高等学校世界史B/WW I 後のアジア情勢

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中国の蒋介石クーデタ[編集]

1919年、孫文を中心とする中国国民党が出来た。ソ連は国民党を支援した。

ロシア革命後の1921年、中国では陳独秀(ちんどくしゅう)らの呼びかけで共産党が出来た

24年に国民党は、共産党と協力することを決定した。このころ孫文は「連ソ、容共、扶助工農」というスローガンを主張していた。

1925年、孫文は病死した。

1925年5月に、上海での労働争議をきっかけに、反帝国主義運動が起きる(五・三〇運動)。(きっかけになった労働運動は、紡績工場での労働運動だと言われる。)

1925年7月に国民党は広州で国民政府を樹立した。

翌1926年に蒋介石(しょうかいせき)の率いる国民革命軍が、中国統一をめざす北伐(ほくばつ)を開始した。

そして1927年に国民革命軍が南京・上海を占領すると蒋介石はクーデタを起こして共産党を排除し、南京に国民政府を建てた。

日本は妨害のため、山東に出兵した。しかし北伐軍は、日本との戦闘を避けた。1928年、北伐軍は北京政府の張作霖(ちょうさくりん)を敗走させた。


すると日本の関東軍は、張作霖の乗っている列車を爆破して殺害した。すると張作霖の息子の張学良(ちょうがくりょう)は、(日本に対抗するためか)国民党に従った。

こうして、国民政府(南京政府)は中国統一をした。国民政府は、欧米との外交につとめ、関税自主権の回復に成功した。そしてアメリカ合衆国やイギリスは、国民政府を支援した。


一方、中国の共産党は、1927年のクーデタで排除されて以降、山岳地帯などを拠点にしていた。 そして共産党はソ連の支援を受けていた。1931年に中国の共産党は、毛沢東の率いる中華ソヴィエト共和国臨時政府を江西省瑞金に樹立した。国民政府は中華ソヴィエトを武力攻撃したが、倒せなかった。

インドの独立運動[編集]

塩の行進(1930年)

イギリスによってインドで1919年に制定されたローラット法の内容は、令状なしでテロリスト容疑者を逮捕できるという内容であった。

これに対し、インドの民族運動の指導者ガンディーは、暴力をもちいないで独立運動すべしという主張を国民会議でして、不買運動などの形で意志を示す運動を主張し、非暴力・不服従というスローガンの運動になった。

しかし、実際の運動のなかで暴力事件が多発してしまい、ガンディーは運動の中止を主張した。

しかし、インド人の独立運動の意志はおさまらず、インド国民会議は指導者を急進派のネルーに変えて、独立運動をつづけた。

そしてネルーひきいる国民会議は1929年、プールナ=スワラージ(完全な独立)を決議して、独立運動をつづけた。

いっぽう翌1930年、ガンディーは、塩の専売に反対する「塩の行進」(The Salt March[1])を行った。

イギリスは妥協をさがすため、ロンドンで開催する円卓会議に独立指導者をまねき、結果的に1935年に自治を認める新インド統治法が制定された。

トルコ革命[編集]

敗戦国のオスマン帝国はセーブル条約の締結により、領土を大幅に失った。これに反対する軍人ムスタファ=ケマルが、地方政権をたて、1920年にアンカラで臨時政府であるトルコ大国民会議を樹立した。

そして1922年には、ギリシアからイズミルを奪還した。同22年、ケマルはスルタン制を廃止した。

トルコ新政権は23年に列強とローザンヌ条約を締結し、新国境の決定、治外法権の廃止、関税自主権の回復、などの成果をおさめた。

そしてケマルは、オスマン帝国にかわるトルコ共和国の建国を宣言し、初代大統領になった。ケマルは改革として、脱イスラム化の政策を行い、アラビア文字からラテン文字への移行、女性参政権、政教分離などの改革を行った。

これらの諸改革をトルコ革命という。


パレスティナ[編集]

パレスティナは最終的に、イギリスの委任統治領となった。そしてユダヤ人が入植してきた。

中東諸国の独立[編集]

ヨーロッパ諸国は、中東では、パレスチナを除いて、ほとんどの国の独立を承認した。

サウジアラビア[編集]

アラビア半島では、イブン=サウードがイギリスの支援を受け、アラビア半島の大部分の領域を統一し、1932年にサウジアラビア王国を建国した。

エジプト[編集]

エジプトでは大戦中の1914年にイギリスの保護国になったが、戦後、ワフド党の反英的な民族運動が活発化した。

すると、イギリスは保護権を放棄したので、1922年にエジプトは形式的には独立しエジプト王国となった。

しかし、スエズ運河の管理権は、イギリスのままだった。

1936年のイギリス=エジプト条約で、スエズ運河の管理権を除いて、エジプトはほぼ主権を回復した。スエズ運河には、イギリス軍が駐屯することになった。

イラン[編集]

イランは大戦中、中立を宣言したが、イギリス・ロシアの両軍に占領された。戦後は、イギリス・ロシアが政治に介入してきた。1921年、軍人レザー=ハーンが、クーデタを起こし、カージャール朝を倒し、政権をにぎり、みずからが王となり、パフレヴィー朝を開いた。

そして立憲君主制として、トルコにならった改革を行った( 第二次大戦後のイラン革命より前は、イランはけっこう西洋化をしていた国だったのである)。

1935年には国号を「ペルシア」から「イラン」に改めた。

形式的な独立[編集]

第一次大戦後、英仏は大戦中の英仏の密約にしたがって、イラクとトランスヨルダンはイギリスの委任統治領になり、シリアはフランスの委任統治領になった。

その後、イギリスは、サウード家と対立していたハーシム家をイラクとトランスヨルダンの王位につけ、1920年代から1930年代のころに、それぞれ形式的な独立国としてイラク王国とトランスヨルダン王国となった。

イランやイギリスの石油利権は、イギリスが握りつづけた。

その他[編集]

アフガニスタンは1919年、イギリスからの独立に成功した。

東南アジアの動向[編集]

ヨーロッパ諸国は中東では多くの国に独立を認めたが、しかし東南アジアでは独立運動を弾圧した。

インドネシア(「オランダ領東インド」)では、コミンテルンの指導により結成されたインドネシア共産党が1926〜1927年に独立をもとめて蜂起したが、オランダ軍により弾圧されて失敗に終わった。

いっぽう、1927年にスカルノによってインドネシア国民党が結成され、独立運動を主張したが、1930年代にオランダの弾圧が強まり、指導者の大部分が逮捕されてしまった。

(その後、1942年に第二次世界大戦により、日本軍がインドネシアを占領する。) 1933年にオランダの弾圧によりスカルノは流刑にあっていたが、のちの1942年の日本の軍政によりスカルノは運動に復帰し、スカルノは日本軍と協力して(オランダからの)独立運動をつづけた。

フランスでのホー=チミン(1921年)

ベトナムでは(「フランス領インドシナ」)、ホー=チミンがインドシナ共産党を結成し、蜂起した。いっぽう、これとは別に国民党も蜂起をした。しかし、共産党、国民党とも、フランス軍によって弾圧された。

(その後、1940年に第二次世界大戦により、フランス本国がドイツ軍に占領されたことにともない、ドイツの同盟国の日本軍がベトナムを占領する。)


タイ(シャム)は、もともと独立国であり、1932年にはクーデタにより立憲君主化され、憲法が制定され、議会が開設された。


ビルマ(現: ミャンマー)では1930年、サヤ=サンの指導による蜂起が起きたが、イギリス軍に弾圧された。同年、ラングーン大学の学生を中心にタキン党が結成された。1935年、ビルマはインドから分離した。その後、アウンサンの指導により独立運動はつづいた。


フィリピンについては、宗主国のアメリカ本国で植民地放棄論が高まり、1934年にアメリカ合衆国が10年後のフィリピンの独立を約束した。これにともない、独立準備政府が発足した。(しかし、のちに太平洋戦争が発生したことで、独立は延期される。)


こうした情勢のもと、1941年に東南アジアは太平洋戦争に突入し、日本軍がイギリス軍やオランダ軍と争って各地を侵攻していき、各地を占領していく。

  1. ^ 高等学校外国語『CROWN English Communication I』三省堂、2021年1月29日 文部科学省検定済、2022年3月30日発行、P137