中学校社会 歴史/検定教科書で紹介されているコラム的話題など

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

日本のマンガ・アニメ史など[編集]

※ 帝国書院、東京書籍、育鵬社、自由社が戦後のマンガ文化などを紹介。
  • 戦後の漫画ブーム

日本では第二次大戦後、子供たちを中心にマンガ本を読む趣味が普及した。

特に手塚治虫(てづか おさむ)が、人気の漫画家だった。

また、1950年代には週刊誌のブームが起きたので、マンガ週刊誌も創刊されていった。(なお女性誌なども、この頃に多く創刊された。)


戦後昭和のマンガとアニメ[編集]

※ 東京書籍、清水書院の教科書などで、昭和史や近代文化史などとして、これらの話題を取り扱っている。

20世紀後半の日本では、マンガが流行した。では、そのような近現代的な日本のマンガが、いつごろ出来たのだろう。

1920年ごろには、すでに日本でコマ割り形式の国産マンガが存在しており、それらの作品をまとめて「漫画」(まんが)と呼ばれていた。(※ 清水書院の検定教科書の話題)

※ 清水書院といい東京書籍といい、アメリカン・コミックスの存在をガン無視である。(※ リンク先はウィキペディア。) 著作権の関係で紹介するのがムズカシイのかもしれんが。いわゆる「コマ割り」や「吹き出し(フキダシ)」(セリフの入るアレ)のある漫画は、当然、けっして日本の発明ではなく、おそらくアメリカなど欧米諸国の発明だろう。

(範囲内→: ) 「漫画」という言葉じたいは、江戸時代の葛飾北斎(かつしか ほくさい)の発表した画集で『北斎漫画』(ほくさい まんが)という作品がすでにある。(※ 清水書院の教科書で紹介。) (※ 範囲外→:) しかし、北斎漫画はスケッチ集である。どうも江戸時代の「漫画」という言葉はスケッチという意味らしく、けっして『北斎漫画』に、コマ割りなどフキダシがあるわけではない。

なお、清水書院は、鳥獣戯画(ちょうじゅう ぎが)などをマンガの源流として紹介してるが、もちろん、けっして鳥獣戯画でコマ割りやフキダシがあるわけではない。現代のマンガのスタイルにつながる、コマ割りやフキダシなどのある、あの形式のマンガが日本人の作品で登場するのは、あくまでも1900〜1920年ごろだろう。

※ 鳥獣戯画がテストに出て来るかもしれない。なぜなら、鳥獣戯画が美術科目で美術史として出てきて、美術教科書では、現代マンガにもある、いくつかのデフォルメ手法が鳥獣戯画などで古くからある事が紹介される。小学校国語でも、ある教科書出版社の国語教科書でアニメーターの高畑勲(たかはた いさお)による鳥獣戯画に関する評論がでてくる。だからといって、けっして鳥獣戯画が、(コマ割りもあってフキダシなどもある)現代マンガだと勘違いしないように。


また、1942年(昭和22年)には、すでに手塚治虫(てづか おさむ)がマンガ家として活動していた。 手塚治虫などが、マンガで、ストーリー性を重視した作品をつくった。また、漫画にアニメーション的ななめらかでスピード感のある手法を積極的に取り入れた。(清水書院が、そう言っている)

※ 手塚は、アメリカのディズニー映画を参考にしていたはず。なので、手塚のアニメーション的手法の元ネタは、おそらくディズニー。

なお、手塚作品『鉄腕アトム』が初めてアニメ化されたのは1963年である。手塚が漫画家になってから、かなり後の出来事である。

日本製のアニメ自体は、1963年の鉄腕アトム以前にも存在している。(※ 検定教科書の範囲外)


『桃太郎 海の神兵』(ももたろう、うみのしんぺい)
『桃太郎 海の神兵』の桃太郎

たとえば太平洋戦争中に、戦意高揚(せんい こうよう)の目的で、『桃太郎 海の神兵』(ももたろう、うみのしんぺい)というアニメが作成された。(帝国書院の検定教科書で紹介。) 桃太郎らしき人物が、動物たちとともに、アメリカ兵とたたかう長編アニメである。

※ 世間には、勘違いして「手塚が日本初のアニメを作った」などと思ってる人も、時々いる。もちろん、単なる勘違いである。「日本初かもしれない長編テレビアニメ番組」(鉄腕アトムがそうかも)と、「日本初のアニメ」を、混同してるのである。映像実験用の短編アニメや、数秒ていどのコマーシャルアニメなどをふくめれば、『鉄腕アトム』以前にもテレビアニメは存在している。

『鉄腕アトム』の放映以降、日本のテレビ番組ではアニメ作品がしだいに増えていった。(東京書籍が、そう言っている)

※ なお教科書会社の把握しているアニメ史としては、日本の戦後アニメ史については、教科書会社は『白蛇伝』(はくじゃでん、 日本では初めての長編アニメ映画)まで把握してるが(社会科でない副教科の教科書に書かれている)、しかし歴史教育としては中学レベルを超えた専門的な話題になるので説明は省略する。

さて、太平洋戦争が終わったあと、1946年に長谷川町子(はせがわまちこ)のマンガ『サザエさん』が発表された。

これは、日本の戦後における、都市のサラリーマン一家の中流家庭の生活を描いた作品である。(清水書院が、そう言っている)

※ つまり、サザエ一家は、けっして地方の家庭ではないし、農村の家庭でもない。
※ 世間では、『サザエさん』に描かれた家庭像を、てっきり「日本の一般的な家庭像」を描いた作品と勘違いしてる人が多い。もともと、都市住まいをできる裕福な家庭を描いた作品であり、しかも終戦直後の1946年の時点でサザエの夫や父が事務系サラリーマンに就職できる家庭、つまり高学歴と思われる家庭(サザエ一家の父親・夫たちは、農民でなく、工場労働者でもなく、中小商社系のサラリーマンである)、などの条件を満たす家族の生活をえがいた作品である。連載開始の時点では、やや裕福な家庭像を、作者は描いていたのである。その後、日本経済が高度経済成長によって、所得水準が増え、また、「マスオ」(サザエの夫の名前)的なサラリーマン世帯が増えたので、結果的にサザエ一家が、平均的な家庭像と近くなったのである。

『サザエさん』はもともと、朝日新聞に掲載されていた4コマ漫画である。

戦前のマンガ[編集]

手塚以前にも当然、他のマンガ家がいて、マンガ作品もあった。

1930年代、擬人的なイヌが軍隊で活躍する『のらくろ』シリーズが、流行していた。


紙芝居[編集]

現代では、すたれてしまったが、紙芝居(かみしばい)が流行ってた時代がある。

戦後、流行した『黄金バット』は、もともと紙芝居である。『黄金バット』は紙芝居が原作であり、のちにマンガ化およびアニメ化をされたのである。


戦後の文化[編集]

映画「羅生門」のポスター
芥川龍之介原作の『藪の中』(やぶのなか)を1950年に映画化した。黒澤明(くろさわ あきら)監督作品。1951年度のヴェネツィア国際映画祭でグランプリ受賞。
※ じつは中学の検定教科書では、あまり戦後の文化について、取り扱っていない教科書出版社が多い。コラムなどで、わずかに取り扱っているだけである。

終戦後しばらくのあいだは、日本の主要なメディアは、戦前と同様にラジオ・新聞・映画・書籍が主要なメディアだった。(テレビの本放送は1953年から。またテレビが普及したのは、もっと後の高度経済成長の頃から。)

終戦直後のころは、歌謡界では『りんごの歌』が流行していたという。


戦後の映画界では、黒澤明(くろさわ あきら)の映画が評判だった。黒澤の作品の『羅生門』(らしょうもん)は、ベネチア映画祭でグランプリを受賞した。


また、特殊撮影(とくしゅさつえい)映画の怪獣映画『ゴジラ』が1954年に公開され、作中で水爆実験をテーマに扱っており、話題になった。


科学の世界では1949年、湯川秀樹(ゆかわ ひでき)が日本人として初めてのノーベル物理学賞を受賞して話題になった。


小説では、大衆小説の分野では1950年代から松本清張(まつもと せいちょう)の社会派推理小説が人気になり、1960年代に司馬遼太郎(しば りょうたろう)が歴史小説でデビューして人気になった。

また、文学小説の分野では、1968念に川端康成(かわばた やすなり)がノーベル文学賞を受賞した。大江健三郎が1950年代に小説家としてデビューした。(なお、大江健三郎(おおえ けんざぶろう)は1994年にノーベル文学賞を受賞。大江の受賞は、だいぶ後である。)


高度経済成長期の頃にテレビが普及してくると、テレビが娯楽のなかでも影響力の高いメディアになっていった。人々はスポーツもテレビ番組で見て楽しむようになり、スポーツ選手が話題になった。

戦後のテレビで話題になったスポーツ選手としては、プロレスの力道山(りきどうざん)、野球では王貞治(おう さだはる)や長嶋茂雄(ながしま しげお)、そのほか相撲(すもう)では大鵬(たいほう)が、テレビで話題になったという。


さて、テレビの歌謡(かよう)では、1960年代にはNHKの紅白歌合戦の視聴率が80%近くなった(おそらく日本史上で最高の視聴率)。

しかし、その後70年代以降、しだいにテレビの視聴率は下がっていった。



在日コリアン[編集]

帝国書院の検定教科書が、朝鮮半島出身の人々が戦後(第二次大戦後)、日本国籍がなくなったので、日本に住んでいた朝鮮出身者が差別された、・・・的なことを言ってるが、・・・

しかし日本には「帰化」(きか)という制度がある。

日本への「帰化」(きか)とは、外国人が日本国籍を取得すること。原則として外国人は日本国籍を取得できないが、しかし例外として、合法的に日本に長期滞在していたりして、なおかつ充分な生活能力がある場合などに、もとの出身国の国籍を失うという条件のもと(理由: 二重国籍を防ぐため)、日本国籍を取得できる場合がある。要するに、帰化とは、外国人による国籍取得(こくせきしゅとく)のことである。

朝鮮と台湾などの旧日本領の出身者で、戦前に移住(転勤や就職などでの日本移住)などにより、終戦後に日本の本土(北海道、本州、四国、九州、沖縄。つまり、朝鮮と台湾をのぞく。)に合法的に住んでいた人は、日本国籍を取得できるシステムがある。

もっとも、その旧日本領の「帰化」はそれはそれで、終戦時に朝鮮や台湾などの旧日本領に住みつづけていた人は、どんなに日本への愛着がつよくても日本国籍を取得できないという点では、不公平感はあるが。


※ ちなみに、育鵬社(いくほうしゃ)の公民教科書で、ブラジルから日本に帰化したラモス(元プロサッカー選手)の紹介がある。


※ 教科書のコラム話題の一覧[編集]

カレーライスなど洋食の日本導入のエピソード (※ 東京書籍、清水書院)
ルイス=フロイス『日本史』による織田信長への評価、太田牛一の『信長公記』(しんちょうこうき)
『土佐日記』『更級日記』などの(高校古文で習う作品の)解説
ゲシュタポ (『アンネの日記』と関係して) (※ 東京書籍)
「尋常小学校」「師範学校」など、学制の戦前の旧制。(※ 東京書籍、日本文教出版)
満洲移民。長野県の大日向(おおひなた)村。 (※ 帝国書院)
ブラジル移民など。(※ 日本文教出版)
阪急電鉄と宝塚歌劇団の関係
中江兆民の『三酔人経綸問答』(さんすい じんけいりん もんどう)
戦時国際法と、WW2連合国の戦争犯罪 (※ 自由社)
二宮尊徳


日本文教出版の検定教科書で、防災の関連として信玄堤(しんげん づつみ)を紹介しているらしい。

東京裁判のパール判事


東京裁判の判事は、連合国を中心としたいくつかの国から出された。裁判とは名ばかりの東京裁判の方針を批判する判事もいた。インド連邦のパール判事は「この裁判は、国際法から見ると問題がある。」というような内容の少数意見書を出し、パール判事は被告人を無罪とする意見をのべた。だが、東京裁判の法定では、パール判事の意見が読み上げられることはなかった。

パールは『パール判決書』の中で、

   「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」

と記述している、また

  『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう。』

と記述している。


パールは、連合国を批判するいっぽうで、日本の戦争犯罪も批判した。南京事件については「この物語のすべてを受け入れる事は困難である」と、検察の提示した十数万から数十万もの証言や証拠に強い疑問を言った。ただし、パールは「宣伝(せんでん)と誇張(こちょう)をできるかぎり斟酌(しんしゃく、 意味:意図をくみとること。 )しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜(ふりょ)に対し犯したものであるという証拠は、圧倒的である」と、日本軍による犯罪行為その物は存在したと判断している。

連合国の判事の中にも、少数だがパール判事の見解に賛成する者がいた。オランダのベルト・レーリンク判事も、パール判事を支持した。

なお、サンフランシスコ講和条約の規定により、日本政府は主権回復と引き換えに東京裁判を受け入れる事に同意し国際条約として締結されました。その為、後の占領終了後に日本政府は東京裁判の判決を引きつづき受け入れています。また、現在(2015年)の日本政府も、東京裁判の判決を受けいれています。



戦時国際法について、自由社が下記の内容を紹介している。

捕虜(ほりょ)を虐待してはいけない事。(※ ジュネーブ条約、およびハーグ陸戦条約の内容)
民間人を殺傷してはいけない事。
兵が戦闘行為をするときは、武器を公然と所持することと、軍服を着るなどするなどをして、公然と戦闘員である事を分かるようにしないといけない事。もし、軍服を着ないで公然と武器を見せずに(ゲリラ的に)戦闘行動をすると、捕虜としての権利が無くなるので、敵軍につかまると処刑されかねない事。(※ 主にハーグ陸戦条約の内容)

これらを自由社は紹介している。

なお、民間人の義勇軍の場合は、服装は私服で仕方ないとしても、武器を公然と所持しないと、本来ならハーグ陸戦放棄ではゲリラとみなされ、捕虜の権利がなくなる[1]

もし兵士が軍服を着ないで武器も隠して戦闘行為(いわゆるゲリラ活動)をすると、その他の住民もゲリラ戦闘員だと疑われて被害が非戦闘員の民間人にも拡大しかねないので、戦時国際法では固く禁じられている。なので、もし違反して、ゲリラ戦闘をすると、捕虜の権利がなくなってしまいかねないほどに(戦時国際法の違反の程度に応じて、捕虜の権利が減少するので)、ゲリラ戦闘が禁じられている。(w:交戦者資格の四条件

これらのゲリラ戦闘を禁じる規則は、ハーグ陸戦条約などの条約で定められており、日本も1911年からハーグ陸戦条約を批准している。

よく歴史教育では、戦争末期のヨーロッパでの連合国の住民の(枢軸国の軍隊に対する)反乱活動などで、民間人が抵抗活動をしているが、厳密にはこれらの抵抗活動は戦時国際法に違反の可能性がある。


また、実は占領地の法律は、なるべく変更せず、現地の法律を尊重しないとならないと、戦時国際法が定めている(これも自由社が紹介している。) なので、GHQによる諸々の戦後改革は、厳密には国際法に違反している可能性がある。また、マッカーサーなどの命令による日本の憲法改正も、形式的には日本が自主的に憲法を制定したという形にさせている理由のひとつとして、こういう事情もある。

なお、本来なら、ハーグ陸戦条約を批准している国は、捕虜としてみなされるための条件を学校教育などで自国の国民に周知させなければならない義務がある。しかし日本国は、この周知義務に違反しており、ろくに周知していない[2]


副教材、指導案など[編集]

※ このページは本来、検定教科書のコラム欄などを紹介するページですが、新規に副教材などのwikibooks記事をつくると管理の手間などが増えますので(ページを削除するのは大変なので)、副教材などの記事の内容が充実するまで、このページを間借りします。

指導案に見られる用語[編集]

検定教科書ではないが、中学教師による指導案などで、産業革命について「工場制機械工業」や対比として「工場制工業」などの用語も指導案では使われている。(産業革命は「工場制機械工業」のほう)

そしてさらに、19世紀あたりのヨーロッパ帝国主義による植民地の争奪の競走や、日本の明治維新との関連を考察させてゆく、・・・という指導案がよくある。

そして、日本の産業革命の象徴として富岡製糸工場や八幡製鉄所、足尾銅山などを紹介する、というパターンの指導案が典型的に見られる。

資料集など[編集]

食品関係[編集]

(新学社の歴史資料集で、)明治時代に日本で あんぱん が普及した歴史が紹介されている。1842年の木村安兵(きむら やすべ)のあんぱん など。

そのほか、平安〜鎌倉時代あたりの武士や貴族の食事と、農民の食事のちがいなど。

江戸時代の、江戸の「初がつお」など「下り酒」など。


どうやら食品関係は、資料集などで定番の話題らしい。

その他[編集]

(新学社の歴史資料集で、)明治時代の石油ランプの普及などが紹介されている。


第二次世界大戦について[編集]

※ 教科書の範囲外: 戦艦大和(やまと)
※ 資料集などに見られる話題。
戦艦大和(1941年)

沖縄は最終的にアメリカに占領される事になるが、しかし日本の海軍は決して沖縄を見捨てた訳でなく、沖縄救出の為、1945年に戦艦大和(やまと)を沖縄に向かわせた。だが、既に海戦の主力は航空機による戦闘に移っており、沖縄に向かう途中アメリカ海軍の艦隊に遭遇し、アメリカ海軍の空母(くうぼ)の航空機からの魚雷などの攻撃により(※ 魚雷は航空機からも投下できる)、1945年4月に大和は撃沈された。

(魚雷で撃沈したことまでは覚える必要は無いし、資料集ではせいぜい「敵の航空機からの攻撃」ていどの説明しかしてないが、しかし世間でときどきある勘違いで、航空機からの銃撃(じゅうげき)および焼夷弾(しょういだん)投下などで撃沈したと勘違いしている人がいるのでこのコラムでは一応、「魚雷」と説明しておく)

大和の建造時は「大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)」と呼ばれる考えが浸透していた。これは、大きな艦(大艦)であれば、大きな砲(巨砲)を搭載出来、巨砲は射程が長い為、敵艦の射程外から砲撃できるという考え方である。大和もこの大艦巨砲主義に則って建造された。しかし、いざ大戦が始まってみると、当時軽視されていた航空戦力の実用性が示され、海戦の主力は戦艦から航空母艦へと移っていった。


「右翼」と「左翼」[編集]

「右翼」と「左翼」の用語のおおまかな意味と、用語のおおまかな起源を、東京書籍が中学教科書で紹介している。

第二次世界大戦前ごろの「青年右翼」のテロなどの説明で、「右翼」という用語を紹介している。それの対義語として「左翼」を紹介している。

  1. ^ 橋爪大三郎『戦争の社会学 はじめての軍事・戦争入門』、光文社新書、2016年7月20日 初版 第1刷発行、314ページ
  2. ^ 橋爪大三郎『戦争の社会学 はじめての軍事・戦争入門』、光文社新書、2016年7月20日 初版 第1刷発行、315ページ