Wikijunior:環境の問題とヒトの進化/明治の産業革命と自然

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

明治時代でも公害はありました。それは、明治時代に産業革命(さんぎょうかくめい)が行われたためです。産業革命は、イギリスなどをはじめとして世界各地で行われました。

主な公害[編集]

足尾銅山鉱毒(あしおどうざんこうどく)事件[編集]

Wikipedia
Wikipedia
ウィキペディア足尾銅山鉱毒事件の記事があります。

栃木県の足尾銅山という鉱山(こうざん)の開発によって、鉱毒ガスや排煙などの有害物質が周辺にまき散らされました。川を伝い、渡良瀬川(わたらせがわ)の下流まで毒が流れ込んでくることもありました。その結果、多くの人が寝たきりなどの病気に苦しみました。

この事件は、1881年 (明治24年) と早くから、国会議員であった田中正造により国会に提起されました。しかし、害を与えた人たちを特定できないまま、国会での話し合いは終わりました。1974 (昭和49) 年、つまりは初めての国会での訴追から93年後に、ようやく政府が動き、毒を流した人たちを特定しました。毒を流した会社は、古河鉱業株式会社 (現在の古河機械金属という会社) という企業です。

浅野セメント粉塵被害(ふんじんひがい)[編集]

Wikipedia
Wikipedia
ウィキペディア深川セメント製造所の記事があります。

浅野セメント (現在の「太平洋セメント」) という企業 (の工場) が起こした公害です。東京都江東区にあった深川セメント製造所から出た粉塵 (小さなゴミやちり) が周辺の空気を汚染したというもので、1912年 (明治45年) に5年以内に工場を止めることで住民と合意しました。

日立鉱山亜硫酸(ありゅうさん)ガス被害[編集]

Wikipedia
Wikipedia
ウィキペディア日立鉱山の公害問題の記事があります。

足尾銅山鉱毒事件と内容は似ています。近くの宮田川に、鉱毒などが流され、17世紀末頃には公害が起きていたと考えられています。

一旦会社が経営に行き詰まったものの、1907年 (明治40年) に、次々と鉱物が取れる場所が見つかって、さらに汚染はひどくなりました。その後、1908年に国会議員が訴追し、1914年に日立鉱山側へ賠償請求(ばいしょうせいきゅう)がされました。

環境状態[編集]

明治期の日本は、「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」といって、自然を考えずに工業化をしてきました。その結果として、住民を苦しませるような公害が起こったのです。また、公害と国が認定すると、国が払わなければいけないお金が増えるので、なかなか認めませんでした。

役に立つリンク集・関連項目[編集]

特別行政法人環境再生保全機構 環境問題の歴史-大人向けです。