中学校社会 歴史/帝国主義の世界
帝国主義
[編集]欧米は産業革命などによって国力が高まり、軍事力も高まった。イギリスやフランス・アメリカなど、欧米の主要国は原材料や市場などを求めて、アジアやアフリカの侵略の競争に乗り出し、アジアやアフリカを植民地とした。
この時代の、植民地を獲得できるような強国のことを、「列強」(れっきょう)などと言います。
欧米の列強どうしは、植民地の獲得の競争によって、互いに対立していった。ときには植民地の獲得をめぐって、欧米の国どうしで戦争をする場合もあった。
このような、列強が植民地をめぐって争う時代や運動のことを、帝国主義(ていこくしゅぎ、imperialism [1])といいます。
また、ヨーロッパでは多くの国で、市民革命や産業革命などに伴う(ともなう)近代国家としての確立とともに、徴兵制を導入するようになっていったりして、そして各国で国民軍が設立されていきました。(※ 帝国書院の見解です。帝国書院の令和3年用デジタルパンフレットに記載あり。)
- (※ wiki注記: 中世ヨーロッパでは各地の封建諸侯に現地の騎士などが用心棒みたいに契約していた。その中世方式を取りやめ、国民軍の方式にするという事。)
列強の動向
[編集]- イギリスの動向
スエズ運河をイギリスが入手。(スエズ運河の位置は、アラビア半島とアフリカの付け根。)
イギリスはビルマ(現在のミャンマー)を支配した。
- アメリカによるハワイ王国の乗っ取り
アメリカはハワイを併合した。ハワイは、もともとは「ハワイ王国」という独立国だったが、白人によるクーデターによって、ハワイ王国を侵略して併合した。
また、アメリカは東アジアではフィリピンをめぐるスペインとの戦争の米西戦争(べいせいせんそう)に1898年に勝ち、アメリカはフィリピンを獲得した。
- ロシア
ロシアはシベリア鉄道の建設を進めた。また、太平洋岸に軍港を建設し、その軍港をウラジオストクと名づけた。「ウラジ・オストク」とは、ロシア語で「東方(=オストク)を支配(=ウラジ)する」という意味である。
このようにロシアは南下政策(なんか せいさく)を取った。
日本との条約改正
[編集]年 | おもなできごと |
1868 | 五箇条の御誓文(明治維新) |
1871 | 岩倉使節団が欧米を視察したさい、条約改正の交渉をしたが、失敗 |
1876 | 寺島宗則(てらしま むねのり)が交渉するが、イギリスなどの反対で失敗 |
1883 | (鹿鳴館を開き、舞踏会を行う) |
1879 〜87 |
井上馨(いのうえ かおる)が外国人裁判の任用などを案に交渉。 しかし外国人裁判官の任用に日本国民が反対し、失敗 |
1888 〜89 |
大隈重信が交渉。外国人裁判の任用を容認する。 しかし日本国民が外国人裁判官任用に反対し、大隈は襲撃される |
1889 | (大日本帝国憲法が発布) |
1894 | 陸奥宗光外相によって、イギリスとの間で治外法権の撤廃に成功 領事裁判権の廃止に成功する (日清戦争が起こる(〜1895)) |
1901 | (大津でロシア皇太子が斬られる (大津事件) ) |
1904 | (日露戦争が起こる(〜1905)) |
1911 | 小村寿太郎(こむら じゅたろう)が関税自主権の回復を達成 |
- ※ 「寺島宗則」(てらしま むねのり)や「井上馨」(いのうえ かおる)などは、一部の検定教科書で、年表中にのみ紹介されている。
イギリスはロシアの南下政策を警戒し、日本との条約改正の交渉に応じて、1894年に日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく)が結ばれる。理由はロシアの警戒。内容は治外法権の撤廃。(領事裁判権の撤廃) まだ日本の関税自主権は取り戻せていない。この条約改正の時期は、まだ日清戦争の前。この1894年のときの外相は陸奥宗光(むつ むねみつ)。
関税自主権の回復は、日露戦争後の1911年になる。
その他
[編集]ドイツやイタリアは、産業革命が遅れたので、イギリスやフランスに遅れて、植民地の獲得競争に乗り出した。
このような帝国主義の列強の植民地獲得競争によって、世界の多くの地域は、欧米のいずれかの国の領土あるいは植民地となっていった。
日本との条約改正までの経緯
[編集]- 鹿鳴館(ろくめいかん)
日本は外交交渉を有利にしようと、井上馨(いのうえ かおる)らの主唱する欧化政策(おうか せいさく)の一つとして、1883年には、東京に、洋風の建物の鹿鳴館(ろくめいかん)を建て、欧米人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなども、日々、ひらいてみたが、まったく条約改正は進まず、鹿鳴館は失敗した。国民や自由民権派などからは、ぜいたくな物として反発された。
- ノルマントン号事件(ノルマントンごう じけん)
1886年には、和歌山県の沖合い(おきあい)の海上で、イギリス船のノルマントン号(ごう)が沈没する事件が起きた。このとき、イギリス人船長らイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けなかった。日本人の乗客は、全員、死亡した。 この事件の裁判は、イギリス人の領事によって、日本国内で、おこなわれた。治外法権による領事裁判権にもとづき、イギリス人領事による裁判が、おこなわれたのである。
船長は軽い罪に問われただけで、日本人の多くは、これが日本への差別的な判決だと感じた。なお、船長は禁錮刑(きんこけい)3ヶ月になった。
この一連の事件をノルマントン号事件(ノルマントンごう じけん 、英語:Normanton Incident ノーマントン・インシデント)という。
この事件の判決をきっかけに、日本では、条約改正をしようという運動が強まっていったのであった。
そして、そのあと、1894年に、イギリスとの間で条約を改正し、1911年に各国とのあいだの日本の関税自主権の回復に成功したのである。
- ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for High School 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.308