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中学校社会 公民/公共の福祉

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

公共の福祉

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「公共の福祉」による人権の制限の例
 表現の自由  * 他人の名誉を傷つける行為の禁止 (名誉毀損罪,刑法)
* 不当な選挙運動の禁止 (公職選挙法)
 集会・結社の自由  * デモの規制 (公安条例) 
 居住・移転の自由  * 感染症による入院・隔離の措置 (感染症法・医療法)
 財産権  * 道路・空港などのために保証金を払ったうえで
 土地を収用 (土地収用法)
* 不備な建築の禁止 (建築基準法)
 労働基本権  * 公務員のストライキの禁止
(国家公務員法、地方公務員法)
 営業の自由 * 無資格者などの営業の禁止 (医師法 など)
* 企業の価格協定(カルテル)などの禁止 (独占禁止法)

当然のことではありますが、われわれは完全に、まっさらに自由なわけではなく、何をしてもいいわけではないですよね。

現代では多くの国民に言論の自由があると言われていますが、しかし、だからといって何を言ってもいいわけではないと思います。

他人のプライバシーを侵害する発言、名誉を傷つける発言は、許容されるのでしょうか ?

他人の尊厳、価値を侵害する行動は事実上制限されています。

また、区画整理や道路拡張などの公共の土木工事のとき、工事予定地にもとから住んでいた人は、充分な保障金を払われるという条件のもと、その工事予定地から引っ越すことを要請される場合もあります。

空港の建設などでも、充分な補償のもと、引っ越しを要請、期待される場合もあります。

この場合、居住の自由が、公共の利益のために、制限を受けているわけです。

また、(コレラや赤痢(せきり)などの)重大な伝染病、感染症にかかった人は、他人への感染をふせぐ隔離(かくり)のため、強制的に入院させられ、勝手に出歩かないように、移動の自由を制限させられる場合もあります。(感染症法 や 医療法 という法律で、こういう処置が認められている。(※ 東京書籍や清水書院などの教科書の図表に記述あり))

また、道路などでデモを行う場合は、事前に届け出(とどけで)が必要です。届け出をしないで、公共の場所でデモをすると、処罰の対象になります。

このように、公共の目的のために、人権・権利が制限されることがあり、これを「公共の福祉」(こうきょう の ふくし)といいます。

日本国憲法でも、公共の福祉は、憲法第12条で認められています。

一方で、「公共の福祉」を理由に、むやみに人権が制限されないようにする注意も必要です。

たとえば、表現の自由、言論の自由と、名誉を傷つけられた個人の関係にしても、その個人が政治家の場合、どうでしょうか?政治家の名誉を傷つけることを恐れるあまりに、マスメディアが、政治家を批判できなくなってしまうのは、風とおしの良い社会,政治が成り立たなくなり、政治家の暴走を許す危険もあります。

また、テレビなどの有名人・芸能人の場合の「プライバシー」を保護するべき範囲も、一般の人とは、違うかもしれません。しかし一方、有名人・芸能人にとってもプライバシーが侵害されないで生活できることは、重要な事です。

※ たとえば1996年、ある出版社が、芸能人の自宅住所などを掲載した出版物を出そうとしたが、芸能事務所側がプライバシー侵害として裁判で訴え、裁判では芸能事務所側が勝利し、出版は禁止された(※ 参考文献: 帝国書院の検定教科書 )。

ハンセン病の問題

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ハンセン病という病気があり、「らい病」ともいう。

ハンセン病は、現代では感染性は低いと考えられているが(しかし、感染性は低いとはいえ、ハンセン病は「らい菌」という細菌の媒介する感染症ではある)、医学が未発達だった過去の時代、ひどく感染すると思われていたため、第二次世界大戦後の1953年に公布された「らい予防法」によりこの病気の患者を強制的に隔離する法律が施行されて、強制隔離が実行された。

日本だけでなく、多くの外国でも、ハンセン病の治療方法が未確立だった時代には、隔離的な政策が取られていた。

だがのちに医学の発達により、ハンセン病は感染しない事が分かった。また、戦前~戦時中の1940年代には、すでにアメリカでハンセン病の治療薬とされるものが発表されていた(現代では、この1940年代の治療薬でハンセン病を治療できた事が解明されている。※ しかし医学の新薬開発はそんなに単純ではなく、治療や薬とされたものが効果が無かったり、失敗の歴史もある。(たとえば野口英世の黄熱病ワクチンなどの失敗例))。

1950年代には、ハンセン病治療薬が本当に効くかどうか分からなかったが、しかしその後何十年経っても、薬でハンセン病を治療できる事例が豊富に積み重なってきたにもかかわらず、「らい予防法」による強制隔離は続いた。

そしてようやく、「らい予防法」は1996年に廃止される。

現在では、ハンセン病患者を隔離する方針は、明らかに間違っている、という合意が成立している。

こういった一連の問題から、人権問題の議論として、ハンセン病の患者は、強制隔離により、不当に「行動の自由」などの人権を奪われたのではないか、という事が問題視された。

(※ 範囲外: )なお2008年には、「ハンセン病問題基本法」が制定された。(※ とうほう社「ビジュアル公民2020」で記載を確認)

しかし、「らい予防法」は、戦後の日本国憲法の掲げる「公共の福祉」や「健康で文化的な生活」の文脈にもとづいて制定された法律だろう。

しかし結果的には、ハンセン病患者の方たちの人権を不当に奪っている。そして事実上、患者の方たちが嘗めた辛酸は、余人の想像を絶するものがあっただろう。

(※ 範囲外:)医療の問題

社会科の範囲外:赤痢やコレラなどの感染症の患者を、医師や自治体などの判断をもとに最低限度の隔離をすることは合法だし、公衆衛生からもそれが求められる。法律では「感染症法」などに規定がある。公共の福祉、ということになるだろう。日本国憲法には、「健康で文化的な生活」という文言もあるから、政府や行政などは公衆衛生を向上させる義務がある。

「公共の福祉は悪である。」、はずはないし、そもそも実際にはそんな主張をする人は、世の中に一人もいないだろう。

2020年、新型コロナ(2019年型コロナウイルス)の感染拡大の問題により、日本を含む多くの国で、医師などの診断によりコロナ感染者とされた人々の隔離等が行われている。本wiki本ページ執筆の現在もコロナ問題が進行中であるので、深入りを避けるが(2021年に記述)、行動の自由などの権利と公衆衛生を両立することの難しさは、政治家や医療関係者だけではなく、あらゆる人が痛感しているだろう。

※ 2022年、高校の公共の検定教科書でも、清水書院の検定教科書「私たちの公共」で、具体的な病名については明言を避けてはいるものの、明らかにコロナウイルスのような特性の感染症を例に、公共の福祉と、公衆衛生と、個人の権利との両立の難しさを、学級のグループ内での議論を例にして説明している。なお、日本国憲法に「公共の福祉」(憲法第13条)も「公衆衛生」(憲法第25条)も「居住・移転の権利」(憲法第22条)も、どれも書かれている。
そのほか高校教科書では、患者の発生情報などについての国民の「知る権利」と、個人情報の保護との対立についても、指摘されている。また、(仮に個人を特定できないように公開情報を加工したとしても、それでも)風評被害の可能性もあると指摘されている。このように、権利の両立やすり合わせは、とても難しい問題である。

新型コロナのような最近の話題だけではない。ハンセン病などの過去に議論になった話題でも類似の問題は存在している。

実際、ハンセン病患者団体などがコロナ問題についても声明を出しているので、けっして無関係ではない。また、新聞報道などでは関心事にもなっている[1]

ハンセン病は、発症した場合、手足の末しょう神経に麻痺が出る場合もあり(※とうほう社「ビジュアル公民2020」で確認)、重い症状になる事もある。また、皮膚に病変が出来る場合もある。ハンセン病は皮膚の病変しか症状がないから、皮膚の病変のせいで、見た目が醜いので、差別された、という主張は不適切だろう。(もっとも、現実問題、ほんとうの意味でそんな主張をした人がいたかどうかも怪しい)。見た目による差別もあったかもしれないが、しかし手足の麻痺などの重大な症状もあるし、また、感染性も低いとはいえ、「らい菌」という細菌により伝染するので、感染性自体はある病気である。

(※ 範囲外:)社会思想と、関連させて…

「善意で行った行動は、かならず良い結果をもたらす」。残念ながら、この命題の真偽値は偽(false,0) でしょう。

日本の薬害エイズ問題でエイズウイルス入りの血液製剤(血友病の治療薬が血液製剤)を処方してしまった医師は、悪意からではなく、医師の職務として、患者を治療しようとして血液製剤を処方した筈だ。睡眠薬サリドマイドの催奇形性だって、通常の治療行為だった筈が、想定外の悲惨な事態に繋がっていったのだろう。とはいえ、実際に薬品を作って販売し、それを認可し、それを処方する人間には、その薬品の安全性と効果に責任があるだろう。その薬品に関して破滅的な悪い出来事が起こった時に、善意でやったことだから仕方ないよね、で、済む筈がない。それらの問題に関わった厚生官僚や政治家や医師が実際に、現実にどういう人間かは知らないが、業務上でミスをおかしたのは間違いないし、世間から多少悪人呼ばわりされて非難されても、仕方がないのではないだろうか。

医療にかぎらず、経済政策などでも、「よかれ」と思って行った政策で裏目の結果が出た例がある。1990年以降の例だと、バブル崩壊後、デフレをともなう不況で対策が遅れたのは、財務省官僚や政治家がインフレによって国民が困窮するのを防ぐためインフレ対策にに力を入れたため、結果、デフレ化して不況下していった・・・という側面がある。

海外の例なら、1980年代のソビエト連邦の崩壊、そのソ連を建国した1917年頃のロシア革命は、「改革により、ロシアの経済と社会をよくしよう。そのために改革に反対する、ロシアの王族を革命で打倒しなければ。」と考えたのだろう。もっともこの話は、善意が裏目が、というよりは、歴史の大きな流れが現前している出来事だろう。

日本の昭和の日中戦争や太平洋戦争などの今になっては無謀な戦争と呼ばれる出来事はどうだろう。あらゆる人間が確実に善意を持ち合わせていることは間違いない。当時の政治家達や大人達がこの国の国益の為に奔走したことは間違いないだろう。

しかし問題は、「善意」とは何かという事だ。善意とは個人の気持ちにすぎない。あくまでもそこには、自分自身の気持ち以外は何もない。

ここに他者が介在し、その他者が何を喜び、何を欲し、何を幸せとし、その他者が何者で、実際にはどんな存在なのか。

それを知ること無しに、(A)、善意が善行になる日は来ないであろう。

前編集者S は、(A)の部分に、または知れないことの限界を知らずに、という言葉をつけ足したが、あらゆることに関しての不可知性に関しては同意するが、この問題に関して知られないことを大上段に語るのなら、そもそも、善意や善行なるものについて最初から語らないのが正解だろう。

善意や善行について語るのなら、どこまでも真実を追求しなければならないし、限界を語って自己満足にふけるのなら、善性とは縁のない人間性なのだろう。

  1. ^ 熊本日日新聞『コロナ対策の厳罰化 ハンセン病問題を教訓に』01月18日09:222020年1月20日に閲覧して確認.