中学校社会 歴史/弥生時代

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課題[編集]

この時代の人々の生活は縄文時代からどのように変化したのだろう。

稲作のはじまりは人々にどのような影響を与えたのだろう。

稲作と金属器の伝来[編集]

紀元前4世紀ごろから、稲作が、大陸や朝鮮半島から、西日本へと伝わった。そして稲作は西日本から東日本へと広がっていったというものが定説。
いっぽう、実は縄文時代に稲作が伝わっていたという説もある( (※ 範囲外)「縄文稲作」説または「縄文農耕」説 )。

どちらの説にせよ、紀元前4世紀ごろには、すでに日本に稲作が伝わっており、日本人は水田を耕作しはじめた。稲だけでなく、麦やクリなども栽培していた。 ただし、北海道と沖縄には、稲作は伝わらず、北海道と沖縄では、それぞれ独自の文化ができた。

青銅器や鉄器も、紀元前4世紀ごろに、中国(大陸のほうの中国。)や朝鮮から日本へと伝わっている。

物だけでなく、人間も大陸(中国)や朝鮮半島から、多くの人が、九州などに やってきたと思われている。遺跡から発見された人骨などの特徴から、大陸や朝鮮半島の人々と近い特徴の人骨が見つかっている。

このような中国や朝鮮からやってきた人たちと ともに、稲作や青銅器などの技術も伝わったと思われています。

弥生時代のくらし[編集]

弥生土器(やよい どき)
愛知県 名古屋市 熱田区 高蔵町熱田貝塚出土 重要文化財(東京国立博物館蔵)
弥生土器
東京都 大田区 の 久が原 で出土。(東京国立博物館所蔵)
  • 弥生土器(やよい どき)

縄文土器とはちがう、新しい土器が見つかっており、縄文土器より、うすくて、かたい。また色が褐色(かっしょく)である。高温で土を焼ける技術が発達したため、このような、うすめの土器が作れるようになった。縄目(なわめ)は無く、表面は なめらかである。このような土器の名を、最初に発見された場所の東京都 文京区(ぶんきょうく) 弥生町(やよいちょう)から、この土器を弥生土器(やよい どき)という。

また、弥生土器の発見される地層が、縄文土器の地層よりも新しい地層であることが多いことから、時代の順序が分かる。

このころの時代を 弥生時代(やよいじだい) という。この弥生土器の発掘されたものには、よく、米や籾(もみ)がついており、この土器の時代に稲作が始まっていたことが分かる。

  • 弥生土器の製法
(社会科の範囲では無いので、覚えなくても良い。)

まず、弥生土器は、縄文土器にくらべて明るく褐色で、うすくて かたい。このような色調や器肉の厚さの違いは、縄文土器が焼成時にまさしく器面を露出させた野焼き(のやき)をするのに対し、弥生土器ではワラや土などをかぶせる「覆い焼き」(おおいやき)を用いたことに由来する。このために焼成温度が一定に保たれて縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと思われる。こういった焼成技法は、土器の焼成前の赤彩(縄文土器は焼成後に赤彩)といっしょに九州北部で発生したと推察されるが、九州から関東まで時期差があり、弥生土器の出現が東に行くにしたがって遅くなることと関係が深いと思われる。また強度を増すためにつなぎ(混和材)として砂を用いたために、器面に大粒の砂が露出しているのがみられることがある。


  • 石包丁(いしぼうちょう)。

石包丁は、イネの穂先を刈り取るのに、使われたと思われている。

  • 高床倉庫(たかゆか そうこ)

イネを保管するための、高床倉庫(たかゆか そうこ)の遺跡も、発見されている。 ねずみや湿気をふせぐために、高くしてあり、柱にはネズミよけの返しがついている。


  • 農具

農具には、木製の鋤(すき)や鍬(くわ)を作って、使っていたと思われています。

  • 青銅器
絵のある銅鐸(どうたく)。香川県出土(東京国立博物館蔵、国宝)
左下に、うす と きね を用いた作業の絵がある。右下は高床倉庫の絵。右上は弓矢で動物を射る絵。

青銅器や鉄器が、中国(大陸のほうの中国。)や朝鮮から伝わっている。 銅鏡(どうきょう)、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)、銅鐸(どうたく)などの青銅器がある。

※ 名前は「銅剣」、「銅矛」、「銅鐸」だが、材質は純粋な銅ではなく、青銅であるのが普通(※ 参考文献: 高校の山川出版の日本史Bの用語集)。

発見された銅鐸に、うす や きね を用いた作業の様子を ほった絵がある。このことからも、稲作が行われていることがわかる。この銅鐸の絵には、他にも、高床倉庫の絵、動物を弓矢で射っている絵がある。

青銅器の多くは、おもに、いのり の道具に使われていたと思われています。 豊作などを、祈っていたと思われています。

  • 鉄器

鉄器は、工具や武具、農具など実用品に用いられた。


農具や工具や武具には、石器や木器もあわせて、もちいられた。 以上のような弥生時代は、紀元前4世紀ごろから、紀元3世紀ごろまでのあいだ、約700年間ほど続く。

国々の誕生[編集]

稲作など農業で、人口が増える。農地に必要な土地や水などの配分をめぐって、村と村との間で、争い(あらそい)が増えた。

吉野ケ里遺跡,遠景。 佐賀県。

佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがり いせき)から、争いのあとが見つかっている。吉野ヶ里遺跡は、集落のまわりに、柵(さく)や濠(ほり)の有る集落であり、しかも矢が刺さった人骨が見つかっており、 物見やぐら も、ある。

なお、柵(さく)や濠(ほり)で囲まれた集落のことを、環壕集落(かんごう しゅうらく)という。吉野ヶ里遺跡は、環壕集落の代表例でもある。

中国(漢)の歴史書によると、紀元前1世紀ごろには、倭人(わじん、日本人のこと)が100あまりの小国を作っていた、という。(『漢書』(かんじょ)による。) 漢での日本国の呼び名は、中国の歴史書では、「」(わ)と記されており、日本人のことを「倭人」(わじん)と記している。

のちの時代の日本で、「倭」の代わりに「和」という漢字が当てられる。「倭」という文字には「まかせる」と受け取れる意味があったり( 「委任」(いにん)の「委」に字が近い。 )、小さいことを意味する「矮小」(わいしょう)の「矮」(わい)に近く、のちの時代の日本が嫌がったためである。すくなくとも752年(天平勝宝4年)ごろから日本のことを言う時に「和」という名称を用いている。 現代の日本で、日本風のことを「和風」と言ったりするときの「和」の語源は、この「倭」である。

いっぽう日本の、この時代には、文字を持っていなかったので、中国の歴史書が、現代での弥生時代の歴史研究でも手がかりになっている


金印(きんいん)。漢委奴国王印。 国宝。福岡県の志賀島(しかのしま)で発見された。(福岡市博物館蔵。1辺は2.3cm、重さは109g。材質は金。福岡県の志賀島(しかのしま)で1784年(江戸時代)に出土。)
金印の印文。「漢委奴国王」と刻まれている。

また、別の歴史書の『後漢書』(ごかんじょ)の東夷伝(とういでん)という部分によると、1世紀半ばに、倭(わ)の奴国(なこく、現在の福岡県あたり)のが、漢に使いを送り、皇帝から金印(きんいん)などをあたえられたという。

金印の実物は、江戸時代に発見されている。江戸時代に、現在で言う福岡県の志賀島(しかのしま)で、1784年に発見され、金印には文字が刻まれており、「漢委奴国王」(かんのわのなのくに)と、漢字が刻まれている。


『後漢書』の「後漢」というのは、漢の王朝は、いったん、途絶えたが復活したので、いったん途絶える前の漢を「前漢」(ぜんかん)といい、復活したあとの時代の漢のことを「後漢」(ごかん)という。


「奴国王」という言い方から分かるるように、日本の各地に「国」があり、「王」に当たる階級があったことが分かる。つまり、この時代の日本には、すでに階級があって、人々どうしの貧富の差も大きかったと考えられている。

その後の時代の様子からも、すでにこの弥生時代の日本に「王」に当たる特権階級が出来ていたと思われている。

中国の三国時代[編集]

三国時代・要図(262年)

漢(中国)では西暦184年から民衆の反乱である 黄巾の乱(こうきんの らん) により、漢は従えていた諸国の軍勢を動員した。黄巾の乱は平定されたが、諸国の軍勢の権力が強まり、これによって諸国の軍事力なしでは漢は政治ができなくなり、諸国どうしが中国の支配をめぐって争い、長い戦乱の時代が始まり、後漢はおとろえた。 漢の王朝は220年まで残っていたが、190年ごろから、実質的に中国は戦乱の時代になっており、多くの国々に別れて戦争をしていたが、220年ごろには、(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の3カ国に集約されていった。それぞれの3国が、べつべつの皇帝を立てていた。220年ごろから280年ごろの中国の時代を三国時代(さんごく じだい)という。184年の黄巾の乱から280年までを三国時代にふくめる場合も有る。

最終的に、中国で三国を統一する国は、魏のながれをくむ「晋」(しん)という王朝である。

邪馬台国(やまたいこく)[編集]

中国の歴史書『三国志』のうちの、魏についての歴史書の『魏志』(ぎし)に、倭人についての記述である倭人伝(わじんでん)によると、3世紀の始めごろの日本では、小国どうしの争いが多かったが、30か国ほどの小国が小国どうしの共同の女王として、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)という女王を立てて連合し、日本の戦乱がおさまったという。卑弥呼は、30か国ほどの国をしたがえたという。邪馬台国の卑弥呼は、239年に魏に使者をおくり、魏の皇帝から、「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号をもらい、また金印と、銅鏡100枚をもらったことが、倭人伝に記されている。

邪馬台国の位置が、どこにあったのかは、現在でも不明である。学説では、近畿説と九州説が、有力な説である。

この時代の日本には、階級が奴隷から王まで、あったことが、倭人伝の記述から分かっている。

  • 倭人伝の内容

魏志倭人伝には、つぎのようなことが書かれている。(抜粋)

『魏志』倭人伝より、邪馬台国について。
倭人の国は、多くの国に分かれている。使者が調べたところ、今のところ、30あまりの国である。
【卑弥呼について】
倭国は、もともと男の王が治めていたが、戦乱が長く続いたので、諸国が共同して一人の女子を王にした。その女王の名を卑弥呼という。卑弥呼は、鬼道(「きどう」、まじない のこと)で政治を行っている。卑弥呼は成人しているが、夫はおらず、弟が政治を助けている。王位についてからの卑弥呼を見た者は少なく、1000人の召使いをやとっており、宮殿の奥にこもる。卑弥呼の宮殿には、物見やぐら や柵が儲けられており、厳重に守られており、番人が武器を持って守衛している。
卑弥呼が死んだとき、直径100歩あまりの大きな墓がつくられ、奴隷100人がともに葬られた。
【風習について】
男たちは、いれずみをしている。服は、幅の広い布をまとっており、ほとんど縫われていない。女は髪を後ろで結い、服は布の中央に穴をあけ、頭を通して着ている。
稲と紵麻(からむし)を植えている。桑(くわ)と蚕(かいこ)を育てており、糸を紡いで糸を作っている。土地は温暖であり、冬も夏も野菜を食べ、はだしで暮らしている。
下戸(げこ、民衆)が大人(たいじん、権力者)と出会うと、下戸は草むらに後ずさりして、道をゆずる。また下戸が大人に言葉を伝えたりするときは、ひざまずき、両手を地面につける。
(『魏志』倭人伝。抜粋、要約。 上述の説明では、節の順序を入れ替えしてある(教育的な順番にした)。卑弥呼についての節と、風習についての節の順番を入れ替えてある。)