中学校社会 歴史/明治日本の北海道と沖縄

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北海道および沖縄[編集]

北海道[編集]

復元された、1873-1879年の開拓使本庁舎 。(北海道開拓の村)。
開拓使の旗(通称「北辰旗」、現在の北海道旗は、このデザインを基にしている)

1869年(明治2年)に、政府は蝦夷地(えぞち)を「北海道」(ほっかいどう)と改めた。 また、開拓使(かいたくし)という役所を置いた。開拓史は官営工場の運営や、鉱山の開発などを行い、また北海道の開拓のため、日本各地から移住者をつのって、北海道に移住させた。

北海道の開発に伴い、先住民のアイヌは従来の土地を失った。また、政府はアイヌに対して同化政策を行い、アイヌの風習の多くは否定されていった。アイヌの人びとは、日本語の使用や、日本風の姓名を名乗ることを義務づけられました。

北海道での農地の開墾・開拓のついでに防備の仕事をする屯田兵(とんでんへい)として、士族を北海道に移住させた。

クラーク。「少年よ、大志をいだけ」(Boys, be ambitious)の格言で有名。札幌農学校の初代教頭を勤めた。
黒田清隆(くろだ きよたか)。開拓使の長官。この黒田の開拓時代に、クラークを日本に招きいれた。

札幌農学校(さっぽろ のうがっこう、今の北海道大学)を設立し、(いわゆる「お雇い外国人」の)クラークの指導の下、北海道の農業にアメリカ式の農業を取り入れた。しかし、北海道以外では、アメリカ式の農法は、あまり取り入れられなかった。

樺太については、 1875年にロシアとの間で、樺太・千島交換条約(からふと・ちしま こうかんじょうやく)が結ばれ、樺太はロシア領と決定し、千島は日本領と決定した。


※ 参考
(※ 検定教科書にもある)

1899年、政府は、アイヌの生活などを保護する名目で、「北海道旧土人保護法」(ほっかいどう きゅうどじん ほごほう)(※ 法律名)を制定した。(※ 注意: 旧来の「土人保護法」ではなく、「旧土人」(アイヌのこと)の「保護法」のこと。)

そして政府は、農業を希望するアイヌ人に、農地を与えた(※ 参考文献: 清水書院、自由社など)。また、契約に不慣れなアイヌ人を守るために、相続以外の土地の取引を、この法律(北海道旧土人保護法)で禁止した(※ 参考文献: 東京書籍のコラムの欄外の表、自由社など)。

また、アイヌの人々だけが通う学校もできた。

第二次大戦後、日本全体の社会保障や福祉政策が整備され、農地改革などにより(※ 自由社の教科書)、アイヌに対する特別な施策は行われなくなった(※ 参考文献: 東京書籍、自由社など)。


1997年、アイヌ文化振興法が制定された。アイヌ語やアイヌ舞踊の伝統が振興されることとなった。また、アイヌ文化振興法の制定にともない、北海道旧土人保護法は廃止された。

2008年、日本の衆参両議院で、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致(ぜんかいいっち)で採択(さいたく)された。



(※ 範囲外: ) アイヌ語は禁止されていない
※ ときどき世間では、入墨などの風習の禁止令と、日本語教育の強制が混同され、『アイヌ語禁止令』のような法令があったと誤解する人がいるので、気をつけよう。

ネットなどをみると、しばしば、「明治時代、アイヌ語が禁止された」という俗説がある。

しかし、それを裏付けるような「アイヌ語禁止令」みたいなものの存在は知られていない。

※ たとえば、ネットで「アイヌ語禁止令」とグーグル検索しても、西暦何年にそれが出されたとか、一切、検索結果には出ません。

もちろん明治時代、一般のアイヌの子供には日本語の学習は強制されました。(なお、そもそも伝統的なアイヌ語に文字が無い。「アイヌ文字」と言うのは無い。)

むしろ、明治時代になると、和人の言語学者がアイヌ語を研究対象にし始めます。金田一京助(言語学者)などのアイヌ語研究も有名です。w:金田一京助


現代では、一部の人権団体・公共団体みたいな組織や、書籍などを出している評論家が、「アイヌ語禁止令」とか著作内で言ってたりしますが、しかしその禁止令は歴史学的には知られていません。

※ ただし、当時は本州ですら、方言を軽視していた時代だったので(今とは違い、一般大衆における言語文化の保護の観点は薄かった)、結果的にアイヌ語への差別が存在していた可能性はありうる。


なお、歴史文書などで確認されている、同化政策によりアイヌが禁止された出来事は、

農耕をさせるための狩猟の制限のほか、
文明開化の観点から、女性の入れ墨、男性の耳輪(イヤリング)、病気の家を焼くこと、酋長の妾(めかけ)の人数の制限(※ 妾とは愛人、正妻でない第二・第三の妻のこと)、

などです。(※ 検定落ちだが、自由社(教科書出版社)の検定不合格本が、女性の入れ墨禁止令、男性の耳輪、酋長の妾の制限、などに触れている。)自由社だ けでなく、日本学術会議の論文 『報告 アイヌ政策のあり方と国民的理解』、3ページ目などにも同様の、アイヌの風習の禁止令の記載がある。



(※ 範囲外: )アイヌ語の衰退の経緯

アイヌ語の衰退について、近年の研究によると、じつはアイヌ語が急速に衰退した時期は、大正・昭和戦前の時代から、らしいという学説もある。明治時代は、学校では教えられないものの、北海道のアイヌ社会ではアイヌ語が存続していたらしい。(※ 参考文献: ネット上のPDF論文: 『アイヌ民族の文化復興と教育に関する研究 言語復興と歴史教育におけるエンパワーメント』40ページ目。リンクすると何故かwikiがエラーになるので、非リンク。)

どうやら結局のところ、少数民族の言語というのは、単にその言語を話す権利を与えるだけでは不十分のようである。少数民族の文化は、積極的に保護をしないと、少数民族の言語は経済的な事情などにより急速に淘汰されてしまい消失してしまいやすい、という、歴史的にたびたび見られる現象のようである。

たとえば経済政策において、自由放任が必ずしも労働者の保護につながらないので適切な規制が必要な場合もあるように、どうやらアイヌ語も明治政府~昭和の過剰な自由放任によって、アイヌ語が衰退してしまったような側面もあるようである。

似たような事は、少数民族といった異民族の文化だけにかぎらず、一国内の一つの民族内の少数派の文化でも、少数派の文化は経済的な事情により淘汰されてしまい衰退・消失・途絶などをしてしまう現象は、よく起きる現象である。(※ 参考 『アイヌ語の衰退と復興に関する一考察』




沖縄[編集]

尚泰(しょうたい)。 最後の琉球国王になった。

1871年に、清と日本国との間で、日清修好条規(にっしん しゅうこうじょうき)が結ばれ、国交が開かれた。

琉球(りゅうきゅう)は、江戸時代には薩摩藩に事実上は支配されていた。しかし、形式的には、琉球は清にも朝貢する外交を行っていた。

このため、琉球や台湾の所属の問題で、日本政府は清と、たびたび対立していた。

なお台湾に流れ着いた琉球の人々が、台湾で先住民に殺害される事件が置き、これを口実に日本政府は1874年に台湾出兵(たいわん しゅっぺい)をした。清から賠償金を取った。

廃藩置県(1871年)のあと、1872年に政府は琉球藩(りゅうきゅうはん)を置いた。廃藩置県の方針に従い、1879年に琉球の藩を廃止し、沖縄県を設置した。これを琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)という。

学校教育をすぐに導入したが、租税制度などの行政はすぐには変えなかった。

(※ 参考:) 1895年には尖閣諸島(せんかくしょとう)も日本領として編入された。(※ 指導要領の改訂で、尖閣についても扱うことになった。)


その他の地域[編集]

1876年ごろ、日本政府は、小笠原列島は日本領であると宣言した。国際的社会は、日本の小笠原所有を認めた。

(※ 参考:) 1905年、島根県の竹島(たけしま)も日本領になった。