中学校社会 歴史/平安時代

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平安時代[編集]

貴族がさかえた時代

平安京の羅城門(らじょうもん)の復元模型(京都文化博物館)
桓武天皇(かんむ てんのう)
唐(とう、※ 中国)の服装をしている様子が描かれています。

かつての天平文化の仏教保護の政策などにより、仏教の僧や寺院の影響力が強くなる。

のちの天皇や朝廷は、これらの仏教勢力を嫌がり、そのため、桓武天皇(かんむ てんのう)により、寺院の多い現在でいう奈良県から京都府へと都をうつす。まず784年に京都府の 長岡京(ながおかきょう) にうつす。さらに794年に京都府の 平安京(へいあんきょう) にうつす。

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奈良から平安京への寺院の移転は禁止されます。


他にも、社会の変化で、もはや、公地公民による昔(むかし)の政治が上手くいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだろう。

平安京に都を移してから約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を 平安時代(へいあんじだい) という。

くわしくいうと、後に1192年に武士である源頼朝が権力をにぎる鎌倉幕府(かまくら ばくふ)ができますが、794年から1192年までを平安時代と言うことが多い。

なお、平安時代より、あとの武士による政治の時代になっても、都は平安京のままです。明治時代に東京に都が移るまでは、平安京が日本の都でした。平安京のつくりは、唐の都である 長安(ちょうあん) を、参考(さんこう)にしています。

桓武天皇は、公地公民が上手くいかない理由の一つである、税負担の重さに改革の手をつけます。 税負担の重さを減らしました。雑徭(ぞうよう)の日数を60日から30日に減らします。6年ごとに見直してた区分田に支給を、12年ごとに変えました。

(※ 中学の範囲外:) また、国司に対する監督をきびしくするため、勘解由使(かげゆし)という役人を置きました。(※ 検定教科書では、単に「国司に対する監督をきびしくさせました」的なことだけが書いてあり、「勘解由使」(かげゆし)の用語は紹介してない。 ただし、自由社の教科書では、勘解由使(かげゆし)を紹介している。)

このころ、奴婢(ぬひ)の制度も、無くなっていきました。 また、農民を兵士にすることをやめ、郡司の子弟(してい)などから健児(こんでい)という兵士を選ぶようにしました。

また、桓武天皇の政権は、東北地方に支配を広げます。

東北地方の 蝦夷(えみし) とよばれる人々は朝廷の支配に反対し、たびたび反乱を起こしていました。朝廷は蝦夷の征服のため、 坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ) という人物を 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん) という役職(やくしょく)に任命し(797年)、彼に東北地方を平定させ、朝廷は東北地方に支配を広げました。

しかし、その後もたびたび、蝦夷の反乱は起きました。

蝦夷の族長はアテルイという人物で、アテルイの兵力と、対する田村麻呂らの朝廷軍との戦いです。 結果的に、田村麻呂の側が勝ちます。つまり朝廷の側が勝ちます。

アテルイは負け、802年に降伏(こうふく)します。アテルイは平安京に連行されたのち、京にて処刑されます。 田村麻呂は、アテルイの命を助けるよう減刑をもとめましたが、貴族たちの反対により、アテルイは処刑されました。

東北での戦争のさい、胆沢城(いさわじょう、場所は岩手県、築802年)が田村麻呂らにより築かれ、また多賀城(たがじょう、宮城県、築724年)、秋田城(あきたじょう、秋田県、築733年) なども朝廷軍の拠点になり、朝廷による東北支配の拠点になります。

仏教界の変化[編集]

最澄
空海

平安時代に入り、奈良時代の仏教とは、変化をした。天台宗(てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)という新しい宗派(しゅうは)ができ、それが広まった。奈良時代の仏教とはちがい、新しい平安時代の宗派は、山奥(やまおく)で修行(しゅぎょう)をしたりする仏教である。

僧の最澄(さいちょう)と僧の空海(くうかい)による、新しい仏教の考え方が広まった。おそらくは朝廷が、奈良時代の政治に深く介入した従来の仏教勢力をきらい、かわりに新しい宗派を保護したのだろう。

最澄も空海も、遣唐使と共に唐にわたり留学し、唐の新しい仏教の教えを学んできた僧である。

延暦寺(えんりゃくじ)。国宝。

最澄は805年に日本に帰国し、比叡山(ひえいざん、滋賀県にある。)に 延暦寺(えんりゃくじ) を建て、天台宗 (てんだいしゅう)をひろめた。最澄は伝教大師(でんきょうだいし)とも言われます。

空海は806年に帰国し、高野山(こうやさん、和歌山県にある。)に 金剛峯寺(こんごうぶじ) をたて、真言宗(しんごんしゅう)を広めた。空海は 弘法大師(こうぼうだいし)のことです。ことわざの「弘法も筆のあやまり」(こうぼうも ふでのあやまり)の弘法大師のことです。

比叡山と言い、高野山と言い、ともに山であることに注目もしよう。朝廷が仏教の政治介入をきらう事とも、つじつまがあう。

荘園(しょうえん)[編集]

奈良時代に墾田永年私財法により、開墾した土地の所有が認められるようになったので、貴族たちや寺社は農民らに開墾をさせ、貴族の所有する土地を広げていった。この貴族の所有する私有地が 荘園(しょうえん) である。

また、平安時代に、貴族や寺社の所有する荘園には税をおさめなくてもよいという、貴族につごうのいい権利が出来た。 税を収めない権利を不輸の権(ふゆのけん)と言い、荘園への役人の立ち入りを拒否(きょひ)できる権利を不入の権(ふにゅうのけん)といいます。 これら不輸不入の権もあり、貴族の荘園は、どんどんふえていき、朝廷の税収は減るので財政は悪化し、律令政治が上手くいかなくなります。

有力な貴族でない者の荘園は国司に取り上げられたり、他の豪族にうばわれることもあったので、そのような有力でない者は、朝廷の有力な貴族に、形式的だが荘園を寄付(きふ)した。これを寄進(きしん) という。 10世紀に入ると、班田収授は行われなくなり、公地公民は くずれていきます。

摂関政治(せっかんせいじ)[編集]

9世紀の中頃になると藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣鎌足のこと。)の子孫の一族の藤原氏(ふじわらし) が、権力を強めます。

藤原氏の一族は、代々、娘を天皇の妃(きさき)にしています。 すると、藤原氏は天皇の母方(ははかた)の親戚(しんせき)ということになるので、藤原家の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。

藤原道長(ふじわらの みちなが)

藤原氏の一族では、とくに11世紀の前半に 藤原道長(ふじわらの みちなが) と、道長の子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)らの親子が権力をにぎっていた時代が、もっとも勢力が、さかんでした。

道長が有名なので、よく、教科書などに道長が取り上げられますが、藤原氏の権力は、べつに11世紀に急に強まったわけではなく、9世紀ごろから藤原良房(ふじわらのよしふさ)が摂政になったりなど、すでに藤原氏の勢力が強かったです。皇族以外で摂政になったのは、良房が、はじめてです。

天皇が幼いときは、藤原氏の者が摂政(せっしょう)になり政治の実権(じっけん)を握り、天皇が成人しても藤原氏は関白(かんぱく)という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。このような摂政や関白として政治を行なうという政治の方法を 摂関政治(せっかん せいじ) といいます。

道長の読んだ歌で、つぎの歌があります。

「この世(よ)をば わが世(よ)とぞ思ふ(おもう) 望月(もちづき)の 欠けたる(かけたる)ことも なしと思へば(おもえば)」  (『小右記』(しょうゆうき)より )

意味は、「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(=満月)のように 何も足りないものはない」という意味です。この歌は、いわゆる「望月の歌」(もちづきのうた)として有名です。

藤原実資(ふじわら さねすけ)の日記。
寛永2年(1018年)、今日は道長さまの娘さまの威子(いし)女御(にょうご、女官の階級の一つ)が、中宮(ちゅうぐう)になられる日である。太閤(=道長)さまが私(=日記の作者。実資)を呼んで、こう申された。
「和歌を読もうと思う。君も必ず返事を読め。」と言われた。
私は返事をして「きっと返事を言いましょう。」と答えた。
つづけて、道長さまはこう言われた。「自慢の歌なのだよ。べつにあらかじめ作っておいた歌では無いがね。」と。
そして、言われた。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思わば。」と。
私は答えた。「とても優美な歌です。かえす歌も作れません。(道長以外の)みんなで、このお歌を唱和するのがよろしいでしょう。」と申し上げた。みんなも、私の言葉に応じ、この歌を唱和した。道長さまは、たいそう機嫌をよくして、返歌をしなかった私を責めなかった。
(『小右記』(しょうゆうき)より。藤原実資(さねすけ)の日記。抜粋、要約。)

摂関政治のころ、地方の行政は、国司に まかせられるようになりました。国司の中には、自分は現地に行かずに都にとどまり、代理人を送る者も、いました。 国司には、蓄えをふやそうと、税を厳しく取り立てる者もあり、農民などの不満は大きく、朝廷に国司の不正を訴えでる者もいました。


平安時代の文化[編集]

時代背景[編集]

  • 遣唐使の廃止

894年に、菅原道真(すがわらの みちざね)の進言により遣唐使が廃止されます。

:語呂合わせ:白紙(はくし、894)に戻そう 遣唐使
菅原道真(すがわらの みちざね)

遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、中国大陸で内乱が多く唐が弱っていること、船の遭難(そうなん)など死の危険が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、経済的な負担が大きい、などです。

この遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだん、中国大陸の文化の影響(えいきょう)が、うすれていきます。

かわりに日本独自の貴族文化が発展していきます。この平安時代に発展した日本独自の貴族文化を国風文化(こくふうぶんか) と言います。


なお、その後、菅原道真は藤原氏と対立し、901年には太宰府(だざいふ)に左遷されてしまいます。

漢字からひらがなへの変化
  • 大陸中国と朝鮮半島

唐は10世紀の始めごろに滅び、小国の争いをへて、(そう)が統一して、宋に王朝が変わります。中国と日本の、正式な国交は途絶えますが、商人などの交流や僧侶の留学はその後も続き、中国の文物も日本に入ってきました。同じ頃、朝鮮半島では高麗(こうらい、コリョ)が出来て、高麗が新羅(しらぎ、シルラ)を滅ぼしました。

国風文化[編集]

  • かな文字の発明

ひらがな や カタカナ などの かな文字が、平安時代に発明されます。 ひらがなは、漢字の形をくずして、発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。

カタカナの由来
紀貫之の『土佐日記』

この時代の当初(とうしょ)、ひらがなやカタカナは、女が用いる字であった。

(※ 発展 : )貴族の紀貫之(きの つらゆき)は男だが、名を隠し(かくし)、女を名乗り『土佐日記』(とさにっき)を書いた。日記の出だしの文章は「男もすなる日記というものを 女もしてみむとて するなり」と言った出だしです。

内容は、第三者のフリをして、国司(こくし)として、四国の土佐(とさ)に派遣されていた紀貫之のような経歴の人物のことを、書いた日記です。(※ 教育出版の教科書で『土佐日記』を紹介。)

※ 『土佐日記』について、くわしくは高校で習うので、中学生はムリに暗記しなくてよい。



かな文字をつかって、『古今和歌集』(こきん わかしゅう) や『竹取物語』(たけとり ものがたり) などが、この時代に書かれた。

『古今和歌集』は、紀貫之(きのつらゆき)という人物の編集による和歌集です。(醍醐天皇(だいごてんのう)の命令により、紀貫之らが『古今和歌集』を編集しました。)


源氏物語絵巻(げんじものがたり えまき)

文学の物語では、紫式部(むらさきしきぶ)によって『源氏物語』(げんじものがたり)が書かれました。

(※ 発展: )この『源氏物語』は、主人公は貴族の「光源氏」(ひかる げんじ)という人物で、光源氏を中心とした貴族の恋愛などを書いています。

なお、名前が後の幕府の「源氏」(げんじ)と似ていますが、光源氏は武士ではありません。源氏物語が出来た1007年ごろは、まだ鎌倉幕府はありません。

随筆(ずいひつ)では、清少納言(せい しょうなごん)が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。

紫式部も清少納言も、宮廷(きゅうてい)に仕える女官(にょかん/にょうかん)です。

鳥獣戯画の一部分

絵画では、日本の風景などを書いた 大和絵(やまとえ) が出てくる。寝殿造りの屋敷の屏風(びょうぶ)や ふすま などに大和絵が描かれた。絵巻物などにも大和絵は描かれた。

(※ 発展: )大和絵の作品では、鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)や源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)などが有名です。

(※ 中学社会科の教科書には書いてないが、しかし中学美術で鳥獣戯画を習う。『源氏物語絵巻』については、検定教科書では、源氏物語といっしょに紹介している。)

鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)は、当時の社会を風刺するために、蛙や猿、うさぎなどの動物たちを擬人的に描いて表現した絵です。

大和絵にも、「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)が、描かれました。「源氏物語絵巻」は、紫式部の『源氏物語』の内容を、絵画を使って表したものです。


  • その他の文化
典型的な寝殿造である東三条殿の復元模型(京都文化博物館)
1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 中門廊(ちゅうもんろう)、9. 釣殿(つりどの)
江戸時代の束帯(阿部正弘)
五衣唐衣裳(俗称 十二単)(京都御所にて)

平安時代には、貴族の衣服の正装(せいそう・・・正式な服のこと)が変わり、男の貴族の服は 束帯(そくたい) になり、女の貴族の服は 十二単(じゅうにひとえ) になります。

貴族の住居の形が 寝殿造(しんでんづくり) になる。

浄土(じょうど)の信仰[編集]

空也の像 (六波羅蜜寺) 

平安時代の中ごろは、伝染病が流行ったり、災害が起きたりしたので、社会の不安が大きくなった。このため、宗教では、人々に安心を与える宗教が、平安時代の半ばごろから流行るようになる。

阿弥陀如来像 (平等院・鳳凰堂)。像の現物は金色。

浄土教という信仰が流行るようになる。阿弥陀如来(あみだにょらい)にすがり、念仏(ねんぶつ)を唱えていれば、死後には、極楽浄土へ行ける、という信仰である。

浄土教を布教した人物では、空也(くうや)という人物が有名である。空也(生:903年〜没:972年)は、10世紀中ごろ、諸国をまわり、庶民に浄土教を布教していた。「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)という念仏を唱えるとよい、と空也は民衆たちに広めたという。人が集まる市(いち)で布教していたことから、空也は、市聖(いちのひじり)とも呼ばれます。

仏教の教えによると、1052年は釈迦が死んでから2000年後ということらしく、死後1000年ともなると釈迦の教えがおとろえて世の中が悪くなるという思想があり、この思想は 末法(まっぽう) と言われた。この末法思想もあって、浄土信仰は広まっていった。

中尊寺金色堂。外側の覆堂(おおいどう)。中尊寺金色堂は、世界遺産および国宝になっている。 岩手県 平泉(ひらいずみ)市
中尊寺金色堂の内部。白黒写真。実際の仏像の色は金色。

地方にも浄土教がひろまり、各地に阿弥陀仏をまつる寺院である 阿弥陀堂(あみだどう) がたてられた。たとえば岩手県の平泉(ひらいずみ)には 中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)という阿弥陀堂 が建てられた。大分県に富貴寺大堂(ふきじおおどう)が、たてられた。

人々の不安もあって、仏教では、念仏(ねんぶつ)を唱えて阿弥陀仏(あみだぶつ)さえ信じさえすれば救われるという内容の浄土教(じょうどきょう)が流行りました。

平等院 鳳凰堂

京都の宇治(うじ)にある平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)は、この時代に建てられました。十円玉に描かれている建物は、平等院鳳凰堂の絵です。

10円

平等院鳳凰堂のなかにも、阿弥陀像(あみだぞう)があります。平等院鳳凰堂も阿弥陀堂です。


平安時代の武士たち[編集]

平安時代には、地方の豪族や有力農民たちは私有地を広げていったのであった。9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力をたくわえていった。一族の者や、手下の農民たちに武装させるようになった。

このようにして、武士(ぶし)が、できていった。

武士たちは、一族の かしら を棟梁(とうりょう)として、それぞれの一族ごとに武士団(ぶしだん)を結成していった。

貴族の中にも、これにならい、武士団をつくり棟梁となって兵を指揮する者が、地方貴族から出てきた。源氏や平氏などが、そのような貴族の武士である。

源氏も平氏も天皇の子孫です。

武士の中には、朝廷に対して反乱を起こす者も出てきました。


  • 平将門(たいらの まさかど)による反乱

10世紀の935年に、平将門(たいらの まさかど)が反乱を関東地方で起こしました。朝廷は、ほかの武士の助けを借りて、将門の反乱を鎮圧します。

将門(まさかど)の首塚(くびつか)。東京都 千代田区(ちよだく) 大手町(おおてまち)。


将門は、常陸(ひたち)の国府をおそい、周辺の国府もしたがえて、自分たちで国司を任命し、京都の朝廷とは別に自分たちの朝廷をつくろうとします。平将門は「新皇」(しんのう)をなのりました。しかし、鎮圧されました。

  • 藤原純友(ふじわらの すみとも)による反乱

939年には、藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱を瀬戸内海の周辺で起こし、海賊らを率いて反乱を起こします。朝廷は、ほかの武士の助けを借りて、反乱を鎮圧します。

朝廷の力だけでは、この2つの反乱をしずめることはできず、ほかの武士の協力をえる必要があり、これらの反乱により武士の影響力が増すことになった。

この2つの反乱のことを、起きた年の年号をとり 承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう の らん) と言う。

  • 東北地方での反乱

11世紀の1051年には東北地方で反乱が起き、安倍頼時らが反乱を起こした。この反乱の鎮圧を、源氏である源頼義(みなもとのよりよし)および源義家(みなもとの よしいえ)らの兵が鎮圧した。この反乱と鎮圧のできごとを 前九年の役(ぜんくねん の えき) と言う。 1051年から1062年まで続いた。源氏が鎮圧を行ったので、関東地方では源氏の影響力が強まった。

また1083年にも反乱が起き、源氏らが鎮圧した。1083年から1087年まで争乱がつづき、この争乱を 後三年の役(ごさんねんのえき) と言う。

中尊寺金色堂の内部。白黒写真。実際の仏像の色は金色。

また、後三年の役で勝利した源氏の側についた藤原清衡(ふじわらの きよひら)の一族の奥州藤原氏(おうしゅう ふじわらし)の勢力が広まった。中尊寺金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)は、藤原清衡が建てさせた阿弥陀堂(あみだどう)である。