中学校社会 歴史/ヨーロッパ諸国によるアジア侵略

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ヨーロッパのアジア侵略[編集]

日本が鎖国していたころ、ヨーロッパでは、産業革命などによって、科学技術がものすごく発達し、ヨーロッパの兵器の技術も発達していった。 19世紀のころ、産業の近代化などで国力をつけていたヨーロッパ諸国は、アジアとの貿易のしかたを変えるようになった。結論から言うと、ヨーロッパによるアジアへの侵略が始まっていった。

もっと、くわしく説明すると、つぎのような説明になる。 日本では戦国時代ごろだった16世紀ごろは、ヨーロッパは、貿易相手のアジアの国とは、あまり戦いをしなかった。だが、そのあと、ヨーロッパの近代化でヨーロッパの国力が強まったことで、ヨーロッパはアジアに対しても侵略的になっていく。

(アフリカや南米では、ヨーロッパは、すでに侵略的だった。)

たとえば、直接、アジアと戦争をして領土を獲得して、領地で現地のアジア人を安い値段で働かせ農産物などを生産して、本国のヨーロッパに産物を輸出するようになった。 また、ヨーロッパの武力を背景に、戦争で負かしたアジア諸国の国政に干渉するようになった。

イギリスのインド支配[編集]

1800年代のはじめごろ、イギリスはインドに進出していました。イギリスの支配は、だんだんと強まっていきます。イギリスに対する大きな反乱が1857年に起きました。インド大反乱です。シパーヒーが反乱を起こしたので、シパーヒーの乱(あるいは「セポイの乱」)とも言います。

ですが、イギリスは反乱を武力で平定し、そのあと、イギリスの支配をますますつよめ、インドを直接の支配下に置き、植民地にしました。

イギリスのアヘン戦争[編集]

アヘン戦争(アヘンせんそう)で、イギリス海軍の軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵。右奥のほうにイギリスの蒸気船が描かれている。

インド大反乱より昔になるが、1830年ごろ、イギリスはインドを中継地として清(しん)と貿易をしていました(三角貿易)。清は欧米との貿易の港を広州(こうしゅう、コワンチョウ)の一港に制限して欧米と貿易をしていました。

イギリスは、綿織物などの輸出品が、あまり清には売れず、そのいっぽうで、清からは茶(ちゃ)などを多く輸入しました。イギリスでは、紅茶を飲む習慣が広がっていました。

イギリスの貿易は赤字になり、そのためイギリスから支払いのための銀が多く流出しました。この銀の流出をいやがったイギリスが、貿易でかせごうとして、支配していたインドで麻薬(まやく)のアヘンをつくり、アヘンを清にこっそりと輸出します。

このため、清には多くの麻薬中毒者(まやくちゅうどくしゃ)が出てきて、また、支払いのための銀が清から流出していきました。

林則徐(りん そくじょ)

清が、アヘンの輸入を取り締まり始めます。清の役人の林則徐(りん そくじょ)が、アヘンの取締りを始めます。林則徐は、密輸されたアヘンを没収し、焼き捨てさせました。 すると、イギリスは貿易の自由を口実にして、戦争を1840年にしかけました。これがアヘン戦争(アヘンせんそう)です。イギリスの海軍の軍艦で、清の船を破壊するなどして、清は対抗手段がなくなり、戦争はイギリスの勝利でした。

戦争に負けた清は、不利な条約である 南京条約(ナンキンじょうやく) を1842年に結ばされ、さらに多額の賠償金(ばいしょうきん)を支払わされ、また清は香港(ホンコン)をイギリスにゆずりわたすことになってしまいました。イギリスは香港を手に入れました。 また、上海(シャンハイ)など5つの港を開かせました。

清は、関税自主権(かんぜいじしゅけん)を失いました。また、清は外国人を裁判にかける権利がなくなり、イギリスなど外国の領事が裁判権を持つことになりました。外国が領事裁判権(りょうじ さいばんけん)を持つことになりました( いわゆる、治外法権(ちがいほうけん) )。  上海などの主な港の近くには、中国の主権がおよばない地域が作られ、外国人が母国のように自由に行動できる 租界(そかい) という居留地(きょりゅうち)が出来ました。

また、清はイギリスとの条約だけでなく、アメリカやフランスなどの、その他の欧米諸国とも、清が不利な不平等条約を結ばされました。

太平天国の乱[編集]

清は多額の賠償金を払うため、国民に重い税をかけた。このことが清国民の不満を高めた。また、もともと清の王朝は満州族の王朝であり、漢民族などは満州族による支配には不満をいだいていた。

洪秀全(こう しゅうぜん、ホンシウチュワン)を中心にする、満州族の政府である清国政府を倒そうとする反乱が1851年に起き、南京を拠点にして太平天国(たいへい てんごく)という国が、一時的に作られた。 この乱を、太平天国の乱(たいへいてんごく の らん)という。 太平天国は、運動の理想として、農民たちに土地を平等に分け与えることなどをかかげて、農民たちに支持されました。

しかし、イギリスなどの支援を受けた清国政府によって、太平天国は倒され、1864年には太平天国の拠点だった南京も占領され、洪秀全も自殺しました。

日本への影響[編集]

いっぽう、そのころの日本に、アヘン戦争での清の敗戦の知らせが、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。 また、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていっているという情勢(じょうせい)に気がつく者があらわれはじめてきます。

このあと、フランスなどの他のヨーロッパの国々も、イギリスのように、武力でアジアを支配するようになっていった。


日本の幕府は、貿易相手のオランダなどを通して清の敗戦を知ったこともあり、異国船打払い(いこくせん うちはらい)の方針を変えないと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給(ほきゅう)することをゆるしました。