高等学校倫理/ギリシャの思想Ⅲ
ソクラテスの生涯
[編集]紀元前469年ごろ生~紀元前399年没。古代ギリシャのポリスの一つであるアテネで生まれた。父は石工で母は助産師であったと伝えられる。ソクラテスの生きた時代はアテネの黄金期と没落の時代であり、彼もw:ペロポネソス戦争にも従軍した。アテネがペロポネソス戦争に敗北したことをきっかけとしてw:衆愚政治におちいる中、ポリスの市民に正しい生き方を説いた。そのため、ソクラテスは倫理学の創始者とされる。
しかし、ソクラテスの活動は少なくない人々の反感を買う。しかも、民主政治をめぐる対立に巻き込まれ、ソクラテスは「国家の神々を認めず、青年を堕落させた」と告発されて公開裁判にかけられた。そこで妥協しなかったソクラテスには死刑判決が出された。弟子たちや友人が逃亡を勧めるが、それを拒否して毒杯による死刑を受け入れた。
彼は生涯著作を書くことはなかった。彼の言行は弟子であるw:クセノポンやプラトンによって伝えられた。特にプラトンの『饗宴』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にて、ソクラテスの思想がよく伝えられている。
無知の知
[編集]デルフォイ神殿の神託
[編集]ソクラテスの友人がw:デルフォイのアポロン神殿に出向き、「ソクラテスよりも知恵のあるものはいるか」と問うた。それに対しての神託は「ソクラテスよりも賢い者はいない」というものだった。これに、ソクラテスは驚いた。なぜなら、彼は自分がそれほど知恵のある人物だとは思っていなかったからだった。
彼は神託の真意を求めて、賢者・知者と言われる各地の政治家や思想家たちを訪ねた。そして、人間にとって大切なことなどについて問うた。だが、彼を満足させるような答えを述べられたものは一人もいなかった。そこでソクラテスが気づいたのは、人間が生きるのに必要な「善」や「美」などについてだれも知らないということであった。
むしろ、世の中で賢者とか知者と呼ばれる人は知らないことに気付かず、知っていると思い込んでいるにすぎない。しかし、ソクラテスは自分が知らないと思っている。つまり、自らの無知を自覚している(無知の知)。
また、アポロン神殿には「汝自身を知れ」という格言が刻まれていた。これは本来、不死の神に対して、いつかは死ぬ人間が傲慢に陥ることなく、自らの分をわきまえるよううながすものであった。しかし、ソクラテスはこの言葉を自らへの神託と結びつけ、自らの無知の自覚を出発点として、善く美しい人の在り方について探求しようとした。
問答法
[編集]ソクラテスが真実の知の探究の方法としたのが問答法である。また、問答にあたって、ソクラテスは自らが無知であるかのようにふるまい、そこから相手の意見の矛盾点を導き出し、相手の無知を暴いた。この方法をエイロネイア(皮肉)という。この方法は相手を論破したりからかうのではない。無知の自覚をうながすことによって、相手の思考を相手自身に吟味させる方法である。
ソクラテスは知を直接教え込むことは出来ないと考えていた。そのため、彼はあくまで問答によって真理にたどり着くための手助けしかできないと考えていた。そのため、問答法は産婆法(術)ともよばれる[1]。
善く生きること
[編集]魂の配慮
[編集]魂の配慮 |
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息のつづく限り、可能な限り、私は知を愛し求めることをやめませんし、(中略)いつものようにこう言うのです。
『世にも優れた人よ。あなたは、知恵においても力においてももっとも偉大で最も評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら、恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思惟や真理や、魂というものができるだけ良くなるように配慮せず、考慮もしないとは』と。 ――プラトン著(納富信留訳)『ソクラテスの弁明』p.44(光文社古典新訳文庫、2012年) |
ギリシャ人は、あるゆるものに固有の役割があると考えた。そのための資質や能力をアテレー(卓越性)とよんだ。ソクラテスは人間にとってのアテレーを徳であると考えた。そして、徳とは人格や精神といった魂(プシュケー)をより優れたものにしていくことであり、それが魂への配慮であるという。ソクラテスは人間が日々の生活の中で、「よい」という言葉は「効率が良い」「自分の利益になる」などの貧弱な意味しか持たなくなることを指摘する。そして、「魂をできるだけ良い方向に導く」ための配慮について語るのである。
さて、「魂の配慮」に必要なものは何だろうか。まず、日常生活の中で意識されない本当の自分自身=魂に目を向けることが求められる。そして、正しいことや美しいことへの正しい知を必要とする。
知ることと生きること
[編集]ソクラテスの死
[編集]当時のアテネはペロポネソス戦争後の戦後処理をめぐり、激しい権力闘争がくり広げられていた。こうした社会情勢でのソクラテスの言動は当時の人々の価値観について厳しい批判を含むものであり、多くの知識人や政治家を敵に回すものであった。
やがて、ソクラテスは「国家の認める神々を認めず、新しい神を信じ、青年たちを腐敗・堕落させた者」として告発された[2]。裁判でもソクラテスは自らの信念を曲げることはなく、祖国を愛するからこそ厳しく批判するのだと訴えた。だが、評決は死刑であった。
刑の執行までに時間があったため、友人たちはソクラテスに国外逃亡を勧めた。しかし、「よく生きること」を目標としていたソクラテスにとって、ポリスのおきてを破ることは不正であり、それをよしとはしなかった。こうして、ソクラテスは毒杯をあおいだ。