中学校社会 歴史/明治維新の改革

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軍制の改革[編集]

政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年(明治6年)に徴兵令(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年の間、兵士になる兵役(へいえき)の義務を課した。この徴兵制は、江戸時代の武士だけに軍事が独占されていた時代とちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされた。

江戸時代は、武器を持てるのは武士だけの特権だった。このため、徴兵制によって軍事の特権のなくなった士族からは不満があった。また、農村などの平民からも、労働力をうばわれるので、農村からの不満があった。

(※ 範囲外: ) 新政府の徴兵制の主導者は、江戸時代の武士のような個人的な武芸にたよる戦闘では、近代的な兵器をあやつる戦争では勝てないことを知っていて、このため徴兵制を導入した。

ただし、徴兵制には、当初は免除規定がいくつかあって、一家の主(あるじ)や、長男や、徴兵のかわりに代金を払った者などは徴兵を免除された。だが、のちに免除規定は廃止され1889年には、ほぼ全ての20才以上男子が徴兵された。


地租改正(ちそかいせい)[編集]

地券(ちけん)。土地の所有を保証するための保証書として、このような証明書を発行し、土地の所有権を認めた。

江戸時代の税は米など農産物であり、農作物の不作・凶作などによって税の収入がへるので、政府にとっては不安定な制度であった。 このため、政府は税の制度をあらため、地主に現金で税をおさめさせるようにしました。この改革を地租改正(ちそ かいせい)といい、1873年から行われました。 土地にかかる税の金額は、土地の値段の3%と決められ、この地価の3%を土地の税である「地租」(ちそ)として地主が現金ではらう制度になりました。土地の値段を「地価」(ちか)と言います。つまり、地主のおさめる地租(ちそ)の金額は、地価(ちか)の3%の金額になりました。

この制度の前提として、土地を個人が所有できるように、土地の制度が、すでに改正されていました。また、農地に、何を作付けするかは、農地の所有者の自由になっていました。

この改正の結果、地域によっては税の負担が増えた地域もあり、一揆が起きた地域もあった。のちの1877年には地租の税率(ぜいりつ)が引き下げられ、3%から2.5%へと税率が引き下げられました。

教育[編集]

開治学校(かいち がっこう)。1876年に建てられた小学校。西洋建築と和風建築とが交じりあった構造になっている。 長野県、松本市。

1872年(明治5年)に、義務教育をすべての児童に受けさせる目的のため、学制(がくせい)を公布した。学制の内容は、6才以上の男女に義務教育を受けさせるという内容であった。 しかし、学校の建設費の負担や授業料の負担は地元の人に負わされ、負担が大きいので反発があり、また当時の子供は働き手であったので労働力を取られることからも反発があった。 このような理由で就学率(しゅうがくりつ)は低く、実際に学校に通ったのは、一部の子であった。 (就学率とは、学校に通っている者の割合のこと。)

明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%の就学率になっていった。


義務教育の制度は、欧米を手本にした制度であり、主にフランスを手本にしている。フランスの制度が、日本にあわない部分もあったので、のちにアメリカの教育制度を取り入れた教育令(きょういくれい)を1879年に出した。

  • (覚えなくて良い。中学高校の範囲外。)

フランスでの義務教育の始めの歴史について言えば、フランス革命が1789年に起きたことが、義務教育のきっかけであった。革命によって民主化したフランスは、周辺国の民主化していない国からは危険な国と思われており対立していた。フランスはドイツなどの周辺国と戦うために、軍を発展させる必要があり、そのためには工業の発展や、国民の教育が必要であった。

工業を発展させるにも教育を受けた学力の高い労働者が多く必要である。また、軍隊を近代化させるにも、もしも兵士が読み書きをできないと、軍の近代化が出来ない。

このようにして教育を受けたフランスの軍はとても強く、また国家に対する忠誠心も高かった。周辺の国の兵士は領主や国王のための戦争をさせられていたが、いっぽうのフランス兵は自らの国を守るために戦争に行った。フランスと戦争をした周辺国のドイツなどは、勇敢(ゆうかん)なフランス軍に苦戦をした。

フランス以外の国にも以前から教育制度はあったが、戦争でのフランスの強さを知り、周辺のヨーロッパ諸国の教育でもフランスを手本に教育を改革していった。

明治政府の指導者たちは、このような教育の歴史を知っており、日本の近代化のため、フランスを手本にしたのであろう。


  • 参考(覚えなくて良い。中学高校の範囲外。)

学校の教科に関して言えば、理科が教えられるようになった。『小学人身窮理』(しょうがく じんしん きゅうり)などの教科書が使われた。(江戸時代の子供への教育は「読み・書き・そろばん」だった。)「窮理」(きゅうり)とは自然法則を学ぼう、という意味である。

また、算数の教育が始まり、漢数字をもちいていた和算にかわり、現在の小学校の算数でならうようなアラビア数字をもちいた洋算(ようさん)が始まった。『筆算題叢』(ひっさんだいそう)などの教科書が使われた。

外国の歴史や地理についても教えられるようになり、ヨーロッパの歴史や地理についても教え始め、教科書として『万国地誌略』(ばんこくちしりゃく)や『万国史略』(ばんこくしりゃく)などの教科書が作られ始めた。

図画などの美術などの教育も始まり、『小学普通画学本』(しょうがっこう つうがどくほん)が使われた。

体育や家庭科などの教科も作られ、それらの教科書が作られた。

殖産興業[編集]

  • 官営工場(かんえい こうじょう)
当時の富岡製糸場(とみおか せいしじょう)

工業の近代化も必要であった。 政府みずから経営する官営(かんえい)の工場を建てた。機械は外国から買った。工場労働者を育成する技師は、外国から、よんできた。 群馬県の富岡製糸場(とみおか せいしじょう)が、官営の工場として有名。富岡製糸場では、フランスから技師を、まねいた。富岡製糸場の働き手には、女子が全国から、あつめられた。

このような政府の経営する工場を、官営工場(かんえい こうじょう)と言う。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させたので、官営模範工場(かんえい もはんこうじょう)とも言う。「模範」(もはん)とは手本という言う意味。