の対応[編集]

秦檜夫妻の像。かつてはこの像に唾を吐きかける習慣があったが、現在は禁止されている。右が秦檜で、左が妻の王氏。

南宋の政策の関心は、金に対する対応が関心になり、和平派の秦檜(しんかい)と主戦派の岳飛(がくひ)らが対立した。 そして和平派が勝ち、金と講和した。この結果、淮河(わいが)が両国の国境となり、南宋は金に臣下の礼をとることになり、毎年、南宋は金に多量の銀や絹を送ることになった。

以降、約100年ほど、南宋に比較的平和な時代が訪れる。 そして約100年後の1279年、モンゴル帝国の元(げん)軍によって南宋は滅ぼされる。

南宋の経済[編集]

経済の中心は江南に移り、江南の開発が進んだ。 南宋宋はおおいに経済発展した。

水はけの悪い低湿地を干拓するために堤防で囲んでつくられた田を囲田(いでん)という。囲田が多くつくられた。 このようにして田の面積が増大し、「蘇湖(そこ)熟すれば(じゅくすれば)、天下(てんか)足る(たる)。」といわれた。 ベトナムの農業から、成長の早いチャンバー米が宋に伝わり、宋の農業にチャンバー米が導入された。

この時代、商取引が増大し、今までの銅銭のほか、新たに手形(てがた)として交子(こうし)や会子(かいし)が用いられるようになった。そして、手形が紙幣として使われるようになった。 また、高額な取引などでは、金や銀が地金のまま、用いられた。

同業組合が、都市では、つくられるようになった。商人の同業組合である(こう)、手工業者の組合である(さく)などがつくられた。

城外にも商業地が多くつくられるようになり、また交通の要所なども商業地として発展し、これらの新しい商業地は草子(そうし)や(ちん)といわれた。

対外貿易も活発になった。また、羅針盤(らしんばん)が実用化された。

木版印刷が普及した。 火薬と羅針盤が実用化され、イスラーム世界を通じて、ヨーロッパに伝わっていった。

茶などの嗜好品や、陶磁器などの工芸品なども、特産品として普及した。

茶が唐代から普及しはじめていたが、宋代になってますます茶は普及し、江南で茶が多く栽培され、茶は重要な輸出品になった。 窯業(ようぎょう)も発達し、景徳鎮(けいとくちん)(※ 地名)などの陶磁器の特産地もあらわれた。

宋の文化と芸術[編集]

院体画、「桃鳩図」(とうきゅうず)。この絵は、宋の皇帝徽宗(きそう)が描いた。
朱熹(しゅき)

儒学をもとに、朱子学(しゅしがく)を、南宋の朱熹(しゅき)が確立した。儒学をもとに、北宋の周敦頤(しゅうとんい)が発展させたものを、朱熹が確立したのが朱子学である。

朱子学は、その後、ながらく儒学の正統とされた。そして、その後、日本や朝鮮などでの思想にも、朱子学は大きな影響を与えた。

(日本には、鎌倉時代に朱子学が伝わり、のちに江戸時代の日本に朱子学が広がった。そして、日本でも、朱子学が、江戸幕府の正当な学問となる。)

また、儒教の経典では、今までの経典の『五経』(ごきょう)に代わり、こんどは四書(ししょ)(『論語』『孟子』『中庸』『大学』)が経典になった。 美術では、宮廷画家を中心とする、写実的な院体画(いんたいが)が出た。

北宋の司馬光が、編年体の通史の『資治通鑑』(しじつがん)を著した。

文学では、欧陽脩(おうようしゅう)や蘇軾(そしょく)が出た。

科挙のために儒学の教養を身につける金持ちや地主が現れ、新興地主などが儒学の教養を身に付け、知識人となった。これらの知識人は、士大夫(したいふ)または読書人(どくしょじん)と呼ばれた。

朱子学の特徴

朱子学では、自国の民族意識や伝統を強調し、自民族を優越視して周辺国を見下す観点で成立した。そのため、華夷(かい)の区別を主張した。この点が、以降の中国の王朝でも、朱子学のいう自分達の王朝を絶対視する点が好まれ、以降の王朝でも朱子学が正統とされることが多いことの一因となった。

また朱子学は、君主と臣下の区別も重視し、この点が、のちの朝鮮の王朝や、のちの日本の江戸幕府でも好まれた。

なぜそう確立したのかは、諸説あり、たとえば朱子学が成立した宋の時代は、漢民族が異民族の金に屈服だったから、漢民族にとって屈辱の時代だったので、それに反発したかったという背景事情がある[1] という説もある。いっぽう、他の説では、金にとっても、漢民族に文化的に見下される、不愉快な時代だったので、それに反発したかったという背景事情だという説もある。

原因の推測はともかく、結果的に、朱子学は、華夷(かい)の区別を主張した。

そして、朱子学は、このような思想を証明・正当化する根拠として、「理」(り)と「気」(き)という2つの概念から、すべての出来事・物が説明できると、抽象的なことを言い出した。 朱子学のいう「気」とは、ガス状の物質のことである。「理」とは、万物の原理のことである。なお、この「理」と「気」で万物を説明しようとすることを「理気二元論」(りき にげんろん)という。

なお、この宋の時代、まだ科挙には朱子学は採用されていない。のちの時代の王朝で、朱子学は科挙に採用される。

なぜ「理気二元論」という抽象的なスタイルが朱子学で確立したかは諸説あり、たとえば科挙のような細かな暗記に反発したとか、いろいろな説がある。原因の推測はともかく、朱子学は、理気二元論を主張した。

この理気二元論が、とても抽象的であり、のちに日本では、朱子学の批判者から、批判されることの一因になる。


江戸時代の日本での朱子学
(※ おもに高校「日本史」「倫理」の範囲)
のちに江戸時代の日本では、儒学者である藤原惺窩(せいか)(※ 日本人)や、その弟子の林羅山(はやし らざん)(※ 日本人)などによって儒学が広められ、そして儒学が江戸幕府の体制の学問になり、とくに朱子学が体制の学問として重視された。
ただし、江戸時代には朱子学への批判者もあり、伊藤仁斎(いとう じんさい)(※ 日本人)は、朱子学が抽象的であり現実から離れていると批判し、さらに朱子学は孔子の言葉を曲解して伝えていると批判し、『論語』『孟子』などの古代の原典をたずねて儒学を勉強するべきだと主張した。このように、儒学などの研究で、より古い原典をあたって研究することを、古学(こがく)または古義学(こぎがく)という。
江戸時代に荻生徂徠(おぎゅう そらい)(※ 日本人)が、伊藤仁斎の影響を受け、徂徠は、論語よりもさらに古い『六経』(りくけい)を研究し、古学を発展させた。
青磁

宋の陶磁器では、青磁(せいじ)や白磁(はくじ)が有名である。

また、庶民のあいだで、小説や雑劇(ざつげき)が広まった。

宗教では、禅宗(ぜんしゅう)が、官僚や士大夫などに普及した。 また金の統治した華北では、道教をもとに、仏教・儒教などを取り入れて発展させた全真教(ぜんしんきょう)がおきた。

また、音曲にあわせて韻文(いんぶん)をうたう詞(し)が流行った。

参考文献[編集]

  1. ^ 茂木誠、『改訂版 センター試験世界史Bの点数が面白いほどとれる本』、中経出版、2014年8月24日改訂版、第3刷発行、P199