高等学校世界史B/清の初期

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「女真」とは何者か?[編集]

※ 明を滅亡させたのは、李自成(りじせい)による反乱によるペキン占領です。けっして、北方民族の女真(じょしん)(※ のちの「満州」族)による侵略ではありません。ましてや、豊臣秀吉は、けっして明を滅ぼしてません。明を滅ぼした相手を間違えないでください。
※ なお、「女真」族は、のちの「満州」族である。

明の滅亡の少し前から、北方民族の国の女真(じょしん)が明と対立していた。対立前の当初は、明との朝貢貿易をしていたが、交易条件が女真に不利なため、女真は明と対立した。 そして、もはや明とは対抗するため、女真は1636年に国号を「」(シン)にした。

女真の、「清」になる前の国号は「アイシン」(満州語で「金」の意味)だった。(アイシンのことを「後金」ともいう。) 「アイシン」の2代目 太宗ホンタイジ(在位1626〜43)が国号を1636年に「清」にした。

そのアイシンは、1616年に女真族のヌルハチが諸部族を統一したことにより、1616年に「アイシン」の建国が宣言されたのである。

つまり、過去から順に話すと、次のようになる。・・・

1616年、女真の太祖ヌルハチ(Nurhachi)は、周辺の諸部族を統一し、そして「アイシン」の建国を宣言した。女真(アイシン)は当初、明との朝貢貿易をしていたが、交易条件が女真に不利なため、女真は明と対立した。その後、アイシンの太宗ホンタイジ(在位1626〜43)が国号を1636年に「」に改めた。


清軍によるペキン占領[編集]

その後、1664年、明で李自成(りじせい)による反乱によって北京(ペキン)が占領され、1664年に明は滅んだ。

明が滅んだため、長城を防衛していた将軍 呉三桂(ごさんけい)が清に降伏したので、清軍は長城を通過して、そして清軍は北京へと向かい、清軍は、北京を支配する李自成の軍と戦闘をし、清軍が勝利した。

そして、中国は、「清」王朝の支配する地域になった。

清の北京占領後のしばらく、当初は、呉三桂をふくむ3人の漢人武将が、清に優遇された。

そして、この3人の漢人武将が、それぞれ雲南(うんなん)・広東(かんとん)・福建(ふっけん)の藩王に任命された。

しかし、しだいに女真族と漢人武将が対立し、このため清朝が藩王の排除をはかったので、呉三桂は反乱を起こした(三藩の乱、さんぱんのらん、1673〜81年)。

このようにして、清は中国を統一していった。そして、中国は、漢人の国ではなくなっていき、中国は女真族の支配する国になった。


清の中国支配の方法[編集]

清は、科挙の制度を引き継いだ。

また、中央官庁の要職では、満州人・漢人を同数にした。(このため、中央官庁の定員は偶数である。)

しかし、統制はきびしく、反清の言論は弾圧し(文字の獄(もんじのごく)、禁書(きんしょ))、また、漢人男性には辮髪(べんぱつ)を強制した。

その一方で、清朝は『康熙字典』(こうきじてん)、『古今図書集成』(ここん としょ しゅうせい)、『四庫全書』(しこぜんしょ)などを編纂(へんさん)し、学者を優遇した。


(※ 範囲外:) 『康熙字典』は、清朝において正式とされる漢字を収録した字典である。中国だけでなく日本だも、漢字の形成に大きな影響を与えたとされる。そのため現代でも、漢字の字体の変遷などの研究の場において『康熙字典』は重視される。


清の経済や税制[編集]

清は当初、台湾を支配していた鄭成功(ていせいこう)の打倒などのために海禁をしていた。しかし、反清勢力の打倒なども終わると、清はしだいに海禁を解除していった。

そして、清の時代に海禁が解除されると、貿易が活発になり、銀が中国に大量に流入した。

さて税制において、清の当初は、明からの一条鞭法(いちじょうべんぽう)を清も引き継いだ。なお、明時代の一条鞭法の導入では、それまでの税制が簡素化され、また、銀で納税する制度だった。

18世紀に清は、さらに税制を簡素化し、清は、人頭税(丁税(ていぜい) )を土地税(地銀)に組みこむことによって課税対象を土地に一本化する地丁銀制(ちていぎん せい)を採用した。


康熙帝と周辺地域との関係[編集]

  • 清と台湾の関係

鄭成功(ていせいこう)は、明の残党に協力し、1661年には台湾を占領し、それまで台湾を支配していたオランダを台湾から追放した。

しかし1683年、清の康熙帝(こうきてい)は、鄭成功(ていせいこう)一族を滅ぼし、清が台湾を占領した。

なお、江戸時代の日本の近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)の人形浄瑠璃『国姓爺合戦』(こくせんやかっせん)が、鄭成功(ていせいこう)を中心にしたストーリーである。

  • 清とロシアとの関係

康熙帝の時代、台湾平定のあと、清は北方に進出したこともあり、ロシアと対立した。当事、ロシアは黒竜江(こくりゅうこう、アムール川)に南進していた。そして、清はロシアと戦い、最終的には清とロシアとの国境を確定するネルチンスク条約が1689年の康熙帝の時代に締結された。

  • 清とモンゴル方面との関係

さらに康熙帝は、みずから大軍をひきいて(北西方向にある)モンゴル方面に遠征し、このモンゴル周辺の地域を支配していたジュンガル(部族名)と清は対決して、清は勝利し、清朝はモンゴル地域を征服した。

乾隆帝(けんりゅうてい)の時代、1758年に清によってジュンガルは滅ぼされ、さらに東トルキスタン地域も清に征服され、東トルキスタン地域は「新疆」(しんきょう、 ※ 「新しい領土」という意味)と名付けられた。

また、元の時代からチベットは中国に服属しており、明の時代にも中国に服属したが、つづけて清の時代にもチベットは中国に服属したので、清はチベットにも影響力を持った。

このようにして、18世紀なかばに清朝は、中国史上では最大の領土となった。

しかし、清はその獲得した領土を直接統治はせず、間接統治をさせた。清は、モンゴル・チベット・新疆・青海(せいかい)は藩部(はんぶ)として理藩院(りはんいん)に間接統治をさせた。

※ つまり、数式で書けば、
 藩部 = {モンゴル・チベット・新疆(東トルキスタン)・青海}
である。

清は、これら藩部の風習については、ほとんど干渉しなかった。

清によって直接統治されたのは中国内地・満州・台湾のみである。その他の間接地域は、関節統治されたのである。

さて、チベット地域や一部のモンゴル地域ではチベット仏教が信仰されているが、清は、チベット人やモンゴル人の支持を得たいという都合もあり、清はチベット仏教を保護した。

康熙帝(こうきてい)[編集]

第4代 康熙帝(こうきてい)

・三藩の乱を鎮圧
・台湾を支配していた鄭成功(ていせいこう)を滅ぼす。
・ネルチンスク条約

典礼問題[編集]

中国でキリスト教を布教しているイエズス会宣教師は、中国風のさまざまな儀式や風習になるべく従って布教していたこともあり、清朝はキリスト教の布教を禁止しなかった。

中国でイエズス会の宣教師は、キリスト教信者が、孔子を崇拝したり、先祖を祭祀することも、容認していた。

しかし、他派の宣教師が、イエズス会の布教方法を批判し、ローマ教皇にイエズス会式の布教方法はキリスト教の教義に違反していると訴えた。ローマ教皇は、イエズス会の布教を批判し、そして、中国文化にあわせた布教を禁止した。

これに対し、中国では清朝の康熙帝(こうきてい)が反発して、康熙帝は、中国文化風の儀式を認めるイエズス会以外の布教を禁止した。そして、雍正帝(ようせいてい)の時代、1724年にキリスト教の布教そのものが禁止され、キリスト教宣教師は宮廷内で西洋技術などを紹介する技術者などとして活動するのみとなった。

これらの出来事を典礼問題(てんれい もんだい)という。

清の当初の科学技術[編集]

円明園 現在は廃墟になっている。

清朝では、キリスト教の宣教師が来航し、西洋技術を紹介した。

康熙帝(こうきてい)の時代、キリスト宣教師ブーヴェの技術協力のもと、中国の実測地図である『皇輿全覧図』(こうよ ぜんらんず)が作成された。

また、雍正帝(ようせいてい)は、キリスト教の布教を禁止こそしたものの、西洋技術の導入には熱心だった。雍正帝(ようせいてい)は、中国に来航したカスティリオーネにバロック様式建築である円明園(えんめいえん)を設計させ、そして円明園が建設された。また、カスティリオーネは、西洋の画法を清朝に紹介した。

清のヨーロッパへの影響[編集]

中国の文物などがヨーロッパにも伝わったことで、中国文化への興味がヨーロッパで起こり、ヨーロッパではシノワズリ(中国趣味)が流行した。

そして18世紀に啓蒙思想がヨーロッパで流行した際、中国の文化・体制とヨーロッパを比較して論じる事が流行し、ヴォルテール(人名)などの啓蒙思想家にシノワズリが影響を与えた。


東アジアと東南アジア[編集]

清は、朝鮮や東南アジア諸国を属国と見なしていた。しかし、属国とみなされた諸国では、国家意識があったと考えられている。

朝鮮での権力中枢では、清朝は満州人の王朝であり、正当な中華ではないとして、朝鮮こそが正当な中華文明の後継者であるとする「小中華」(しょうちゅうか)の意識が、めばえたとされる。

琉球[編集]

琉球(りゅうきゅう)は、明の時代から中国の冊封を受けてたが、1609年に日本の薩摩(さつま)の大名(だいみょう)である島津(しまづ)氏によって琉球が征服されたことにより、琉球は日本と中国の両方に服属する事になった。

清の時代になっても、ひきつづき、琉球は日本と中国の両方に服属した。