中学校社会 歴史/古墳時代

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このページ (中学校社会 歴史/古墳時代) では、古墳時代について解説する。この単元の用語には難しいものが多いので、漢字の間違いなどに十分注意しよう。

古墳の出現[編集]

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん) の1つで、仁徳(にんとく)天皇(りょう)と伝わる大仙(だいせん)古墳(大阪府堺市)
はにわの1つ、武装男子立像(群馬県太田市出土・東京国立博物館蔵)
はにわの1つ、馬形埴輪(東京国立博物館)

3世紀なかばから、日本の各地で、土を盛った大きな墓が作られるようになった。この「土を盛った大きな墓」を古墳(こふん)という。これら古墳は、各地の国を支配していた王や豪族(ごうぞく)[1]の墓だと考えられている。古墳が、さかんに作られる時代 (これを古墳時代と呼ぶ) は、3世紀から6世紀ごろまで続く。この古墳時代の始めの頃の日本各地には豪族[1]がそれぞれいたが、互いに侵攻と協力を繰り返し次第に統合されていった。

古墳の形は、円形に土が盛り上がっている「円墳」と、四角形に土が盛り上がっている「方墳」が基本的な形であり、これらを組み合わせた前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が代表的である。

古墳の多くは、表面を石で覆っていて、内部には石室(せきしつ)と呼ばれる部屋があり、死者が入った(ひつぎ)が収められていた。このほか、さまざまな副葬品がおさめられた。副葬品には、古墳時代のはじめごろは銅鏡や銅剣、埴輪(はにわ)などが置かれた。やがて、鉄製の武具や馬具、農具なども石室におさめられるようになった。これらの副葬品は、その当時貴重であったり、価値があったものが多い。

ヤマト王権[編集]

特に大きな古墳が、大和(やまと)(現在の奈良県)や河内(かわち)(現在の大阪府南部)を中心に多く作られていることから、近畿地方を中心に、有力な豪族たちがいたと考えられている。この近畿地方の有力な豪族たちの連合の政権のことを、現代では「ヤマト王権」、「ヤマト政権」などという(呼称は担当教員に尋ねるかもしくは教科書並びにプリント類を参照)。

4世紀から5世紀には、前方後円墳が、大和地方だけでなく、各地に広がっていく。各地で発掘された鉄剣などにヤマト王権の関連人物の名 (後述) が刻まれていたことから、5世紀の後半には、ヤマト王権は九州から関東までを支配していたと強く考えられている。

この大和にいた、有力な豪族たちの連合体であるヤマト王権が、のちに日本を支配していき、のちの飛鳥時代の朝廷(ちょうてい)になっていく。

中央の縦長の茶色が鉄剣「金錯銘鉄剣」(埼玉県立さきたま史跡の博物館蔵)

埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル大王(おおきみ)の名の入った文が、刻まれている。この文から、この地方の支配者 (豪族) は、ワカタケル大王に使えていたと推定される。そして、熊本県の江田(ふな)山古墳にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀(てっとう)[2]があることから、ワカタケル大王の支配領域が、関東地方から九州までの広い範囲に、及んでいたと強く推定されている。当時はまだ漢字以外の文字が存在しなかったので、稲荷山古墳の鉄剣には115字の漢字の文が刻まれており、その文に「獲加多支鹵[3]大王」(ワカタケル大王)という名がある。また、江田船山の鉄刀は、刻まれた文が読めなくなっていて、「獲□□□鹵大王」(ワ???ル大王)というふうに名前の一部が読めなくなっている。(□が破損部とする。)

後の日本の神話の書の『古事記(こじき)』や、後の歴史書の『日本書紀(にほんしょき)』などから「ワカタケル」という人物の存在が知られていることが、鉄剣などがワカタケルの存在を裏付ける証拠になったのだ。ワカタケル大王が雄略(ゆうりゃく)天皇であるということが分かっている。また、中国の歴史書などでの倭の五王倭王武にも同じ。

「ヤマト政権」について

この章では「ヤマト政権」並びに「ヤマト王権」のみを挙げた (基本的にはこの2つが主流) が、この政治体の呼び方は多数ある。そればかりか、「ヤマト」を漢字で書く人もいる。前述のように、できるだけ担当教員の指示に従い、それが不可能ならば教科書に従ってほしい。

なお、この本を読んでいる学生の周りに、「ヤマト朝廷」という呼び方をする人はいないだろうか。かつてこのように呼ばれていたことがあるが、現在はこの呼び方は否定されている。保護者やインターネット上のウェブサイトなどでこのように教えられるもしくは表現されている場合があれば、十分に留意してほしい。

ヤマト政権が、後に朝廷になるとはいえ、古墳時代の始めや中頃では、まだヤマト政権は各地の豪族のうちの1つに過ぎない。古墳時代の始めのうちは、まだ日本の統一がほとんど進んでおらず、ヤマト政権は「朝廷」と呼べる段階に至っていない。

朝廷の出現[編集]

5世紀の後半ごろから、ヤマト王権は、東北や北海道地方、南洋諸島を除く日本各地を平定した。ヤマト王権の中の、もっとも有力な支配者を、大王(おおきみ)と呼んでいた。大王の一族は、後の天皇の一族である。例えば、5世紀の中ごろに近畿地方に作られた大仙古墳 (仁徳天皇陵とされる) は、大王の墓だと考えられている。

この頃には、政権がかなり安定しており、政治組織を整えられるようになった。

氏姓[編集]

豪族は、血縁をもとに、(うじ)という集団を作っていた。そして、豪族たちの名前に関する制度で、この氏と(かばね)による、後に氏姓制度(せいせいど))と呼ばれる、作られた。

例えば、蘇我 (そが) 大臣 (だいじん) 馬子 (うまこ) であれば、「蘇我」が氏、「大臣」が姓、「馬子」が名となる。詳しくは以下のとおりである。

このとは、血のつながった者どうしの集団である。

それに対しとは、政治の職務による称号(しょうごう)である。

このような改革により、6世紀の半ばごろまでには、ヤマト王権による中央集権的な日本各地の支配が進み、のちの時代で言う「朝廷」のようなものが形成されていったと考えられる。

外国[編集]

朝鮮半島[編集]

375年頃の朝鮮半島
碑文の複製(1882年頃作成・東京国立博物館)

4世紀、朝鮮半島には南西部の百済(ペクチェ)(「くだら」とも呼ばれる)と、東部の新羅(シルラ)(「しらぎ」とも呼ばれる)、北部の高句麗(コグリョ)伽耶(カヤ)諸国が存在し、互いに争っていた。伽耶のことを任那(みまな)あるいは加羅(から)とも言った。

日本は、鉄などの資源をもとめて、伽耶や百済と交流があった。そのため、日本はこの2国 (伽耶と百済) と連合して、敵である新羅および高句麗と戦った。

朝鮮半島での、広開土王(こうかいどおう)(好太王(こうたいおう)とも言われる)の碑文(ひぶん)によると、倭が高句麗との戦争を4世紀後半にしたことが書かれている。この戦いでは高句麗が倭の軍を破った。

最終的に、7世紀、新羅が朝鮮半島を統一する。

中国[編集]

Map of Northern Wei and Liu Song Dynasty ja.png

5世紀の終わりごろ、中国では「宋」(そう)という国が、中国の南部を治めていた。この時代、中国は北朝(ほくちょう)である、北魏(ほくぎ)と、南朝(なんちょう)である宋(そう)という、2つの国に分かれていて、南北の王朝が争っていた。 以下これらは韓国に伝わる事柄なので他国の文献とは内容が異なる場合がございます。

その宋の歴史書の『宋書』倭国伝(そうじょ わこくでん)では、5世紀に中国の王朝である宋に、日本からの外交で、日本の5人の大王が、それぞれ外交の使者を送ってきたことが、『宋書』に書かれています。 5人の王の名は、宋書によると、それぞれ讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という名です。 この5人の倭国の王を 倭の五王(わのごおう) といいます。日本は、高句麗との戦争で優位に立ちたいので、宋の支援(しえん)が、ほしかったのです。

この5人の王が、どの天皇か、それとも天皇ではない別の勢力なのか、いろんな説があります。

有力な説では、武(ぶ)は、日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述のあるワカタケル大王のことだろうと思われています。つまり雄略天皇が武(ぶ)だろうと思われています。


  • 倭王(わおう)武(ぶ)の上奏文(じょうそうぶん)

この時代の倭王の「武」(ぶ)が、中国に送った手紙には、つぎのようなことが書かれています。

(和訳して抜粋)

「皇帝から臣下としての地位を受けた我が国は、中国から遠く離れた所を領域としています。

私たちは、代々、中国を敬ってきました。自分は愚か者ではありますが、先代の遺志をつぎ、私たちは中国に朝貢をしようと百済を通るための船をととのえました。しかし,高句麗が百済を攻めており、百済の領土をうばい、百済の人々の殺しなどの、無道(むどう)なことをしています。そのため、私たちの使者が中国へ行くことが出来ず、朝貢がとどこおってしまいます。

私たちの国は高句麗と戦いたいと思います。そのため、強敵の高句麗を倒すために、どうか皇帝陛下のおめぐみをいただき、私に高い地位を与えていただけないでしょうか。

もし、この強敵の高句麗を打ち倒せして国難をこえたなら、ますます中国への尊敬を深め、中国への忠誠を変えることはありません。」

このような、内容が書かれています。この倭王が中国に送った手紙を、一般に、倭王武の上奏文(わおう ぶ の じょうそうぶん)と言います。「上奏」(じょうそう)とは、格下の者が、目上の地位の者に、申し上げることです。

なお、最終的に中国の南北朝を統一する国は、「隋」(ずい)という国によって6世紀おわりごろに統一されます。南北朝の次の王朝は、隋(ずい)王朝になります。しかし、この隋の時代は長くは続きません。

渡来人と文化伝来[編集]

須恵器。日下部遺跡(兵庫県・神戸市)から出土した飛鳥時代の甕(兵庫県立考古博物館)
須恵器。森ヶ沢遺跡(青森県・七戸町)から出土した5世紀の須恵器

5世紀ごろ、朝鮮半島や中国大陸から、多くの人が日本に渡ってきて、日本に移り住んだ。このように、古い時代に外国から日本に移り住んだ人たちを 渡来人(とらいじん) という。

※ 「渡来人」とは、現代になって作られた用語。古代では「渡来」ではなく「帰化」(きか)と言っていた。自由社の教科書で「帰化人」とあるのは、そういう事情がある。ただし、現代では「帰化」は、べつの意味で使われているので、区別のためにも「渡来人」という用語が必要である。

この5世紀頃の渡来人により、外国の文化が日本に多く伝わった。


  • 漢字が日本に伝わります。
  • 儒教(じゅきょう)が伝わります。儒教とは、孔子が始めた思想で、政治や道徳に関する思想です。
  • 用水路の土木技術や、絹織物などの機織りの技術、農具や工具や武器などをつくる鍛冶(かじ)や金属加工などの技術など、新しい技術も、日本に伝わります。

須恵器(すえき)という、土器の作り方が、日本に伝わります。須恵器は、弥生土器よりも、さらに製法の進んだ、かたい土器です。 須恵器の製法は、丘(おか)などの斜めになってる地面の斜面をくりぬいて穴窯(あながま)を作り、その穴窯の中で土器を焼き固めるという、のぼり窯(のぼりがま)を用いた方法です。野焼きよりも高温に焼けるので、かたい土器が焼きあがるというわけです。 縄文土器は、野焼きの土器でした。弥生土器も、のぼり窯は用いていません。


  • 仏教(ぶっきょう)の伝来

また、6世紀の半ばごろに、仏教(ぶっきょう)も、外国から伝わります。(538年か552年のどちらかに、)朝鮮半島の百済(くだら、ペクチェ)の王から、仏像や経典が、日本の天皇に送られます。

仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで、 シャカ という人物が始めた宗教です。シャカはゴーダマ=シッダルタ とも言われます。


[編集]

  1. ^ 1.0 1.1 広い土地をt支配していた力のある一族。
  2. ^ 一般に刃が両方についている(諸刃)ものを「剣」、片方にのみついているものを「刀」と呼び区別している。は
  3. ^ 中学生がこの漢字を覚える必要は無い。