中学校社会 歴史/戦後の日本の再建

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アメリカ占領下の日本[編集]

アメリカ大使館でのダグラス・マッカーサー(左側の人物)と昭和天皇(右側)(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)
物価高騰による闇市

1945年8月に日本が降伏し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に占領されます。 アメリカの占領目的は、日本がアメリカの脅威にならないように、日本の体制を作りかえることだったが、表向きの目的として、日本の「民主化」(みんしゅか)をかかげた。

日本政府は、終戦しても、のこったが、その上にアメリカ軍の 連合国軍総司令部(れんごうこくぐん そうしれいぶ)であるGHQジー・エイチ・キュー、General Headquarters ゼネラル・ヘッドクォーターズ の略)が日本政府に命令するという、政治のしくみになった。

ただし、沖縄や奄美(あまみ)や小笠原諸島(おがさわら しょとう)では、アメリカが直接、統治するしくみになった。


GHQの最高司令官はマッカーサーというアメリカ軍人であった。

占領政策は、まずポツダム宣言にもとづき、日本軍を解散させた。

東京裁判[編集]

パール判事の肖像画(靖国神社内、顕彰碑)

戦争を指導した人間は、戦争犯罪人(せんそうはんざいにん)として、「裁判」にかけられて、東条英機など7名が死刑になった。

この戦争指導者をさばいた裁判を東京裁判(とうきょうさいばん)あるいは極東国際軍事裁判(きょくとう こくさい ぐんじさいばん)と言う。

だが、東京裁判は「裁判」とは言うものの、裁かれたのは敗戦国がおこなった行為だけであり、アメリカやソビエトなどの戦勝国のおこなった民間人殺害などの戦争犯罪については裁かれなかった。アメリカ軍による東京大空襲などの空襲や、原爆投下などは、東京裁判では、まったく、裁かれなかった。 ソ連の満州侵攻による民間人への攻撃なども、まったく東京裁判では裁かれなかった。

また、「戦争犯罪人」とさせられた日本人は、じゅうぶんな弁護を受けられず死刑にされ、実際には裁判とは名ばかりの戦勝国による敗戦国指導者の処刑のための手続きであった。


東京裁判の判事は、連合国を中心としたいくつかの国から出された。裁判とは名ばかりの東京裁判の方針を批判する判事もいた。インド連邦のパール判事は「この裁判は、国際法から見ると問題がある。」というような内容の少数意見書を出し、パール判事は被告人を無罪とする意見をのべた。だが、東京裁判の法定では、パール判事の意見が読み上げられることはなかった。

パールは『パール判決書』の中で、

   「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」

と記述している、また

  『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう。』

と記述している。


パールは、連合国を批判するいっぽうで、日本の戦争犯罪も批判した。南京事件については「この物語のすべてを受け入れる事は困難である」と、検察の提示した十数万から数十万もの証言や証拠に強い疑問を言った。ただし、パールは「宣伝(せんでん)と誇張(こちょう)をできるかぎり斟酌(しんしゃく、 意味:意図をくみとること。 )しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜(ふりょ)に対し犯したものであるという証拠は、圧倒的である」と、日本軍による犯罪行為その物は存在したと判断している。

連合国の判事の中にも、少数だがパール判事の見解に賛成する者がいた。オランダのベルト・レーリンク判事も、パール判事を支持した。

なお、サンフランシスコ講和条約の規定により、日本政府は主権回復と引き換えに東京裁判を受け入れる事に同意し国際条約として締結されました。その為、後の占領終了後に日本政府は東京裁判の判決を引きつづき受け入れています。また、現在(2015年)の日本政府も、東京裁判の判決を受けいれています。

戦後の改革と日本国憲法[編集]

当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での日本国憲法の三原則を表した挿し絵。
当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での戦争放棄の原則を表した挿し絵。


日本国憲法[編集]

憲法の比較
大日本帝国憲法 日本国憲法
 君主の定める欽定(きんてい)憲法 制定の形式  国民が定める民定(みんてい)憲法
 天皇主権 主権  国民主権
 神聖不可侵で統治権をもつ 天皇  日本国・国民統合の象徴 
 天皇の統帥権。国民の兵役。 軍隊  「戦争放棄」(名目) 
 天皇の同意機関 国会  唯一の立法機関 


1946年には、あたらしい憲法の日本国憲法(にほんこく けんぽう)が交付された。 この日本国憲法はGHQがつくった憲法案を、ほとんどそのまま議会が採択したものである。

この新憲法の日本国憲法では、 国民主権(こくみんしゅけん) ・ 基本的人権の尊重 (きほんてきじんけん の そんちょう)・ 平和主義(へいわしゅぎ) の3つの原則が掲げられた。


天皇は政治の主権者でなくなった。日本国民の統合の象徴になった。戦後の主権者は日本国民である。(戦後の天皇は、国の元首でもある。)

民法[編集]

民法の比較 (家族法の部分)
旧民法(1898年施行) 新民法(1948年施行)
 長男への相続 相続  均分相続
 戸主の同意が必要 婚姻(こんいん)  良性の合意のみ

また、民法も改正され、父親の権限が強かった家制度の廃止がされた。家庭においては、男女の法的な権利は対等に変わった。夫と妻の法的な権利も対等。また、長男を優遇するような決まりも、なくなった。相続では兄弟姉妹が均分に相続することになった。

政治犯の解放[編集]

戦時中に政治犯として捕まっていた人などは釈放されるなどして、表向きは、アメリカの占領による言論の自由が、かかげられた。

戦前や戦中は規制を受けていたり禁止された政治運動や政治団体も、合法化した。

北海道アイヌ協会も再建。部落解放同盟も再建。日本共産党が合法化された。

占領軍による言論規制[編集]

だが一方で、アメリカに不都合な主張は検閲(けんえつ)され、また戦時中の戦争指導者を養護(ようご)するような主張も検閲(けんえつ)された。

つまり、言論の自由や出版の自由などは表向きには保証されたが、実際はアメリカなど連合国に不都合な言論については弾圧された。

国家主義者の団体を見なされた団体など、連合国にとって不都合な団体は解散させられた。


戦前や戦争中の日本の外国への軍事行動を「侵略」と批判する主張は許可されても、いっぽうでイギリスやフランスなどの東南アジアやアフリカなどでの植民地支配を批判するような主張はほとんど許可されなかった。

このような占領の方針により、「戦前の日本は、まったく民主的では、なかった」というようなまちがった主張が、第二次大戦後の日本では、強まることになる。 (実際には、明治憲法は、当時としては民主的な憲法であった。また、戦前にも普通選挙はあった。戦前から選挙制度があったにも関わらず、日本国民の多くは、戦争の道義的な責任を、指導者に、なすりつけた。) また、戦前の日本の立場について、少しでも擁護したり、戦勝国の言い分に反論を述べると、まわりの日本人から「軍国主義者」などと批判されるような時代が、戦争が終わっても40年くらい、つづいた。


改革[編集]

女性代議士が誕生した

もっとも、実際に、民主的な政策も、占領下の改革では行われた。 たとえば、以下のような改革が行われた。

・ 治安維持法の廃止。特高警察(とっこうけいさつ、「特別高等警察」の略称)の廃止。
・ 選挙権を拡大し、女性もふくむ、20才以上の男女に選挙権を与えた。(男子普通選挙は、戦前から、ある。)
・ 国会などに立候補する被選挙権も女性に拡大され、1946年の選挙では、女性代議士も当選した。
・ 地方自治の長は、選挙によって決まることに変わった。

他にも、占領軍が、この政策は民主化である、と考えた政策が実行された。 たとえば、

・ 農地改革 
「農地解放」(のうちかいほう)などと称して、農業の地主から土地の多くを取り上げ、その土地を小作人(こさくにん)に与えられた。このため、小作人の数よりも自作農(じさくのう)が多くなった。占領軍は、農業の地主と小作人の関係を封建的な関係と思ったようで、その封建的な関係が、軍国主義を助長した、と考えたようである。この農地解放は、政治的には、日本国民からの人気の多い政策だった。
・ 国会では貴族院が廃止され、国会議員はすべて国民からの選挙で選ばれるようになり、また議院は衆議院(しゅうぎいん)と参議院(さんぎいん)の二院制になった。


  • 「経済の民主化」
・ 財閥解体(ざいばつ かいたい)
占領軍は、日本の財閥(三井・三菱・住友など)について、戦前に財閥が経済を支配しており、そして財閥による経済支配で戦争の総動員体制に協力したと考えた。なので、「経済の民主化」などと称して、財閥が複数の会社に分割させられた。(※ 財閥名の「三井」「三菱」などについては、特定の企業名なので、中学の範囲外。なので、暗記しなくていい。ただし、高校の教科書では、こういう企業名も紹介される。)


なお、実際の戦前の昭和期には、財閥を敵視する軍国主義者などの勢力が政権をにぎっていったので、「財閥が経済を支配したから、戦争になった」というような考えは、どうなんでしょうか? 明治期の日本は輸出品として生糸などを欧米に輸出していたが、アメリカは、どこの国から生糸を輸入したんでしょうか?

・ 労働組合が認められるようになった。労働組合法労働基準法が制定された。


  • 「教育の民主化」
・ 軍国主義的と思われる教育が禁止された。一般の学校での軍事教練なども禁止された。
・ 教育勅語(きょういく ちょくご)の廃止により、教育の反・国家主義化が行われた。

そのほか、教育に関しては、学校の教育期間の制度は六・三・三・四制に変わった。(小学が6年、中学が3年、高校が3年、大学が4年。)

義務教育が小学校6年・中学校3年の、9年間の義務教育になった。義務教育の期間が、それまでの6年間から、9年に延長された。戦後の義務教育は小学校で6年間、中学校で3年間である。

高校は義務教育ではない。

また、教育基本法や学校教育法が定められた。

教科書は国定教科書が廃止され、複数の民間の教科書会社が著作して、国が検定する制度に変わった。


範囲外: 背景事情[編集]

農地改革の真相[編集]

農地改革の結果は、皮肉なことに、その後の時代の農業では機械化が進んでいったこともあり、大きな農地のほうが生産が有利になっていく。いっぽう、農地解放で小さな土地しかもたない農民がふえたことで、農業の生産性が低下した。(参考文献: ウィキペディア記事『w:農地改革』)

また、じつは、農地改革は戦前から日本政府の改革派の政治家や改革派の官僚(「革新官僚」)が考えていた政策であった。真相は、日本政府が占領軍の権威をもちいて農地改革を実行しただけだった。また、おそらく占領軍の本音は、(ロシア革命のような)社会主義革命が占領地の日本で起きることを防ぎたかったのだろう(せっかく占領した日本で、反アメリカの革命が起きてしまっては、元も子も無い。)。

※ 「官僚」(かんりょう)とは、政策決定に影響を与えるほどの上級の公務員のこと。

また、日本政府としても、革命がもし起きてソ連が介入を口実に侵攻してきたら、東西ドイツや朝鮮半島のように日本が二分割されかねず、よって革命の発生は絶対に避けたいだろう。

また、農地改革の背景事情を、このように社会主義勢力の封じ込めと考えると、財閥解体もまた社会主義勢力の封じ込めだと合点が行く。

労働組合法や労働基準法の制定もまた、本音は社会主義勢力の封じ込めだと考えると、納得が行く。