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中学校社会 歴史/日清戦争

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

東学党の乱(とうがくとう の らん)

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朝鮮では、開国に伴う改革の負担などは、農民に押し付けられた。税は重税になり、農民は貧困になった。このような状況によって、朝鮮の政権や開国への不満が農民たちに高まり、大規模な反乱が1894年に起きた。

減税や、腐敗した役人の追放や、日本をふくむ外国の排除を求める反乱である、甲午農民戦争(こうご のうみん せんそう)が1894年に起きたのである。

この反乱を起こした農民たちの多くが、「東学」という宗教団体を信じていたので、この反乱を、東学党の乱(とうがくとうの らん)とも言う。キリスト教を「西学」(せいがく)としており、その西学に関して、東洋の伝統的な価値観を「東学」と、いっていた。


反乱は大規模であり、いっぽう朝鮮政府はわずかな兵力しか持っていなかったので、清に鎮圧のための軍の派遣をたのんだ。

日本も、事前の天津条約(てんしん じょうやく)による清との取り決めにしたがって、朝鮮半島に反乱鎮圧や居留民(きょりゅうみん)の保護などのための日本軍を出兵した。

日清戦争

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1894年に起きた甲午農民戦争の反乱はすぐにおさまったが、日本・清の両国とも朝鮮から兵をひかなかった。 日本・清の両国とも、朝鮮での自国の影響力が弱まることをおそれたのである。 やがて両国は対立が深まっていき、同1894年に豊島(ブンド)沖で日本艦隊と清国艦隊が交戦したのをきっかけに、同1894年に日本は清に宣戦布告を行い、ついに日本と清との戦争が起きた。


日清戦争のころの風刺画(ふうしが)。フランス人のビゴー筆。「魚釣り遊び」「魚つりの会」(Une partie de pêche
魚(=朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア

こうして日清戦争(にっしんせんそう)が1894年に始まった。 日清戦争で争いあった国は日本と清であるが、両国が手にいれようとしたのは朝鮮半島の支配権であり、戦場になった場所も朝鮮半島およびその周辺の地域・海域である。

戦争は、日本の勝利で翌年1895年に終わった。

清は軍事力の高い強国だと思われていたのですが、戦争が始まってみると、陸戦でも海戦でも日本の勝利でした。 日清戦争の前の清は「眠れる獅子」(ねむれる しし)と諸外国から恐れられていました。獅子とはライオンのことです。

※ 検定教科書では、あまり触れられないが、じつはこの頃は清国の軍隊も近代的な兵器の導入をけっこう進めており(欧米から兵器を購入したりしていた)、清国も軍備の近代化をすすめていた(しかし国の政治の民主化などは進めていない)。 ※ 日清戦争についての よくある誤解で、「清国に近代兵器が無かった」(×)的な誤解がときどきある。(※過去の日本の昭和の小学校あたりで、そういう教え方をしていた時代もあった。) 
日清戦争の話題にもどると、勝敗をわけた要因の分析の興味もあってか軍事史の分野では、清国が近代化していたにもかかわらず、結果は(比較的に)日本のほぼ圧勝だったという結果になったのが、軍事史などでも興味をもたれている。なので副教材などの問題集とかの日清戦争の項目の説明文もよく読むと、「近代的な軍備にまさる日本は日清戦争に勝利し」みたいな書きかたで説明されている。けっして、「清国の軍隊は近代化してない」(×)とは書かれていないので、清国の軍備の状態を誤解しないように。)


辮髪(べんぱつ)

この日清戦争のあと、中国大陸では、清の民族(みんぞく)である満州族(まんしゅうぞく)に対する反発が、だんだんと強まっていきます。じつは、もともと、中国では満州族に対する不満が大きかったのです。清の王朝は、満州族の王朝でした。満州族が、漢民族(かんみんぞく)などのおさめていた中国を侵略してつくった王朝が清(しん)です。満州族は、漢民族を支配しました。

漢民族たちは、満州族の支配を、不満に感じていました。 満州族は、自分たちの風習を漢民族にも、むりやり、やらせました。たとえば満州族の男は、髪型が辮髪(べんぱつ)という、髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編み(みつあみ)にし、後ろにたらした髪型なのですが、漢民族の男にも、これをやらせました。ほかにも、いろんなことで、漢民族は、満州族のやりかたに、したがわせられました。


なので、日清戦争は、民族で見れば、日本人と満州族との戦争です。

下関条約

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遼東半島の位置
下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権

1895年、日清戦争の講和条約として、首相の伊藤博文や外務大臣の陸奥宗光を代表者として、下関条約(しものせきじょうやく)が日本と清とで結ばれた。内容は、以下の通り。

・ 清は、朝鮮の独立を認めること。
・ 遼東半島(リャオトン半島)を日本にゆずる。
・ 台湾(たいわん)を日本にゆずる。
・ 清は、賠償金の2億両(2億テール)を払う。(日本円に換算して3億円ほど。なお当時の日本の財政収入の約3倍の金額であった。)

以上が、下関条約の主な内容である。

朝鮮が清の属国でなくなり、朝鮮が独立国となったこともあって、朝鮮は国名を「大韓帝国」(だいかん ていこく)に1897年に変更しました。朝鮮国王も皇帝を名乗った。 「大韓帝国」の3文字目が「帝」であることに注意してください。

これによって、古代から東アジアでつづいていた、中国を諸国の最高権力として周辺国を属国と見る朝貢体制(ちょうこう たいせい)は、完全に、くずれました。

(※ 中学の範囲外? : )なお、朝貢体制が崩れ始めたの時期は、けっして日清戦争の直後からではない。アヘン戦争で中国が負けた時点で、すでに朝貢体制は危機をむかえたわけである。(※ 山川出版の大人用の教材『もういちど読む』シリーズの世界史(日本史だったか?)にある論説。)


また、台湾が日本領になった。第二次大戦で日本が戦争に負ける1945年(昭和20年)まで、台湾は日本領である。

日清戦争後の台湾の領有によって、日本が台湾の統治を行い、日本の投資や開発によって台湾の近代化は行われていく。

日本は、清からの多額の賠償金をもとに、産業開発の投資や軍備の増強を行った。八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)は、このときに建設されたものである。

台湾の農業発展に活躍した八田與一
当時、かんがい設備が不十分だった台湾の嘉南平野(かなんへいや)にある田畑は常に干ばつの危険にさらされていました。そこで、日本統治時代の台湾に置かれた台湾総督府(たいわんそうとくふ)の技師だった八田與一(はったよいち)は、烏山頭(うさんとう)ダムをはじめとする嘉南用水路(かなんようすいろ)をつくり、干ばつの危険がある田畑から、台湾最大規模の穀倉地帯(こくそうちたい)[1]に変えました。
  • 賠償金の使いみち
賠償金の使いみち

総額 約3億6千万円 のうち、

海軍拡張費: 38.6 %
陸軍拡張費: 15.7 %

つまり、

軍備拡張費の合計: 62.7 %
その他の臨時軍事費: 21.9 %
皇室財産: 5.5 %
教育基金: 2.8 %
災害準備基金: 2.8 %
その他: 4.4 %

以上、賠償金の使いみち。

三国干渉(さんごく かんしょう)

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ロシアは、日本の勢力が中国にのびることで、ロシアに日本の勢力が近づくことをおそれました。 ロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本に遼東半島を清に返させる要求を出すように、日本に要求をだします。

(※参考: この時代のドイツは、清国海軍の主力軍艦の定遠(ていえん)がドイツ製のフルカン造船製であったことからも分かるように、ドイツは清に協力的でした。ちなみに日本海軍の軍艦の生産国については、イギリスのアームストロング社に注文して作ってもらった軍艦「浪速」(なにわ)や軍艦「高千穂」(たかちほ)などを日本は持っていました。 (※ 軍艦名や企業名などについては、おぼえなくて良い) )

この、ロシア・ドイツ・フランスによる、遼東(リャオトン)半島を清国へと返させる要求を、三国干渉(さんごく かんしょう、 英:Triple Intervention)と言います。

日本は、三国干渉の要求にしたがい、しかたなく清国に遼東半島を返します。


この三国干渉にかんして、日本国内ではロシアに対する反発から、「臥薪嘗胆」(がしん しょうたん)という言葉が流行した。「臥薪嘗胆」の意味は、復讐(ふくしゅう)のために、がまんすること、と言う意味である。
臥薪嘗胆とは、中国の古い故事(こじ)に由来する熟語(じゅくご)で、漢字の意味は、
薪(たきぎ)の上で寝ることの痛みで屈辱(くつじょく)を思い出し、(= 臥薪)
にがい胆(きも)を嘗(な)めることで、屈辱を忘れないようにする(嘗胆)、ということである。

ロシアへの対抗心が当時の日本では盛り上がった。

  1. ^ 穀物が多く作られ、食べる量を大きく上回る地域のことです。