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高等学校世界史B/西ヨーロッパ世界の成立

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

ゲルマン人の大移動

2世紀から5世紀にかけての民族移動の図。

前6世紀ごろ、アルプス山脈の北にはケルト人(Celts)が住んでおり、鉄器文明を築いていた。しかし、バルト海沿岸を居住地とするゲルマン人(Germans)が南下して、ケルト人を圧迫した。ゲルマン人は、インド=ヨーロッパ語系である。

ゲルマン人が南下した結果、ゲルマン人がローマ帝国と接触することになった。

ゲルマン人は数十の部族(キウィタス)に分かれていた。すでに身分差がゲルマン人社会にあり、貴族・平民・奴隷の身分があった。

政治は、貴族と平民の成年男性が参加できる民会があり、全会一致を原則とした。

4世紀後半、アジア系のフン人(Huns)が、ロシア地方のヴォルガ川・ドン川をこえて西に進み、ゲルマン人の一派である東ゴート人(Ostrogoths)を圧迫した。そのため、西ゴート人(Visigoths)は圧迫された。

その西ゴートが、375年に南下を始め、ローマ帝国領内に侵入した。

これを契機に、ゲルマン人による大規模で長期の移動が起きた(ゲルマン人の大移動)。(ゲルマン人の大移動の期間は、その後200年間ほどにも、およぶ。)

※ 年号の安徽の語呂合わせで「ゲルマン民族みなゴリラ(375)」というのがある。

西ゴート人は410年に、いちじローマ市を占領した。西ゴート人はその後、ガリア西南部とイベリア半島に進出し、西ゴート王国を建国した。


いっぽうフン人は、5世紀前半にアッティラ王(Attila)のもと、パンノニア地方(現在のハンガリー地方)に進出するが、しかし451年に カタラウヌムの戦い で西ローマ帝国とゲルマン人の連合軍に敗れ、その後アッティラ王が死亡して、アッティラ王の国は滅ぶ。

ゲルマン人は476年に、ゲルマン人傭兵隊長オドアケル(Odoacer)が西ローマ皇帝を退位させて、476年に西ローマ帝国は滅んだ。なお、東ローマ帝国は、この時点では、まだ滅亡していない。

※ 世間でよくある勘違いで、西ローマ帝国の滅亡の原因として、「ゲルマン人の大移動」を挙げる人がいるが、しかしゲルマン人の大移動は375年から始まっており、西ローマ帝国の滅亡の476年とは100年ちかく離れているので、不正確な理解である。
※ 歴史学では、まだ西ローマ帝国の滅亡については、未解明だったり、簡潔な説明ができなかったりする段階なので、あまり深入りしなくていい。そもそも「西ローマ帝国」という呼び方が適切なのかとか、本当に西ローマ帝国は476年に完全に国家としては滅亡したのかとか、そういう事すら議論になってる段階である。高校生なら、せいぜい「 『ゲルマン人の大移動』が、いわゆる『西ローマ帝国の滅亡』に、関係がありそうだ」くらいの理解で良い。

パンノニアでは、アッティラ王(フン人)の支配が終わったため、東ゴート人はフン人の支配を脱した。そして、東ゴート人はテオドリック王(Theodoric)に率いられてイタリアに移動し、オドアケルの王国を滅ぼし、イタリアに東ゴート人の王国を建国した。

その後、ゲルマン人の国の多くは、まもなく滅ぶ。

フランク王国の発展

ゲルマン人の王国が衰退すると、その後、かわりに、ライン川のあたりを現住地にするフランク人によるフランク王国が領土を増した。フランク人の王国は、481年に、メロヴィング朝(Merowinger)のクローヴィス(Clovis)によって統一された。

クローヴィスはローマ教会教義を受け入れ、アタナシウス派改宗した。アリウス派は異端とされた。こうして、クローヴィスはローマ人貴族の支持を取り付け、外交を有利にして、ゲルマン人との戦争を正当化した。当時のゲルマン諸国家の宗教では、アリウス派を信仰していた。

8世紀の前半、イスラム勢力が、イベリア半島に侵入し、北上していた。711年、西ゴート王国は、イスラーム勢力によって滅ぼされた。

732年、イスラーム勢力のウマイヤ朝がピレネー山脈を越えてガリアに侵入しようとしたが、メロヴィング朝の宮宰カール=マルテル(Karl Martell)はトゥール=ポワティエの戦いで撃退した。 マルテルの子ピピン(Pippin)は751年、ローマ教皇の承認のもとメロヴィング家の王を廃位させ、カロリング朝(Carolingians)をひらいた。 ピピンは、イタリアのランゴバルド王国と戦ってラヴェンナ地方をうばい、これをローマ教皇に寄進した。これを「ピピンの寄進」といい、のちの教皇領の起源となった。

カール大帝
カール時代のフランク王国(がカール即位時のフランク王国、赤橙がカールの獲得領、黄橙がカールの勢力範囲、濃赤はローマ教皇領)

8世紀末にフランク王になったカール大帝(Karl)は、ピピンの子である。 カール大帝は、800年にローマ教皇レオ3世(Leo III)からローマ皇帝としての冠をさずけられた。これをカールの戴冠(たいかん)という。そしてレオ3世は、「西ローマ帝国」の復活を宣言した。この理由は、ビザンツ帝国に、ローマ教会が対抗するためである。


カールの死後、王国は分裂し、東・西フランクと、イタリアという、3つの領域に分裂する。東フランクはのちのドイツに相当し、西フランクはフランスに相当する。分裂の直接的な原因は、カール大帝の子孫の王族たちのうち、相続に不満をもつ者による相続争いの反乱だが、もともと各地域の住民にも独立志向が高かったという背景もある。

カロリング朝の領土の分裂は、843年のヴェルダン条約と、870年のメルセン条約によって、東西フランクとイタリアの3つに分裂した。

10世紀はじめ、カロリング朝の血統が断絶し、諸侯の選挙で王が選ばれるようになった。

フランク王国に、周辺地域から、さまざまな民族が侵入しようとしてきた。 東フランク王国の東方からマジャール人(Magyars)が侵入しようとしたが、ザクセン家の王オットー1世(Otto I)が、マジャール人の侵入を退ける。オットー1世は、さらに北イタリアを制圧し、962年に教皇からローマ皇帝の冠を授けられた。以後、これが神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)の始まりとなった。

  • フランス

西フランク王国(フランス)でも10世紀末にカロリング家の血筋が断絶し、諸侯たちによってフランク大公(パリ伯)のユーグ=カペー(Hugues Capet)が国王に選ばれた。しかし、カペー朝はパリ周辺を領有するだけの、弱い王権であった。

ノルマン人の侵入

  • ノルマン人

北方のスカンディナビア半島には、ゲルマン人の一派のノルマン人(Normans)が住んでいた。ノルマン人は、西ヨーロッパに侵入して略奪し、ヴァイキング(Viking)として恐れられていた。 911年にセーヌ川下流域にロロ(Rollo)が率いる一派が定住し、ノルマンディー公国(Normandie)を建てた。

  • ブリテン

ブリテン島では9世紀末、アングロサクソン系の王国があり、ノルマン人の侵入に悩まされたが、アングロサクソン系の王国のアルフレッド大王(Alfred)がこれを撃退した。 しかし11世紀の1016年に、イングランドは、デーン人(デンマーク地方のノルマン人)の王クヌート(カヌート、Canute)に征服された。 その後、ブリテン島ではいちじアングロサクソン系の王朝が復活したが、1066年にノルマン人の一派が攻め込みイングランドを征服し(ノルマン=コンクエスト、Norman Conquest)、ノルマンディー公ウィリアムがウィリアム1世(William I)として即位してノルマン朝を建てた。

  • ロシア

東ヨーロッパでは、9世紀にリューリク(Rurik)を長とする一派(ルーシ)がロシア地方に進出し、ノブゴロド国(Novgorod)を建て、ついでキエフ国(Kiev)を建て、これがのちのロシア国家の起源になった。

封建社会

この9世紀〜12世紀ごろ、土地が有力な財産であり、貨幣よりも土地が重要視された。

主君は家臣に封土(ほうど、fief)を与えて保護するかわりに、家臣(騎士など)は主君に軍事的に奉仕するという、主君と家臣の両方に契約を守る義務がある双務契約(そうむ けいやく)であった。この主君と臣下の関係を封建制(ほうけんせい、feudalism)または封建的主従関係という。

この当時のヨーロッパ社会は、封建的主従関係と荘園(しょうえん、manor)からなる、封建社会(ほうけんしゃかい、feudal society)である。

家臣の立場は強く、一人の家臣が複数の主君に使える場合もあった。また、主君が契約をやぶれば、臣下も契約を拒否する権利があった。また、家臣は契約の内容以上には、主君に尽くす義務はなかった。

ヨーロッパ中世の封建制は、このように主君の権利が弱い制度のため、国家としてのまとまりは弱く、国王とは大諸侯のうちの一人のようなものであった。日本の中世の封建制や、近代ヨーロッパの主権国家とは、大きく異なる。

このような封建制の起源は、おそらくは、ローマ末期の恩貸地制(おんたいち せい)と古代ゲルマンの従士制(じゅうし せい)とが結合したものだろう、と言われている。

封建制で主君と主従関係を結んでいる臣下は、領地を持っているわけだから、臣下は領主でもあった。 臣下は、農民を支配する領主でもあった。これらの領地は、農地として活用され、領主は農作物から利益を得ていた。そして、農民は、移住の自由が無い農奴(のうど、serf)として扱われ、農民は領主に隷属する立場として、領地での労働のために使われていた。

臣下だけでなく、国王や諸侯、司教や修道院なども、このような農地と農民つきの領地を持って、経営をしていた。

このような、領主の持つ、農地などの付いた所有地のことを荘園(しょうえん)という。

※ 科目「国語総合」で習うことのある作品『仮想化する現実世界』(著:高山博(たかやま ひろし) )では、約1000年前のフランスでは、人口の99%が農民だったと主張している。で、1000年前のフランスの当時は、民衆が、農作業や祭りなどを共有していたと、現代の個人主義的などの対比で著者の高山博は説明している。

荘園は、領主直営地と、領主が農民に貸している農民保有地、および森林や牧草地などの共同利用地から、なっていた。

農民は農奴(のうど、serf)と呼ばれる不自由身分であり、移住の自由は無く、領主の直営地で労働する賦役(ふえき)の義務があり、農民保有地からの生産物の一部を領主におさめる貢納(こうのう)の義務があった。さらに農民は、結婚税や死亡税がその出来事の際には課せられ、教会にも十分の一税を納めた。

領主は、荘園への国王の役人の立ち入りや課税をこばむ不輸不入の権(ふゆふにゅうのけん、immunitas)を獲得した。また、荘園内での裁判は、国王の役人でなく、領主が裁判権を行使する領主裁判権を持った。

11世紀ごろから、鉄製農具が普及したりなどの農業技術の向上もあり、農業生産力が大きく上昇し、人口が増大した。この時代は気候も温暖であり、水車や鉄製農具が普及し、牛馬にひかせる重量有輪犂(ゆうりんすき)で粘土質の重い土壌を深く耕せるようになった。

また、耕地を3分割して春耕地・秋耕地・休耕地として、年ごとに交代して使用する三圃制(さんぽせい、three field system)が普及した。これらの春耕地・秋耕地・休耕地は年ごとに交代するので、したがって3年周期となる。秋耕地には小麦・ライ麦、春耕地には大麦・燕麦(えんばく)、休耕地には家畜を放牧して地力(ちりょく)の回復をはかる農法である。

農業生産力の上昇によって余剰生産物が生じ、それらを交換する(いち)が開かれるようになり、商業が発達していった。

ローマ=カトリック教会

ローマ教会コンスタンティノープル教会は、キリスト教の五本山(ごほんざん)の中でも、とくに有力な教会であった。(五本山とはアレクサンドリア、イェルサレム、アンティオキア、ローマ、コンスタンティノープルの5教会。)

ローマ教会はみずからをカトリック(Catholic)と称した。

600年ごろ、ローマ教会の司教グレゴリウス1世(Gregorius)のころから、ビザンツ帝国の支配下にあるコンスタンティノープル教会に対抗する意味で、「教皇」という呼び方がローマ教会で使われるようになった。伝承で、ローマはキリストの使徒ペテロが殉教した地という伝承があり、そのこともローマ教会やローマ教皇の権威を高めるのに有利に働いた。


そしてビザンツ帝国に対立していたフランク王国に、グレゴリウス1世はカトリックを布教して改宗させた。 またグレゴリウス1世は、ゲルマン人にカトリックを布教して、勢力を拡大した。

なお、ローマ教会はゲルマン人への布教の際、聖画像を用いた。このことが、のちにイスラームの偶像崇拝禁止の影響をうけたコンスタンティノープル教会との対立の原因になる。

フランク王国やゲルマン人へのカトリックの布教をきっかけに、西方においてローマ=カトリック教会とローマ教皇の権力が強まっていき、西方でローマ=カトリック圏が形成されていく。

また、6世紀ごろから修道院が広がり、529年にベネディクトゥス(Benedictus)がイタリアのモンテ=カッシーノに修道院をたてて「祈り、かつ働け」をモットーとして以降、各地に同じようなモットーの修道院が広まった。