中学校社会 歴史/日中戦争
概要
1937年に
満州事変以降、日本との関係が悪化し始めていたアメリカやイギリスなどが反発し、中国を援助する政策を取ったこともあり、戦争は長期化する。
戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また「
(※ 範囲外 )昭和の戦後教育のデマ注意 |
戦後(第二次世界大戦後)の昭和の時代の中学高校の世界史教育では、今では勘違いだが、かつて「日本が中国を侵略していたとき、中国軍はほとんど近代兵器を武装していなかった」と中学校で教えられたと言われている[要出典]。 だが、これは間違いであると、21世紀の世界史研究で明らかになっている。 じっさいの中国はアメリカ・イギリスなどから高水準の武器の支援を受け、中国軍は欧米の戦車も持っているという、中国はなかなかの軍事強国の水準でもあった。また、このため、日本軍がなかなか苦戦をしいられた戦場もある。 |
日中戦争
盧溝橋事件
1937年7月7日と8日に、
もし日本が宣戦布告をすると、日本は中立国アメリカからの輸入をできなくなったり、資金調達のための国債 (国の借金) を引き受けてもらえなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語を用いて「北支事変」と呼称したが、事変といえど、北支事変は事実上の戦争であり、この北支事変が
範囲外:最初に誰が発砲したか |
盧溝橋事件で、最初に誰が発砲したかには、多くの説がある。 中国の国民党軍による警備上の発砲を日本側が攻撃と勘違いしたという説もあれば、中国軍が意図的に日本軍をねらって しかし、真相はいまだ不明である。 |
日本軍は1937年8月に上海へ「上海地区に居る日本人の保護」を目的として派兵を行った。この戦闘を第二次上海事変と言う。あるいは、上海戦とも言う。
南京攻略戦

上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。日本軍には、「南京を攻略すれば中国に勝てる」という考え (中国一撃論) があった。しかし、国民党の支配者であった蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は継続された。
12月の南京攻略の際、日本軍により、住民など非戦闘員 (戦いに携わらない人) を含め、かなりの人々が殺害された。この1937年12月から1938年2月の南京で日本軍が多くの南京市民を殺害したとされる事件を 南京事件 と言う[5]。南京大
南京事件について
真偽や実情は今でも不確定であり、研究者などが研究中だ。日本政府は、国民に対し特に南京での住民の殺害の有無についての一切を語ることは無かった。そのため戦後になって
備考
この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。
アメリカ・イギリスは、フランス領インドシナから、物資を国民党に援助していた。一方でソビエトは、おもに中国共産党を援助した。
日本の戦時体制
1938年、国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人を (政府が) 動かせるように、
1940年には、
その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは
-
「ぜいたくは敵だ!」
-
「進め一億火の玉だ」
- (※ 範囲外? : )なお、「進め一億火の玉だ」などの標語があるが、戦争中の当時の日本本土の人口は7000万人程度である。日本の人口が1億人を超えたのは第二次世界大戦の終わった後の時代。
庶民たちは10戸ごとにまとめられ、「 |
もし、このような統制的な風潮に反対すると、「
植民地での戦時体制
朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える
脚注
- ^ もっとも、数日前に首都を移転(遷都)し、裕福な家や政権の関係者はいなくなっていた。
- ^ 1発の銃弾から始まったのだが、はたして誰が発砲したかについては不明である。
- ^ 現地では、ひとまず7月11日に現地の軍の間で停戦協定が結ばれた。だが、25日、26日に中国軍が日本軍を攻撃する事件(廊坊事件・広安門事件)が起きたため、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていくのだが、中学生でそこまで知っておく必要はないだろう。
- ^ 現在の中華人民共和国を造った政党。
- ^ 同名の「南京事件」が1913年や1927年にもあるが、この1913年や1927年の南京事件とは別の事件である。