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高等学校世界史B/東アジアの激動

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

イギリスによる清の開国

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18世紀に入り清朝では平和がつづき、人口が増大したが、耕地が不足したので、しだいに社会の緊張は高まった。

そして18世紀末の1796年には白蓮教(びゃくれんきょう)の反乱が起きた。反乱は長引き、鎮圧に9年ほど、かかった。(1796〜1804年 : 白蓮教徒の乱)

特に、四川(しせん)と湖北(こほく)で、この反乱がひどかった。

(しかし、この反乱(白蓮教徒の乱)は、中国の植民地化とは、あまり関係が無い。) (中国を植民地化に追い込むのは、イギリスによるアヘン輸出である。)

イギリスで描かれた風刺画
乾隆帝(けんりゅうてい)とマカートニーの会見のようす。イギリス側を美化している。清朝は尊大であるというイメージで描かれている。

いっぽう、イギリスは貿易の自由化をもとめて、マカートニーやアマーストを清に派遣したが、しかし清は貿易自由化を拒否した。 このころヨーロッパでは紅茶を飲む習慣が広がり、中国産の茶の需要が高まっていたので、対清貿易はイギリスの赤字(輸入超過)となり、銀がイギリスから清に流出した。(当時の世界経済は、銀を貿易用の貨幣として用いていた)

イギリスは貿易赤字を補填するために、インドで栽培したアヘンを秘密裏に清に輸出する密貿易を行った。

こうして、下記に述べる三角貿易が完成した。

三角貿易とは・・・

・ イギリスからインドには綿織物を輸出。
・ インドから清にはアヘンを輸出。
・ 清からイギリスには茶を輸出。

これが三角貿易である。

アヘン戦争
イギリスの軍艦は絵で右側にある小型の船である。このイギリス軍艦は蒸気船であるため、蒸気を出している。清軍の軍艦はジャンク型である。この絵の右側の赤丸で囲んだイギリス蒸気船が、絵の左側にある清軍の軍艦を砲撃している。

清は、アヘンの禁止を主張する林則徐(りん そくじょ)を広州に派遣し、アヘンの取締りを始めた。林則徐はアヘンを没収して廃棄させた。

するとイギリスは、(不道徳にも)アヘンの対清輸出の自由化を主張し、イギリス議会内でもアヘンの貿易には反対意見はあったが、最終的に開戦をし(アヘン戦争 : 1840〜42年)、イギリスが勝利した。

やぶれた清は、1842年に南京条約を締結させられた。

南京条約の内容
・ 多額の賠償金の支払い。
・ イギリスに香港(ホンコン)を割譲。
・ 上海(シャンハイ)など長江以南の5港を開港。

上記の3つが、南京条約の主な内容である。

しかし南京条約の締結後も、イギリスの商品は 清では あまり売れなかったらしい。

さらに翌43年にも別の条約が結ばれ(清がイギリスに対して結んだ条約)、この43年の条約により、領事裁判権や治外法権、清が関税自主権を失うこと(「協定関税制」という名目)、イギリスに対する最恵国待遇が、決められた。

この場合の「最恵国待遇」とは、もしイギリス以外の国(例えばフランスやアメリカなど)が清と条約を結んで、清から権利を獲得したら、清はイギリスにも同等の権利を与える義務がある、とする取り決め。

こうして、清は(上述の)不平等条約をイギリスと結ぶことになった。

また1844年には、アメリカが、イギリスと同等の条約を、清に締結させた( 望厦条約(ぼうかじょうやく) )。 さらに同1844年、フランスも、イギリスと同等の条約を、清に締結させた( 黄埔条約(こうほじょうやく) )。

こうして清は、英米仏に対して、治外法権、関税自主権の喪失、などを認める羽目になった。

また、1845年にイギリスは上海に、(のちに)「租界」(そかい)と言われる、清の行政権が及ばない区域を設けさせた(事実上のイギリス領土)。以降、中国の主要な港町に、外国による租界が設けられていった。


1856年、イギリス船アロー号の船員(この船員は中国人)が、清によって海賊容疑で逮捕されるという事件が起き(アロー号事件)、イギリスはこれを口実に戦争(アロー戦争)をしかけ、英仏が出兵した。(アロー戦争のことを「第二次アヘン戦争」ともいう。)

英仏軍は天津(テンシン)にせまり、清は1858年に天津条約を締結させられた。しかし翌年、批准書の交換に来た使節の入京を清軍が阻止したことにより、英仏軍はまた派兵し、英仏軍は北京に攻め込み、離宮である円明園を略奪し、北京を占領して、1860年に英仏は清と北京条約を締結した。

※ 中学教科書では、北京条約や天津条約の内容を南京条約による結果として説明しており、中学では「北京条約」「天津条約」などの名前を出してない。

北京条約の内容は・・・

天津など11港の開港。
キリスト教の中国内地での布教の自由の権利。(検定教科書では「キリスト教の内地布教権」と略す場合もある。)
九竜(きゅうりゅう、カオルン)半島の先端部をイギリスに割譲。
外国行使の北京駐在。

が北京条約の内容である。

同じ頃、アヘン貿易も公認された。 ロシアはこの頃、清の苦境に乗じて、東シベリア総督ムラヴィヨフの圧力のもと、清に条約(アイグン条約)を1858年に結ばせ、ロシアはアムール川(黒竜江)以北を領有した。

また、清はこのように開国させられたので、従来の朝貢とは違った外交の事務が必要になったので、1861年に総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん)を設けた。


  • 備考

なお、アイグン条約の時期(1858年)は、クリミア戦争(1853年)よりも、あとである。このことから、ロシアが東洋に進出していった理由のひとつとして、クリミア戦争にロシアがやぶれたことで、地中海進出が困難になったので、かわりに中国方面に進出しようとした事が考えられてる。(※ 検定教科書でも、東京書籍などが、クリミア戦争との時期的な関係を指摘している。)

太平天国の乱

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※ 中学の復習。

清は多額の賠償金を払うため、国民に重い税をかけた。このことが清国民の不満を高めた。また、もともと清の王朝は満州族の王朝であり、漢民族などは満州族による支配には不満をいだいていた。
洪秀全(こう しゅうぜん、ホンシウチュワン)を中心にする、満州族の政府である清国政府を倒そうとする反乱が1851年に起き、南京を拠点にして太平天国(たいへい てんごく)という国が、一時的に作られた。
この乱を、太平天国の乱(たいへいてんごく の らん)という。
太平天国は、運動の理想として、農民たちに土地を平等に分け与えることなどをかかげて、農民たちに支持されました。
しかし、イギリスなどの支援を受けた清国政府によって、太平天国は倒され、1864年には太平天国の拠点だった南京も占領され、洪秀全も自殺しました。
結果
太平天国の乱 は失敗する。
洪秀全は死亡(自殺)。

高校の範囲。
  • 太平天国について

・ 太平天国は「滅満興漢」(めつまんこうかん)というスローガンを掲げた。(なお清国の王朝は、満州人の王朝である。)

・ また太平天国は理念として、アヘンの厳禁、纏足(てんそく)の禁止、弁髪の拒否、を掲げていた。

(弁髪は満州人の風習である。だから、「満州人の王朝を滅ぼそう」と考える太平天国は、弁髪を強制しようとする満州人の要求を拒否するわけである。)
なお、太平天国は、支配下の男性を使役するのはもちろん、支配下の女性も、使役のために動員した。

・ 太平天国の母体となった組織は、宗教結社の「上帝会」(じょうていかい)である。この上帝会は、洪秀全が組織した宗教結社であり、キリスト教系の理念を掲げた。なお洪秀全は、自分はイエスの弟である、と自称していた。


  • 政府の対応

・ 清は、太平天国を鎮圧しようとする。(清王朝は、太平天国の敵。)

・ 太平天国を鎮圧したのは、清の中央軍ではなく、地方の義勇軍(※ タテマエ上は義勇軍)。漢人官僚が地方で動員した義勇軍であり、「郷勇」と言われた。

代表的な郷勇としては、曾国藩(そうこくはん、※ 人名)の湘軍(しょうぐん)、李鴻章(りこうしょう、※ 人名)の淮軍(わいぐん)などがある。


  • 欧米の対応

・ 太平天国の乱が勃発した当初の1851年は、まだ北京条約(1860年)の調印前であり、当初の欧米列強は中立の立場をとっていた。

・ しかし1860年以降、欧米列強は(利権維持のために)清政府を支援する立場を明確にする。アメリカ人ウォードやイギリス人ゴードンが清政府側の「常勝軍」を指揮して、清政府を助けた。


  • 発生時期と原因

・ 太平天国が反乱を起こした時期(1851年)は、アロー戦争(1856年)よりも前の時代。したがって、北京条約(1860年)よりも前の時代である。

なので、つまり、アヘン戦争での中国の敗戦による南京条約(1842年)によって中国民衆の不満が高まったことが、太平天国の反乱の原因である。太平天国の原因になった条約は、(おそらくは)南京条約である。北京条約や天津条約は、原因ではない。(※ 日本の中学歴史で、「南京条約」ばかりを代表的に紹介しているのも、おそらくは、そのような理由。)


  • 結果

1864年に南京は陥落し、反乱は終了する。そして清朝の中央政府では、漢人官僚の勢力が強まっていった。(「郷勇」などの活動で、漢人勢力が活躍したため)



(上述の内容を、先に起きた順番に記すと(※ 検定教科書での説明方法)・・・、)

中国ではアヘン戦争の敗戦により、賠償金の支払いのために増税されたり、またアヘンの密輸のために銀が流出するなどして、経済が悪化したため、民衆の負担も高まり、人々の不満が高まっていった。そのような不満を背景に、イエスの弟を自称する洪秀全が、キリスト教系の理念を掲げる宗教結社「上帝会」を結成し、反乱を起こし、上帝会を母体とする反乱組織「太平天国」を1851年に結成した。

太平天国は理念として、アヘンの厳禁、纏足(てんそく)の禁止、弁髪の拒否、を掲げていた。なお、太平天国は、支配下の男性を使役するのはもちろん、支配下の女性も、使役のために動員した。

清は、太平天国を鎮圧しようして、漢人官僚によって地方の義勇軍(郷勇)を多く動員して、彼らに戦わせた。曾国藩(そうこくはん)の湘軍(しょうぐん)、李鴻章(りこうしょう)の淮軍(わいぐん)などが、郷勇として活躍した。

1864年に南京が陥落して、太平天国は滅亡した。1851年〜1864年の、14年間ほどの反乱は、こうして終了した。

洋務運動

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太平天国の乱の終結後、清は欧米から、軍事技術や工業技術などを導入しようという運動がこころみられ( 洋務運動(ようむ うんどう) )、清朝の高級官僚である曽国藩・李鴻章・左宗棠(さそうとう)らの主導のもと、中国にも兵器工場や紡績工場がつくられた。また、鉄道の敷設(ふせつ)や、鉱山、電信などの新事業が行われた。

なお、この洋務運動は、けっして議会制民主主義や民主主義の選挙制度を導入しようというものではなく、そのことによって、後世の歴史家から「中体西用」(ちゅうたいせいよう)と言われている。(※ 東京書籍の教科書によると、「中体西用」は当時のスローガンではなく、後世につくられた用語だと書かれている。)
「中体西用」の意味は、「中国の伝統的な政治制度のまま、西洋の科学技術を導入して活用しようとした」という意味である。
なお「洋務運動」という語もまた、じつは後世につくられた用語である(※ 東京書籍の見解)。だが、上述のような運動があった事自体は事実だし、現代では近代中国史の歴史学の用語として「洋務運動」は定着している。

日本への影響

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いっぽう、そのころの日本に、アヘン戦争での清の敗戦の知らせが、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。 また、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていっているという情勢(じょうせい)に気がつく者があらわれはじめてきます。

このあと、フランスなどの他のヨーロッパの国々も、イギリスのように、武力でアジアを支配するようになっていった。


日本の幕府は、貿易相手のオランダなどを通して清の敗戦を知ったこともあり、異国船打払い(いこくせん うちはらい)の方針を変えないと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給(ほきゅう)することをゆるしました。