中学校社会 歴史/明治時代のはじまり

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明治維新[編集]

戊辰戦争のころ、新政府は大名などに対して政治の方針をしめすため、五箇条の御誓文(ごかじょう の ごせいもん)を、明治天皇(めいじてんのう)より出させた。

内容は、現代風に訳すと・・・

 五箇条の御誓文(抜粋)

・政治は、会議で広く意見を聞いて政治を行う。
原文 :広く(ひろく)会議(かいぎ)を興し(おこし)、万機公論(ばんき こうろん)に決す(けっす)べし。
・身分の上下によらず、みんなで心を合わせて、政治や仕事を行っていく。
原文 :上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
・みんなの願いを実現するようにしよう。
原文 :官武(かんぶ)一途(いっと)庶民にいたるまで、おのおのその志(こころざし)を遂げ(とげ)、人心(じんしん)をして倦(う)まざらしめんことを要す。
・昔からの、わるいしきたりは、やめよう。
原文 :旧来(きゅうらい)の陋習(ろうしゅう)を破り、天地(てんち)の公道(こうどう)に基づく(もとづく)べし。
・知識を外国からも学んでいって、日本国を発展させていこう。
原文 :智識(ちしき)を世界に求め、大いに(おおいに)皇基(こうき)を振起(しんき)すべし。

このように、あたらしい日本の政治では、なるべく日本国民みんなで政治を行おう、という政治を行う方針であることを、大名などに示した(しめした)。

明治天皇(めいじ てんのう)

庶民に向けては五榜の掲示(ごぼうのけいじ)を出したが、内容はキリスト教を禁止したり、一揆を禁止したりと、江戸時代と変わらない内容であった。キリスト教の禁止については、外国からの反発により、1873年には解禁になった。

五榜の掲示の原文は、長いので原文紹介は省略する。


1868年、新政府は「江戸」(えど)の地名を「東京」(とうきょう)に改めた。年号を「明治」(めいじ)に、あらためた。1869年に、新政府は東京を首都にした。明治天皇は京都から東京にうつった。

年号が明治の時代を明治時代(めいじ じだい)という。 幕末から明治時代はじめごろに行われる一連の改革を明治維新(めいじ いしん)という。


江戸幕府が無くなったあとも、藩の領地は大名がおさめつづけていた。新政府は1869年に、大名のおさめていた藩の領地を国の領地にさせた。これを版籍奉還(はんせきほうかん)という。

1871年には、明治政府は、藩をやめさせて、かわりに県・府をおきました。府知事(ふちじ)や県令(けんれい)には政府の任命した人間がつきました。

これを廃藩置県(はいはん ちけん)と言います。


江戸時代の身分制度はなくなり、農民や町民は平民になりました。平民は、江戸時代とは違い、職業や済む場所は変われるようになりました。苗字を平民も持てるようになりました。

武士は士族(しぞく)と変わりました。公家と大名は華族(かぞく)となりました。

また、えた・ひにんなどの差別をされていた人たちも平民としてあつかう、解放令(かいほうれい)が出された。


武士は、江戸時代に持っていた特権を失いました。

岩倉使節団[編集]

左から木戸孝允、山口尚芳(やまぐち なおよし)、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通
同行した女子留学生たち。 使節団には60人ほどの留学生が同行した。そのうち、5人の女子留学生がいた。写真は、そのときの女子留学生たち。 のちに「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する津田梅子(つだ うめこ)は、右から2番目の、白い服の幼い少女。

1871年に、不平等条約の改正の交渉のため、岩倉具視(いわくら ともみ)を大使(たいし)とした使節団が欧米に送られた。( 岩倉使節団(いわくらしせつだん) ) 使節団には木戸孝允(きどたかよし)・大久保利通(おおくぼ としみち)・伊藤博文(いとう ひろぶみ)などの政府の首脳たちも、使節団として同行した。 しかし、条約改正は出来なかった。欧米は、日本の法律が不十分なことや、日本の国力が弱いことなどを口実に、日本からの条約改正の要求には応じなかった。

かわりに使節団は、同行した留学生らと共に、欧米の政治などの制度を視察・調査したり、文化などを見学したり、工場などを視察してから、日本に帰国した。

政府の首脳たちが直接に欧米を視察して、日本政府は欧米の国力を知ることになった。