中学校社会 公民/現代社会をとらえる見方や考え方

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

検定教科書での記述の傾向[編集]

次の用語が、重要語句である。

  • 対立(たいりつ)、合意(ごうい)
  • 効率(こうりつ)、公正(こうせい)
  • 個人の尊厳(そんげん)、両性(りょうせい)の本質的平等(ほんしつてき びょうどう)


文部科学省の指導要領には

「人間は本来社会的存在であることに着目させ,社会生活における物事の決定の仕方,きまりの意義について考えさせ,現代社会をとらえる見方や考え方の基礎として,対立と合意,効率と公正などについて理解させる。その際,個人の尊厳と両性の本質的平等,契約の重要性やそれを守ることの意義及び個人の責任などに気付かせる。」

と書いてある。

そのためだろうか検定教科書の多くは、これら指導要領で紹介された

対立」と「合意」、 「効率」と「公正

といった用語を、教科書で太字で紹介している教科書会社が多い。

学習者である中学生にとっては、これらの用語がテストに出る可能性があるので、重点的に暗記する必要がある。

とりあえず説明[編集]

文科省の用意した用語どうしの組み合わせは無視して、いったん、もとになった考え方を考察してみよう。 組み合わせは、以下のとおりだった。

  • 対立(たいりつ)、合意(ごうい)
  • 効率(こうりつ)、公正(こうせい)
  • 個人の尊厳(そんげん)、両性(りょうせい)の本質的平等(ほんしつてき びょうどう)

対立[編集]

さて、「対立」は、人間社会のいたるところで生じる。たとえば資源の分配をめぐっての対立、報酬の分配の対立、・・・さまざまなことで対立は生じるだろう。だれだって、多くの資源や多くの報酬が欲しい。

しかし「そんなことは無い! わたしはそんなに物が欲しくない!」という人がいるかもしれない。 だが、本当に、そうだろうか。どんな人でも、食べ物が必要である。食べ物だって、お金が無いと買えない。ならば、お金の確保をめぐって対立が起きるだろう。たとえ、円やドルなどの貨幣(かへい)を廃止したところで、食べ物の問題が無くなるわけではない。食べ物を作るには農地などの土地が必要だ。農業を行うなら、用水などの水も必要だ。水の確保をめぐっての対立も起きる。

人間がいるかぎり、人間は自身のための資源をめぐって、他人との対立を起こすだろう。

ルールがあるから対立がおさまる[編集]

しかし、現実として日本では、農業用水をめぐる内戦は起きていない。食べ物を奪い合っての戦争も起きていない。何故だろうか? 

君たちの回答の中には、「他人の物を奪うと、ドロボウとして処罰されて警察に逮捕されるから。」と回答するかもしれない。

なるほど、たしかにそうだ。そういうルールがある。「ルール」は、文科省の指導要領での用語で言う「合意」に当たるだろう。なお、前提として、「ルールに基づいて行動しよう。」「ルールを守らない人は、処罰(しょばつ)しよう。」というルールを設ける必要もあるだろう。そうやってルールという合意に基づいて、みんなが平等に従うというのが、「公平」だろう。

しかし、公平(こうへい、equity)と公正(こうせい、fair)は意味が違う。


たとえば、具体的な人名を挙げるが、芸能人のビートたけしの川柳で「赤信号、みんなで渡れば 怖くない」という、日本人の習性を皮肉った川柳があった。

つまり、みんなで悪いことをすれば、それは平等かもしれないが、しかし正義ではない。

つまり、平等なだけではダメなんだ。さらに、正しいかどうかも考慮する必要がある。

だから、ぼくたちは「公正」を考えよう。「効率」と「公正」のバランスを考えよう。


(※ 範囲外: )なお、よくアメリカの大学の経済学の入門書などで、「効率」(efficiency)と「公平」(equity)のバランス(正確には「トレードオフ」)の大切さが「効率」「公平」の語句がセットで教育される(たぶん指導要領の「効率と公正」の元ネタ)。「トレードオフ」とは一般的には、1つ以上のあるものが「両立できない」場合、それらのものの関係がトレードオフであるといいます。例えば『クルーグマン ミクロ経済学[第2版]』(ポールクルーグマン原著、大山道弘ほか訳、東洋経済、2017年4月11日 発行、20ページ)や『マンキュー入門経済学[第二版]』(グレゴリー・マンキュー原著、足立英之ほか訳、東洋経済、2014年3月6日 発行、6ページ)など。
クルーグマンの本のほうには、さらに(和訳だが)「公平とか公正」とまで書いてあり、つまり「公正」という語句が記載されている。
※ 「トレードオフ」という言葉については、高校のどこかで習うので、中学の今は覚えなくていい。
さて、クルーグマンやマンキューなどのこれらのアメリカ経済学の参考文献には、残念ながら「公正」の英訳が見つからなかった。仕方ないので英和辞典(1997年版のジーニアス英和辞典(大修館書店))で調べると、たとえば英単語 fair の訳が「公正な、公平な」とかである。
なお、「トレード・オフ」は英語で trade-offs である[1]
※ このクルーグマンの経済学の教科書のように、べつに、けっして日本の中学社会科の教育だけが「効率」と「公平、公正」のバランスを教えてるわけではない。
※ 高校の範囲ですが、「効率」と「平等」にはトレードオフの関係があります。(※ 実教出版の『公共』(高校の公民の科目名)の見解[2]。) たとえば平等を重視しすぎて多く働いても、少なく働いた人と報酬が同じなら、人々は多く働く意欲を失ってしまうでしょう。かといって効率を重視しすぎて報酬を無規制に野放しにするのも、貧富の差が開いたりして社会不安になりかねません。税金の問題だって、そうです(※ 実教出版の見解)。いちおう所得税の累進課税とかありますが、そう簡単に累進の程度を理屈で決められるものではありません。

実教出版の教科書では、たとえば一部のスポーツ選手が高額の年俸をもらっていることを、「効率」重視だが不「平等」の例として取り上げています。

さて、別に実教の見解ではないのですが、世間ではよく、企業の社長が高額な報酬を得ているのを「労働者への差別」だと文句を言う人がいます。そういう文句を言う人は、じゃあスポーツ選手には文句を言わないのでしょうか。「スポーツ選手は高額の報酬ではいいけど、そこらの中小企業の社長はダメ」なんてのは、それこそ中小企業への単なる差別です。なんというか、差別を批判する人ほど自身の差別性に気づけないようで滑稽(こっけい)です。

※ 中学生や高校生はそろそろ大人になるんですから「○○さえすればいい」みたいな単純な善悪で考えるのではなく、こういったトレードオフの考えをできるようになりたいものですね。残念ながら大学の教科書でも、上述の高校教科書よりも思考の質の低いものはあります。大学教科書でのなんらかの制度の解説などで、21世紀にもなって、いまだに一方的に効率または平等のどちらかを主張しているような教科書です。そういうダメな大学教科書を見抜けるようになるためにも、上述の効率・平等などのトレードオフの考え方をしっかりと身に着けましょう。

高校範囲で、かなり発展的な話題なのですが、東京書籍「公共」および清水書院「私たちの公共」の検定教科書が、ベンサムの格言「最大多数の最大幸福」を紹介しつつ、同じページで「トロッコ問題」というトレードオフの典型のような哲学的問題を紹介しています。なおそのページでは「トレードオフ」の用語は紹介していません。

どうしてルールがあるのか?[編集]

なぜで大人たちは、そういうルール(「他人の物を奪うと、ドロボウとして処罰されて警察に逮捕される。」)を決めたのだろう。 君たちの回答の中には、「自分の物が盗まれたら困るから。だから、みんなでルールを作って、他人の物を盗めないようにした。」と回答するかもしれない。

ならば、どうして他人の物を盗んでもいい代わりに、自分の物を盗まれても文句を言わない。」というルールを作らなかったのだろう。あるいは、「強いやつが力ずくでいくらでも他人の物を盗んでもいい。」というルールを作らなかったのだろう。

ひょっとしたら、いまの各国での法律とか道徳などのルールも、もとをただせば、強いやつが力ずくで決めさせたルールなのかもしれない。

「僕たちは、弱いんだ。」「弱いから、みんなで力を合わせないといけない。」「だから、みんなで助け合おう。」

では、「他人に自分の盗ませてあげる」という行為は、貧しい人への "助け" には ならないのか? 他人に物を盗まれても、「盗まれた」と思うのではなく、「プレゼントした。」「寄付してあげた。」と思うのはダメなのか?

「みんなが物を盗むと、物を "自分で作ろう" とする人がいなくなる。」と反論するかもしれない。

なるほど、ドロボウにだって、物は必要だ。ドロボウにだって、食べ物も必要だ。ドロボウにだって、衣服も必要だ。ドロボウにだって、住居は必要だ。

"物を作る人" を盗んでくれば良いではないか? 人を誘拐して、奴隷にすれば良いではないか? 

「それは犯罪だ。」「奴隷にされた人が、かわいそうだ。」「歴史的にも、奴隷制は失敗している。」

では、どうして他人を奴隷のように無理やり働かすのがいけないのか。

「歴史的にも奴隷制は失敗している証拠を教えよう。たとえば昔のアメリカの黒人奴隷。あるいは古代・中世での世界各地での奴隷制。これらは結局、失敗し、いまではアメリカもヨーロッパも、奴隷制を否定している。」

では、どうして奴隷制は失敗したのだろう? あるいは、もし奴隷制が歴史的に失敗していなかったら、奴隷制を始めるつもりなのか?

あるいは、国は税金を国民から取ってるいるが、これは「国が無理やり金を国民に払わせる」という、国民を奴隷のように扱う行為にはならないのだろうか? なぜ税金を払うのだろう? 自分で作った物を売って得た富を、どうして他人に分けないといけないのか。税務署は強盗じゃないのか?

ルールの出所は、国に行き着く? [編集]

なぜ税金を払うのだろう? 

君たちの回答の中には、「日本に住んでる以上は、日本の公共サービスを使っているのだから、日本の役所にお金を払う必要がある。」と回答するかもしれない。

では、なぜ住んでる場所の持ち主に、お金を払わないといけないのだろう? そもそも、日本国の土地の持ち主は誰なのか? 地主か? そうだとすれば地主は、どうして税金を払うのか?

天皇が持ち主か? じゃあ、国民は天皇の所有物に過ぎないのか? あなた個人だけでなく、あなたの大切な家族も友人も、天皇の所有物の一つに過ぎないって言うのか?

国の持ち主は誰だろうか? 日本国民だろうか? では、もし外国人が日本に帰化して日本国籍を取得したら、彼/彼女は日本国の持ち主の一人か?

・・・・・・と、疑問はいくらでも考えようと思えば考えつく。しかし、日常生活では、このような疑問を考えなくても生活は回っている。べつに家庭生活だけでなく、企業での労働などでもこのような疑問を考える必要も無い。

なぜ、「国の持ち主が誰か?」とかを考えなくても、社会が円滑に動くのだろう。

・・・・・・と、まあ、疑問はつきないが、深入りしすぎると、ほかの単元を勉強する時間がなくなるので、とりあえず、このくらいにしよう。


ホッブズ
17世紀のイギリスの思想家
ホッブズの著書『リバイアサン』の口絵
国王の服が無数の人々によってできている。
万人(ばんにん)の万人への(たたか)い」

ちなみに、上記の説明は、高校でならう「万人の万人への闘い」という近代ヨーロッパの思想をもとに、現代日本風にアレンジしたものである。ヨーロッパの各地で宗教のちがいなどにもとづく戦争と内乱が続いた17世紀、イギリスの思想家ホッブズが「万人(ばんにん)の万人へのたたかい」という考えを著書『リバイアサン』[3][4]などで述べた。(※ 中学範囲外なので覚えなくて良い。高校の公民科では確実にホッブズについて習う。)

ホッブズの思想によると、まず、すべての人間には、自分の生命を守る権利(自然権)があるとした[5]。 しかし、その権利だけでは、自分を守ろうとするがために、かえってお互いに相手を敵だとみなし、死の恐怖と不安に支配された状態になると考えた。ホッブズはそうした状態を「万人の万人に対する闘い」と呼んだ。そこには芸術も学問もなく、孤独で貧しく悲惨な人生しか送れない。

ホッブズは、自然権をお互いの合意のもとで制限し、これを主権者にゆずりわたすことで国家ができたと説明した。そして、人々は国家に従うことで、人民どうしが相手を味方であるとみなせるようになり、平和と安全を確保できると考えた。



検定教科書での説明をもとに[編集]

理科でいう「効率」(こうりつ)とは、「少ない時間で、たくさんの仕事をする能力」のことである。

しかし、社会科のこの単元では、「効率」とは「少ない労力と費用と時間で、成果を出すこと」という意味だとしよう。 また、そのために(少ない労力などで成果を出すために)「無駄を省く(はぶく)」というような意味だとしよう。


ある国のある年度の政治についてなら、税金や人手にも限りがあるので、「効率」も必要である。

事例[編集]

(※ 検定教科書での「効率」「公正」などの説明は、以下のような感じである。ウィキブックス用に、多少、内容をアレンジしてある。また、ウィキブックス著者の意見が入っている。もともとの教科書には、解決案などは書かれておらず、生徒どうしで話しあって考えさせる練習問題になっている。)
中学生は、ウィキブックス著者の考えを鵜呑み(うのみ)にせず、自分で考えてほしい。

事例: 公立中学の運動部[編集]

ウィキブックスからの参考[編集]

公立中学校の授業とかだって、限りある時間と予算のなかで、効率よく行われなければならない。なので、そういう理由もあって「授業中には、生徒は私語をしない」とかのルールもあるわけだ。

授業にかぎらず、部活とかだって、校庭や体育館などの限られたスペースを、みんなで上手く活用するわけだ。

ここで重要なのは、よほど体育館の広い中学(例えばスポーツ名門校の私学とか)でないかぎり、けっして皆が同時に、体育館を使うわけではない。

つまり、体育館が普通の広さの公立中学では、けっして室内スポーツをしてる運動部の皆(男子バスケ部、女子バスケ部、男子卓球部、女子卓球部、男子バドミントン部、女子バドミントン部・・・)の全部員(1年生から3年生まで全員)が、けっして同時に、体育館を使うわけではない。

では、どうやって使っているかというと、かわりばんこ に、一定の時間ごとに交代して、体育館の室内スペースを使ってるわけだ。

こういうルールをつくることで、体育館の限られたスペースを、うまく使ってるわけだ。ルールを作ることで、効率を上げてるよね。

で、体育館で練習できないあいだは、筋トレなどの他の練習をして、うまく時間を有効活用してるわけだよね。

(※ 検定教科書では、運動部どうしの校庭の使い方の事例であったが、ウィキブックスでは体育館にアレンジした。)

検定教科書での事例[編集]

仮に、校庭が、校舎の耐震補強(たいしんほきょう)工事のため、校庭の3分の1の面積が、使えなくなったとしよう。

このため、校庭で練習しなければならない運動部である、サッカー部、野球部、ソフトボール部、陸上部、・・・などが、練習場所が足りなくなりそうだとしよう。

屋外競技のどの部活も、大会前の直前の期間であるとして、大会の試合にそなえて校庭で実践的な練習をしたいと思ってるとしよう。

私たち中学生は、どうすべきでしょうか?


・・・というのが、検定教科書に書かれている事例である。


事例: 深夜のピアノ練習と、隣人トラブル[編集]

なにも公共的な機関にかぎらず、日常生活でも、時間に限り(かぎり)があり、土地の広さにも限り(かぎり)がある。

夜間のピアノ練習によって、隣人トラブルが起きたという、そういう事件がある。(ここウィキブックスでは、この事件について深入りしない。検定教科書でも、そもそも事件が実在した事自体、教科書は紹介してない。)

(以下、ウィキブックス著者の意見。中学生は、鵜呑みにせず、自分で考えてほしい。)

さて、夜中に眠ろうとしてる隣人からすれば、ピアノの音を聞かされて眠れないのは、すごく不満であるし、睡眠不足になりかねず、健康を害しかねないだろう。(別に、事件の隣人がそうだったとか言ってるわけではない。)

だから、まあ、このピアノ事件に関して言えば、夜中に楽器の練習をする行為は、マナー違反だろう。

ピアノの練習時間を限定する法律なんて、普段の生活では聞いた事ないが(ひょっとしたら、今の時代なら、どこかの法律にあるかもしれないが)、だからって、けっして、ある行為の規制が法律に無いからって、なんでもやってイイわけではない。

夜中にピアノの音を聞かされる隣人にだって、夜中ぐらいは静かに眠らえてもらうっていう、当たり前の権利がある、・・・って考えるのが公正だろう。

だからといって、いちいち法律で、「夜中の◯時から翌朝△時までは、音を出す楽器の練習をしていけません。」とか書くのも、非効率である。だって、「楽器」が駄目でも、じゃあ、「夜中にトイレに行ってオナラの音が出るのはイイのか駄目なのか?」とか、あるいは「夜中に部屋で勉強するために明かりがつくのは、明かりが窓から漏れるから、通行人はまぶしくて、通行人に迷惑ではないか?」とか、「最近の電子楽器では、イヤホンをして演奏者にしか音が聞こえない楽器もあるんだが?」とか、いちいち、そういった細かいことの想定を、法律は書ききれない。

法律は、なるべく簡単なほうが、理解しやすいし、覚えやすく、効率的である。もし法律が効率的でないと、とても運用しきれない。

このように、「効率」とか「公正」ってのは、けっして、抽象的な議論ではなく、そういう事をきちんと考えて対策しておかないと、いろいろと隣人トラブルや、ついには事件になりかねない。


事例: 照明と省エネルギー[編集]

※ 教科書は、以下のような内容。

もし夜中、街灯が適度に明るければ、防犯などにも役立つかもしれないし、暗いことなどによる事故も減る。

でも、街灯を点灯するためには電気エネルギーが必要である。

街灯をいくつか消灯すれば、省エネになる。


さて、夜中に出歩くことの多い人にとっては、街灯が多く点灯するほうが、便利である。

いっぽう、夜中に出歩かないことの多い人にとっては、なるべく街灯をいくつか消灯するほうが、省エネになって有利である。

街灯を多く点灯しても、それとも少なく点灯しても、どちらかの人々に有利になってしまい、もういっぽうの人々に不利になってしまう。

どうすればいいか、読者の中学生は、生徒どうしで話しあってみよう、・・・

・・・と教科書は課題を出している。


教科書の説明[編集]

※ 検定教科書に書いてあることを、ウィキブックス著者の意見は入れず、紹介。

どんなに効率の良くて公正なルールでも、多くの人々が合意してなければ、そのルールは守られない。

だから、なるべく多くの人が合意するルールを作る必要がある。

でも、けっして検定教科書は、「すべての人」が合意すべきルールを作るべきなんて、言ってない。あくまで、「多く」の人が合意すべきである、と教科書は言ってるわけだ。

もう一方で、まだ生まれてない世代にも、政治や法律などのルールは配慮する必要である・・・と、ある検定教科書は言っている。

そして、社会の変化によって、どんなルールが効率的で公正かは、変わっていく。

また、ルールには、必要に応じて例外的に、少しだけ変更しなければならない場合がある。たとえば、スポーツして遊ぼうとして、野球やソフトボールなどの集団球技のスポーツで対戦しようと思ったとき、ルールどおりの人数がそろわず、人数が足りない場合がある。そのような場合、少ない人数でも遊べるようにルールを変更する必要があるだろう。


「少数意見の尊重」[編集]

いくつかの検定教科書で、「少数意見の尊重」という言葉があります。(※ 帝国書院や日本文教出版(ただし社会保障の単元)など。)

もちろん、けっして少数派の意見が議会などで可決して通るわけではありません。(もし少数派だから意見が可決すると仮定してしまうと、たとえば、まるで第二次世界大戦前の日本での軍部大臣現役武官制のような、一部の人間によって国会など議会が左右される不合理な状況になってしまいます。)

「小数意見の尊重」とは、けっして「少数意見に従う」という意味ではありません(※ 日本文教出版が紹介)。

ですが、良い議論をするためには、色々な立場などからの多様な意見をあつめる必要があります。だから少数意見であっても、その意見が存在すること自体は尊重しなければなりません。

中学の範囲を超えますが(たぶん教師などが口頭で説明するでしょうが)、近代フランスにおける哲学の格言で「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という、民主主義的な態度を示したような名言があります。(※ なお、この格言は、よくヴォルテールの発言と紹介されてきたが、実際にはヴォルテールを研究した哲学者エルベシウスによる要約であるらしく、ヴォルテール自身は発言してないらしい。)


(※ 高校の範囲:) 民主主義は、けっして万全の政治体制ではありません。しかし、ほかのどの政治体制よりもマシです。20世紀のイギリスで首相を勤めたチャーチルは、「民主主意義は最悪の政治形態である。ただし、(民主主義以外の)他の政治形態を除いてのことだが…」と述べています(高校の東京書籍『公共』教科書の見解)。

けっして形式的に「民主主義」と言われるものを妄信するのではなく、実際に少数意見の存在の権利が守られているかとか、多様な知見を政策などに取り入れているかとか、そういったことに気を配っていきたいものです(高校の東京書籍『公共』教科書の見解)。


  1. ^ 『ビジネス基礎』、実教出版、令和2年12月25日検定、令和4年1月25日発行、P62
  2. ^ 詳述公共ダイジェスト版
  3. ^ リバイアサンとは、旧約聖書(きゅうやく せいしょ)に出てくる、巨大な怪獣(かいじゅう)の名前。ホッブズは、国家のもつ巨大な権力を、巨大な怪獣にたとえている。
  4. ^ 中学の範囲外だが、いちおう、一部の中学用の資料集で紹介されることもある。ある中学公民用の資料集で、ホッブズの思想とリバイアサンのイメージ図が紹介されたこともある。なお、本書で紹介した、ホッブズの著書にある絵の、王冠をかぶった男の画像は、けっしてリバイアサンそのもののイメージ図ではない。リバイアサンのイメージ図は、巨大なワニとか巨大な海ヘビとか、そういう水辺に住む動物に近い形をした、巨大な怪獣である。(※ ある中学公民用の資料集で、リバイアサンのイメージ図が紹介されたことがある。あるゲーム会社の西洋ファンタジーを題材にしたゲームの、怪獣としてリバイアサンが出てくるゲーム作品があり、そのイラストを、ある教材出版社が中学公民用の資料集でリバイアサンのイメージ図として、怪獣リバイサンのイラストとして紹介した中学公民用の資料集があった。
  5. ^ ※ 参考文献: 清水書院の検定教科書『高等学校 新政治・経済 最新版』、平成25年検定版。