中学校社会 歴史/奈良時代

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奈良時代の日本の人口は、時期にもよりますが、日本全国で600万人ほどです。


政治[編集]

平城京 条坊図。
中央の南北の道は朱雀大路(すざく おおじ)です。そして、大路の東側が左京(さきょう)、西側が右京(うきょう)です。平城京(へいじょうきょう)は、東西(とうざい)およそ6km、南北(なんぼく)およそ5km、朱雀大路の幅は約80m、北の平城宮(へいじょうきゅう)が中心地で、天皇(てんのう)の住まいの内裏(だいり)などが平城宮にあります。

文武天皇(もんむてんのう、大宝律令を作らせた)の、つぎの天皇である元明天皇(げんめいてんのう)の時代に、都(みやこ)が移りました。藤原京(ふじわらきょう)から710年(和同3年)に奈良の 平城京(へいじょうきょう) へと都が移りました。この710年から、794年に京都の平安京(へいあんきょう)に変わるまでの、奈良(なら)に都がある約80年間の時代を 奈良時代(なら じだい) といいます。

平城京は、唐(とう)の都の長安(ちょうあん)を参考に作られました。

年号をおぼえる語呂合わせ(ごろあわせ)は「なんと(710)、見事な平城京」。

794年に平安京に都が移るまで、この平城京が都である。平城京に都があった710年から80年間ほどの時代を奈良時代(ならじだい) といいます。

平城京は、道の通りが碁盤目(ごばんめ)のように、区画(くかく)が整理(せいり)されています。このような、碁盤目のような区画のつくりを 条坊制(じょうぼうせい) といいます。

 
 畿内

 
 東海道

 
 東山道

 
 北陸道

 
 山陰道

 
 山陽道

 
 南海道

 
 西海道

都と全国を結ぶ幹線道路も整備されました。(五畿七道、ごき しちどう)

五畿とは畿内の5つの国である大和(やまと)、山城(やましろ)、河内(かわち)、摂津(せっつ)、和泉(いずみ)のことです。 七道とは、東山道(とうざんどう)、東海道(とうかいどう)、北陸道(ほくりくどう)、南海道(なんかいどう)、山陽道(さんようどう)、山陰道(さんいんどう)、西海道(さいかいどう)のことです。


道路には、役人が馬を乗り継ぐための 駅(うまや) が置かれました。「駅」と言っても、現在の鉄道の駅(えき)とは、ちがいます。

また朝廷(ちょうてい)は、東北地方の人々を蝦夷(えみし)と呼び、蝦夷を支配(しはい)するための拠点(きょてん)として多賀城(たがじょう)が、今で言う宮城県(みやぎけん)の位置に置かれました。



天平文化[編集]

大仏づくり[編集]

奈良時代の文化は、仏教の影響と唐との交流の影響で、平城京を中心に貴族の文化が栄えました。 とくに、聖武天皇(しょうむ てんのう)の治めた 天平(てんぴょう) の年号の時代に、この傾向が強いので、この奈良時代の文化を 天平文化(てんぴょうぶんか) と言います。

聖武天皇のころ、飢饉(ききん)がつづいたり、貴族の反乱が起きたりします。

東大寺 盧舎那仏(るしゃなぶつ)像。国宝。世界遺産。
興福寺の阿修羅(あしゅら)像。国宝。

737年には病気の天然痘(てんねんとう)が流行り、多くの死者が出る。 740年には、九州で、貴族の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)による反乱も起きた。 政治が不安定になる。 また、人口が増えて公地公民が上手くいかなくなってきた。

聖武天皇は、仏教の力に、すがる。

まず聖武天皇は741年に、国ごとに 国分寺 (こくぶんじ)と 国分尼寺 (こくぶんにじ)を建てさせる。都には 東大寺 (とうだいじ)を建てさせた。

743年に、東大寺の本尊(ほんぞん)として大仏を作らせる。

東大寺の大仏は、盧遮那仏(るしゃなぶつ)という仏です。


行基(ぎょうき)という僧(そう)がいました。彼は、民衆のために用水の池や端をつくったりしながら、諸国をまわって教えをといていたので、民衆に、したわれていました。 しかし、朝廷は、はじめは、行基の行動をとりしまります。当時は、民衆への仏教の布教が禁止されていたし、寺の外での活動も禁止されています。 朝廷からは、おそらく行基は、民衆をそそのかす危険人物(きけんじんぶつ)だろう、と思われていたのです。


さて、大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、民衆の支持が必要でした。このため、民衆に慕われていた僧の行基(ぎょうき)の活動を認めます。

遣唐使と鑑真[編集]

(けんとうしとがんじん)
遣唐使船
遣唐使の航路。

中国大陸の帝国が唐にかわっても、かつての遣隋使(けんずいし)と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の 遣唐使(けんとうし) を送ります。

遣唐使は、奈良時代のあいだに6度ほど、派遣(はけん)されます。

のちの平安時代には遣唐使は廃止(はいし)されますが、奈良時代には、まだ遣唐使は廃止されてません。

717年に唐にわたった 阿倍仲麻呂(あべの なかまろ) や、仲麻呂と供に唐にわたったこともある 吉備真備(きびのまきび) が遣唐使として有名です。阿倍仲麻呂は、唐からの帰りの船で遭難(そうなん)してしまい、日本に帰れず、唐の役所に仕えることになって一生を終えました。

なお、最初の遣唐使として630年に唐に派遣された犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)は、最後の遣隋使(けんずいし)でもあります。

阿倍仲麻呂は、日本に帰ろうとして乗った船が難破(なんぱ)し、日本に帰れず、最終的に唐の皇帝(こうてい)に仕えることになります。

吉備真備は2回も唐にわたり、日本に帰れます。

  • 鑑真(がんじん)
鑑真 像。唐招提寺。(奈良県) 国宝。

日本の朝廷らは、唐の有名な僧(そう)の 鑑真(がんじん) に、日本でも仏教(ぶっきょう)をひろめてほしいと、鑑真を日本へ招き(まねき)ます。この招きを受け、鑑真は日本への渡航をおこないますが、5回も失敗し、6回目で日本に着きます。6回目で日本についたころには、鑑真は失明しています。

鑑真は、奈良に 唐招提寺(とうしょうだいじ) を開きました。

正倉院[編集]

(しょうそういん)
正倉院 正倉。 国宝。世界遺産。
校倉造(あぜくらつくり)。正倉院の宝物庫は、柱を用いずに、三角形の断面の木を組み合わせたつくりの校倉造(あぜくらつくり)で、つくられている。

東大寺にある 正倉院(しょうそういん) には、奈良時代の美術品や、聖武天皇が日用した道具などが収められています。

※ 有名な宝物で「螺鈿紫檀五絃琵琶」(らでんしたんごげんのびわ、図参照)や「瑠璃杯」(るりのつき)が保存されているのですが、ウィキペディアに画像がありません。外部サイトや参考書で、画像をお探しください。


宝物には、ギリシャやペルシャ、インドなどから運ばれてきたものもある。シルクロードという中国大陸からヨーロッパまでの貿易の通路を通ってきた宝物である。後世の言い方だが正倉院のことを「シルクロードの終着駅」とも例える。

(※ 赤漆文欟木御厨子〜蘇芳地金銀絵箱蓋は、おぼえなくて良い。)

書籍[編集]

  • 古事記、日本書紀

712年に『古事記』(こじき)という天皇家や貴族などにつたわる神話の時代をまとめた書が、できます。この『古事記』は、天武天皇により編纂が命じられ、712年に完成しました。

石見神楽(いわみ かぐら) スサノオがヤマタノオロチを退治しているところ。島根県。

『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が、暗記していた神話や歴史を、太安万侶(おおの やすまろ)が3巻の書にまとめた書です。

神話の時代から推古天皇にいたるまでの出来事が古事記に書かれています。


また、日本の歴史書および神話の『日本書紀』(にほん しょき)が720年に完成します。神話の時代の伝説から、7世紀末ごろの持統天皇にいたるまでの国家と天皇の歴史を書いた、歴史書と神話の混ざったような書です。

日本書紀の編纂は、時代順に出来事を書く編年体(へんねんたい)で記述しています。日本書紀は、舎人親王(とねり しんのう)らが、全30巻にまとめています。

古事記と日本書紀を合わせて、「記紀」(きき)と言います。この他、地方の産物や地理・伝説などをまとめた『風土記』(ふどき)も作られた。


文学では、和歌(わか)をまとめた『万葉集』(まんようしゅう)が759年ごろから編纂(へんさん)されます。貴族の作った和歌だけでなく、農民や防人などの様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。万葉集には全部で4500首あまりの歌が収録されています。

貴族の歌人では、飛鳥時代の柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ)や、奈良時代の大伴家持(おおともの やかもち)と同じく奈良時代の山上憶良(やまのうえの おくら)、奈良時代の山部赤人(やまべの あかひと)などが有名です。

万葉集の文字の読みは、万葉仮名(まんようがな)という、漢字の音で日本語を表す読みです。たとえば、次のような句を次のように読みます。


  • (万葉仮名文)去來子等(いざこども) 早日本邊(はやくやまとへ) 大伴乃(おおともの) 御津乃濱松(みつのはままつ) 待戀奴良武(まちこいぬらん) (※ おぼえなくて良い。)
 (訓)いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴(おおとも)の 御津(みつ)の浜松(はままつ) 待ち恋ひぬらむ(まちこいぬらん) 

(現代語訳) さあ、みんな 早くヤマトへ帰ろう 大伴の御津(みつ)の浜の松のように (家族も)帰りを待ち(=松とのシャレ)こがれているだろうよ

  • (万葉仮名文)可良己呂武(からころも) 須宗尓等里都伎(すそにとりつき) 奈苦古良乎(なくこらを) 意伎弖曽伎怒也(おきてそきぬや) 意母奈之尓志弖(おもなしにして)
 (訓)唐衣(からころも) 裾(すそ)に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母(おも)なしにして

(現代語訳) 唐衣の 裾に、すがって 泣きつく子どもたちを (防人に出るため)置いてきてしまったなあ、 母もいないのに