ヴィルタール 日本論/はしがき
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仏日対訳
[編集]原文テキスト:s:fr:Le Japon (Villetard)/Introduction (p.7, p.8)
INTRODUCTION | はしがき |
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En 1542, un marin portugais, Antonio de Moto, fut poussé par les vents sur les côtes du Japon, où n’avait encore abordé aucun Européen. Sept ans plus tard, en 1549, saint François Xavier allait y prêcher l’Évangile. | 1542年[訳注 1]に、ポルトガル人の船乗りアントニオ・ド・モト[訳注 2]が、日本の海岸に風によって押し流された。当地には、未だいかなるヨーロッパ人も上陸していなかったのだ。 7年後の1549年に、聖フランシスコ・ザビエル[訳注 3] が福音を説くために当地に行った。 |
En 1582, on comptait déjà dans l’empire des Mikados cent cinquante mille chrétiens indigènes, répartis entre deux cents églises. Il semblait que ce beau pays allait bientôt embrasser notre foi religieuse et entrer dans le courant de notre civilisation ; mais tout à coup le gouvernement japonais expulsa les missionnaires (1587), puis il persécuta ceux de ses sujets qu’ils avaient convertis, et, en anéantissant chez lui le christianisme, il interdit à ses peuples tous rapports avec ces étrangers dont l’arrivée avait failli amener une révolution politique en même temps qu’une révolution religieuse. | 1582年に[訳注 4]、ミカドたち[訳注 5]の帝国[訳注 6]内では、現地人のキリスト教徒はすでに十五万を数えており、二百の教会堂の間に分散していた。 この美しい国は、すぐにも私たちの (キリスト教の) 宗教的な信仰を抱くようになり、私たちの文明 (西欧文明) の流れの中に参入して来る、と思われていた。 ところが、1587年に日本の政府は、宣教師たちを国外追放処分とし[訳注 7]、次いで、この国においてキリスト教を根絶するために(すでにキリスト教に)宗旨替えしていたところの者たちを迫害して、この国の人々に対してこれらの外国人たちとのあらゆる関係を禁止した。彼ら(外国人たち)の到来が、宗教的な革命と同時に政治的な革命を危うく引き起こすところだったというわけだ。 |
Seuls les Hollandais furent, non pas admis dans l’empire du Soleil levant, mais autorisés à y garder un établissement sur le petit îlot de Décima, et le Japon fut si complètement fermé à l’Europe, qu’il nous était encore il y a vingt ans presque totalement inconnu. Mais, comme nous l’expliquerons plus loin, ses portes, obstinément closes pendant près de trois siècles, ont fini par s’entr’ouvrir, puis enfin par s’ouvrir toutes grandes à la civilisation et à la science européennes, et depuis une dizaine d’années nous avons eu tant de moyens de savoir ce qui se passait dans ce pays resté si longtemps mystérieux, que c’est aujourd’hui l’une des parties de l’extrême Orient qui nous sont le mieux connues. | オランダ人たちだけが、日出ずる帝国[訳注 8]において(居住を)許されたばかりか、 日本は、ヨーロッパに対してとても完全に閉ざされたので、今から二十年前には[訳注 9]日本は私たちには未だほぼまったく知られていなかったほどであった。 けれども、後で説明するように、三世紀近くにわたって頑固に閉じられたその門戸は、ついに少し開かれ、次いでやっとのことヨーロッパの文明や科学に対してそのすべての大きな門戸が開かれた。 十年ほど前から、永らく謎のままだったこの国において起こっていたことを知るための多くの手立てを私たちは有することになったので、今日(日本は)極東で私たちに最も良く知られている部分のひとつとなっているほどである。 |
脚注
[編集]- ^ ポルトガル人の種子島への最初の来航の年月日には諸説があり、ポルトガルの宣教師の史料が伝える1542年説 ( w:en:1542, w:fr:1542, w:es:António da Mota, en:Portuguese discoveries, w:鉄砲伝来 等参照) と、1543年説 ( w:en:Japan voyage, w:en:Nanban trade, w:en:António Mota, w:fr:Époque du commerce Nanban 等参照) がある。
例えば、Wikipediaの英語記事 1543 では、1543年説が採られ、次のように記載されている。
1543年8月25日に、「中国の海賊 王直 に案内された、最初のヨーロッパ人たち 【ポルトガルの貿易商人たちアントニオ・モタ、アントニオ・ペイショトゥ、フランシスコ・ゼイモト、そしておそらくフェルナン・メンデス・ピントを含む】 と銃器が日本の九州南部の種子島に到来した。」
(August 25 – Led by the Chinese pirate Wang Zhi, the first Europeans and firearms arrive in Japan in Tanegashima island in southern Kyushu including Portuguese traders António Mota, António Peixoto, Francisco Zeimoto, and presumably Fernão Mendes Pinto )
同じくWikipediaの仏語記事では、ルイス・フロイスに従って1543年9月23日としている。 - ^ 普通はポルトガル語風に、アントニオ・(ダ・) モタ António (da) Mota と表記される。
- ^ 「フランスシコ・ザビエル」の名前表記は日本語の慣用読みで、ラテン語の教会式発音では Franciscus Xaverius /franˈt͡ʃis.kus ksave.ri.us/ (フランツィスクス・クサヴェリウスまたはグザヴェリウス)、ポルトガル語では Francisco Xavier (/fɾãˈsisku ʃɐˈvjɛɾ/ ; フランシスク・シャヴィエル)、スペイン語では Francisco Javier (Francisco Xavier ; /fɾanˈθisko xaˈbjeɾ/ ; フランシスコ・ハビェル)、出身地の言葉バスク語では Frantzisko Xabierkoa ( フランツィスコ・シャビエルコア)、そしてフランス語では François Xavier(\fʁɑ̃.swa ɡza.vje\ , \ksa.vje\ ; フランソワ・グザヴィエまたはクサヴィエ)となっている。
- ^ 天正10年 6月2日(ユリウス暦1582年 6月21日;グレゴリオ暦1582年 7月1日)に起こった本能寺の変の当時。
- ^ Mikado は、現代で呼ぶところの「天皇」に対する当時の一般的な呼称。明治政府が「天皇」をミカドの公称と定めたのは明治後期のことで、それ以降、「天皇」を指す訳語として英語の emperor、仏語の empereur などが「ミカド」に代わって使われるようになった。ここでは、des Mikados 「ミカドたちの」と複数形で歴代のミカドを指している。なお、南蛮貿易当時は「ダイリ(内裏)」などが、江戸期には「キンリ(禁裏・禁裡)」などが一般的な呼称であった。
- ^ l’empire des Mikados 「ミカド(たち)の帝国」というフレーズは、本書(1879年刊)の3年前の1876年に刊行された、明治政府のお雇い外国人グリフィス(William Elliot Griffis)の “The Mikado's Empire” を意識したのかも知れない。「ミカドの帝国」という発想は、皇国史観の影響を受けた、明治維新以後のものである。
- ^ 天正15年 6月19日(グレゴリオ暦1587年 7月24日)に豊臣秀吉がバテレン追放令(吉利支丹伴天連追放令)を発したことを指す。
- ^ この「日出ずる帝国」というフレーズは、フランスの外交官シャルル・ド・モンブランが1865年に著した『日本』ですでに用いられているものである。
- ^ 本書が刊行された1879年(明治12年)から20年ほど前の1858年 10月9日(安政5年 9月3日)には日仏修好通商条約が締結されて日仏の国交が始まった。それ以前の1855年 11月24日(安政2年 10月15日)にはフランスと琉球王国の間に琉仏修好条約が締結されている。