中学校社会 歴史/江戸幕府の始まり

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徳川家康

江戸幕府の成立[編集]

江戸城。 『江戸図屏風』(えど ずびょうぶ)

豊臣秀吉の死後、徳川家康が勢力をのばした。

徳川家康は、領地を出身地である東海地方から関東地方に(豊臣秀吉の命令によって)移されており、徳川家康は江戸(えど)を拠点にしていた。


豊臣側の石田三成(いしだ みつなり)などは、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)の政権を守ろうとして、三成と家康が対立した。1600年の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい、場所は岐阜県)で、徳川家康は勝利し、1603年に朝廷により徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、江戸幕府(えど ばくふ)を開いた。


豊臣氏はまだ、大阪城を拠点に残っていたが、家康は豊臣を滅ぼすために1614年と1615年との二度にわたる戦争を行い、1615年に家康は豊臣氏を攻めほろぼし、( 大坂冬の陣(ふゆのじん)、夏の陣(なつのじん) )  こうして、戦乱の時代が終わり、徳川氏は日本全国を支配し、江戸幕府が置かれてからの約260年間、大きな戦乱のない時代が続いた。この1603年からの約260年間を江戸時代という。


幕府の直接の支配地(現代語で「直轄地」(ちょっかつち)という)の広さは、全国の約4分の1にあたる約700万石(ごく)です。

江戸幕府の直轄地(ちょっかつち)とは、江戸はもちろん江戸幕府の直轄地であり、そのほか、京都・大阪・奈良・長崎も江戸幕府の直轄地です。

江戸・大阪・長崎などの都市や、金銀の取れる鉱山、重要な港などが、直轄地になりました。

(※ 中学の範囲外: )昭和ごろの江戸幕府の当初についての言い伝えでは、家康が江戸の開発を始めるまでは江戸は草木のしげる、さびれていた土地だったとされていて、徳川家康たちが開発をして発展させたとされていたが、近年の研究では、その言い伝えは否定されている。戦国時代の北条氏がこの地帯を交通の重要拠点として、すでに発展させていたらしい。(※ 参考文献: 『大学の日本史』、山川出版社、30ページ、2016年第1版第1刷) 家康当地前の江戸が草木のしげれる場所という言い伝えは、どうやら、江戸時代のなかば、徳川家康をほめたたえるために作られた伝説らしい。日本神話に、草木のしげれるさびれた土地を切り開いて発展させたような物語があるので、それをもとにして家康を神のような人物としてほめたたえるために作られた伝説だろう、と歴史学者たちによって考えられている。

江戸幕府[編集]

大名の種類[編集]

江戸幕府では、将軍から1万石以上の領地を与えられた武士を、大名(だいみょう)と言った。17世紀なかごろでは、日本全国で200あまりの大名がいたとされる。

大名家は、大きく3つの種類に分けられ、それによって配置も大きく異なっている。

  • 親藩(しんぱん)
    徳川将軍家と直接の血縁関係がある家。親藩(しんぱん)のうち、紀伊(きい)・尾張(おわり)・水戸(みと)を御三家(ごさんけ)という。
  • 譜代大名(ふだいだいみょう、譜代とも言う)
    関ヶ原の戦い以前から徳川氏に従っていた家。井伊氏(彦根)や稲葉氏(伊豆)が代表的な大名である。主に江戸の周辺国や京都・大阪周辺などの要地に配置されている。
  • 外様大名(とざまだいみょう、外様とも言う)
    関ヶ原の戦い前後から徳川氏に従った家。土佐の山内家や、加賀の前田家が代表的な家である。主に三都から遠く離れた地域に配置されていた。

それぞれの地方の政治は、大名に任されていた。大名の支配している地域とその支配の仕組みを合わせて(はん)という。また、各藩は幕府に従い、農民に対しては「年貢」(ねんぐ)とよばれる税を課していた。

このように、江戸時代には将軍と大名による人民の支配体制がとられ、このような支配体制を幕藩体制(ばくはんたいせい)という。

なお、将軍直属の家来であり、1万石未満の者のことを、「旗本」(はたもと)または「御家人」(ごけにん)という。


幕府による大名や朝廷の支配[編集]

幕府は大名を取りしまる法律として武家諸法度(ぶけしょはっと)を1615年に定め、幕府に無断での築城・婚姻などを禁止したた。法度に違反した大名には、領地没収(いわゆる「取りつぶし」)などの、きびしい処分を行った。

また、3代将軍の徳川家光(とくがわ いえみつ)の時代に、大名が1年ごとに領地と江戸を往復する参勤交代(さんきんこうたい)をするように定めた。

また、大名の妻子(さいし)を江戸に住まわせ、江戸住まいの生活費は、大名の藩の負担になりました。参勤交代の旅費も、藩の負担です。

なお、通説として、参勤交代のねらいは、大名による反乱を防ぐために、江戸に大名の妻子を人質(ひとじち)として住まわせる事と、往復の旅費や江戸生活の出費をさせる事である、というのが通説である。


武家諸法度 (1615年)
一. (武士は)文武弓馬(ぶんぶきゅうば)の道に、(=学問と武道に、)ひたすら専念すること。
一. 大名の城は、修理する場合であっても、必ず幕府に申し出ること。ましてや、新しく城を築城することは、かたく禁止する。
一. 幕府の許可なしに、勝手に結婚をしてはならない。


武家諸法度 (1635年)
一. 大名は、領地と江戸とに交互に住むこと。また、毎年4月に江戸に参勤すること。
一. 500石以上の積みの船を作ってはならない。
一. 幕府の許可なしに、勝手に結婚をしてはならない。
一. 服装は、分相応のものを着なければならない。


さらに大名は、幕府から江戸城の修築や河川修復などの土木工事も命じられ、その費用は藩の負担になったので、ますます藩の財政は苦しくなりました。


また、幕府は公家や天皇にも法度を定め、禁中並公家諸法度(きんちゅう ならび に くげしょはっと)を1615年に定めた。そして京都には朝廷を監視するため京都所司代(きょうと しょしだい)を置いた。

中央の組織[編集]

1603年、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。3代将軍の徳川家光(いえみつ)の時代ころに、幕府のしくみが完成した。

まず、将軍の下に老中(ろうじゅう)を置き、通常時の政治の実務を取りしきらせ、それを「若年寄」(わかどしより)たちが補佐をした。通常時は、老中が将軍の次にえらい。

非常時には、大老(たいろう)が置かれた。非常時は、大老が、将軍の次にえらい。

        ┏━大老
        ┃
(徳川家康)将軍━╋━老中━━━━┳━大目付
        ┃       ┃
        ┃       ┣━町奉行
        ┃       ┃
        ┃       ┣━勘定奉行━━郡代・代官
        ┃       ┃
        ┃       ┗━遠国奉行
        ┃
        ┣━若年寄
        ┃
        ┗━寺社奉行

「大目付」(おおめつけ)とは、大名の監視(かんし)をする仕事である。 「寺社奉行」(じしゃぶぎょう)とは、寺社を取りしまる奉行である。 「町奉行」(まちぶぎょう)とは、江戸の町政をおこなう奉行である。(※ 中学3年の公民の用語でいうと、江戸の町の行政と司法(裁判)の仕事をするのが町奉行である。つまり、町奉行は、「立法」はしない。江戸時代は、司法と行政を、同じ機関が行った。)

「勘定奉行」(かんじょうぶぎょう)とは、江戸幕府の財政を取りしきる奉行である。また、幕府の直轄領(ちょっかつりょう)の監督もしている。なお、江戸幕府の直轄領のことを「天領」(てんりょう)という。(※ いちおう、「天領」(てんりょう)は中学検定教科書の範囲内。教育出版の教科書および自由社の検定教科書で紹介されてる。しかし、他の教科書では紹介されておらず、それほど重要な用語でもないだろうから、無理して覚える必要は無いだろう。) つまり、勘定奉行の仕事とは、江戸幕府の財政のほか、天領を監督する仕事もしている。

「遠国奉行」(おんごくぶぎょう)とは、京都・大阪・長崎などを支配する奉行である。


朝廷の監視のために、「京都所司代」(きょうとしょしだい)が置かれた。

西国大名の監視のため、「大坂城代」(おおさかじょうだい)が置かれた。

勘定奉行のしたに、郡代(ぐんだい)や各種の代官(だいかん)が配置された。

また、幕府は、貨幣の発行権も独占し、さらに石見(いわみ)銀山や佐渡(さど)金山などを幕府の直轄地(直接の支配地)にした。

鎖国[編集]

江戸幕府はヨーロッパ諸国の軍事的干渉・宗教的干渉などをおそれ、貿易や出入国をきびしく制限する政策をとった。のちの明治時代にこのような江戸幕府の政策は「鎖国」(さこく)と呼ばれた。

※ (範囲外: )(参考文献 『大学の日本史』(山川出版社)105ページによると、)江戸時代の当初、江戸幕府は、秀吉のキリスト教の禁止政策をさらに徹底させつつも、貿易では(日本と)オランダとの貿易だけでなく、(日本と)ポルトガルとの貿易も続けようという方針であったらしい。しかし、後述する「島原・天草一揆」(しまばら・あまくさいっき)というキリスト教徒の起こしたとされる一揆により、江戸幕府はキリスト教のさらなる取りしまりの必要性を感じて、その結果、貿易相手国をオランダだけに制限したらしい。
※ つまり、

 朱印船(しゅいんせん)貿易 → キリスト教禁止 → 島原・天草一揆 → 鎖国

という順番である。


「鎖国」政策の直接要因となった出来事は、1637年の島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)である。この「島原・天草一揆」とは、九州の島原(しまばら、長崎県)・天草(あまくさ、熊本県)地方で、農民たちが重税やキリスト教の取り締まりに反発して、大規模な一揆を起こした事である。

このような出来事の結果、江戸幕府は、さらにきびしいキリスト教の取りしまりをするために、1639年にはポルトガル船の日本への来航を禁止した。(スペインは1624年にすでに日本への来航を禁止されていた。)

ただし、いわゆる「鎖国」の例外として、オランダは日本への来航を許された。

1639年には貿易のための商館が平戸から長崎の出島(でじま)へと移され、出島でオランダ・清(しん)と日本との貿易が行われた。また、対馬藩を通じて李氏朝鮮(りしちょうせん)との貿易をしており、日本は合わせて3か国とのみ貿易を行っていた。

オランダは、日本ではキリスト教を布教していない。

江戸時代はじめごろの貿易[編集]

  • 朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)
徳川家康朱印状/オランダ国立公文書館蔵

徳川家康の時代のころから、東南アジア方面の国々と貿易をしていた。なお、この貿易は、のちに廃止される。 この貿易では、日本の船に幕府の貿易許可をしめす朱印状(しゅいんじょう)という証明書が必要だったので、そのような朱印状を持っている日本船を朱印船(しゅいんせん)と呼んだ。この朱印船による東南アジアとの貿易を朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)という

2代将軍の秀忠の時代にも朱印船貿易は続き、キリスト教を秀忠が禁止したあとにも、朱印船貿易は続けられた。

東南アジアのルソン(今のフィリピン)やシャム(今のタイ)に日本人が集団で移り住み、東南アジア各地に日本町が出来た。 当時はスペイン人がルソン(今のフィリピン)に進出していた。

この朱印船貿易のころは、日本は貿易相手になった西洋諸国については、オランダの他にもイギリスとポルトガルとも日本は朱印船貿易をしていました。

なお、このころは、長崎県の平戸(ひらと)に、貿易のための商館がありました。

朱印船貿易により、日本からは銀が輸出されました。いっぽう、中国産の生糸や絹織物などが、日本に輸入されました。

朱印船貿易は3大将軍の家光(いえみつ)のときに終わります。


  • オランダとの貿易

家康は、イギリスとオランダの日本との貿易を許し、平戸(ひらど、長崎県にある)での貿易が始まる。 きっかけは1600年に豊後(ぶんご)に流れ着いたオランダ船リーフデ号に乗っていたオランダ人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)とイギリス人のウィリアム・アダムス(william Adams)であり、この二人が幕府の外交の相談役になったからである。 今の東京にある八重洲(やえす)の名前の由来はヤン・ヨーステンである。

スペインに遅れて貿易に参加することになったオランダは、キリスト教の布教には関心がなかった。 オランダは日本との貿易を独占するため、スペインやポルトガルはキリスト教の布教を通じて日本を侵略しようとしている、と幕府に、つげていた。

イギリスはオランダとの競争にやぶれ、日本をはなれて、イギリスの関心はインドでの貿易に変わった。


キリスト教の禁止[編集]

1612年 家康のころ、江戸幕府は1612年にキリスト教を禁止する禁教令(きんきょうれい)を出します。
1629年〜 絵踏み
イエス・キリストの踏み絵

3代将軍の家光の1629年のころから、キリスト教徒を発見するため、踏み絵(ふみえ)を用いた絵踏み(えふみ)が行われるようになった。

  • 踏み絵(ふみえ)による絵踏み(えふみ)

この時代、キリスト教は禁止されていたが、かくれてキリスト教を信じる「隠れキリシタン」(かくれキリシタン)がいた。このような隠れキリシタンを取り締まるため、幕府は人々にキリストやマリアなどが描かれた銅板の踏み絵(ふみえ)を踏ませるという、絵踏み(えふみ)をさせて、絵踏みをしないものはキリシタンであるとして処罰した。


1637年 九州の島原地方(しまばら、長崎県)や天草地方(あまくさ、熊本県)で、キリスト教の信者の農民など3万人をこえる反乱勢力(一揆勢力の人数は3万7000人だと言われている)による一揆が起きる。農民の反乱の理由は、キリスト教禁止によるキリシタンへの弾圧、および、領主による重い年貢などへの反乱である。

反乱軍の中心人物は、天草四郎(あまくさ しろう)とも言われる「益田時貞」(ますだ ときさだ)で、反乱軍は島原半島の原上にたてこもったが、幕府の松平信綱(まつだいら のぶつな)を中心とする兵数12万人ほどの幕府軍により、反乱軍は負けた。 この出来事を「島原・天草の一揆」(しまばら・あまくさ の いっき)と言う。「島原・天草の一揆」とは、いわゆる「島原の乱」(しまばら の らん)のことである。

  • 宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)

「島原・天草の一揆」後、幕府は、人々を宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)に記し、仏教寺院にその人が仏教徒であることを証明させることで、キリスト教の禁止をさらに強めた。


鎖国(さこく)[編集]

江戸幕府は貿易を制限していき、江戸時代の貿易の相手国は最終的にオランダと清(しん、今でいう中華人民共和国)だけに、かぎられていく。

当時、オランダは台湾やインドネシアに進出していた。台湾の地に、オランダ人は「フォルモサ」(オランダ語:Formosa)という地名を名づけていた。(※ フォルモサという地名は、小中学生は、おぼえなくて良い。)

スペイン人の来日を禁止する。

1633年 朱印船以外の海外渡航の禁止。
1635年 日本人の海外渡航の禁止。海外にいる日本人の帰国の禁止。
( 1637年 島原の乱(しまばらのらん)が起きる。 あとで説明する。 )
1639年 ポルトガル船の来航を禁止。
1824年、もしくは1825年に描かれた出島の鳥瞰図。扇形をしている。
1641年 平戸(ひらど、長崎県)にあったオランダ人の商館を、長崎の出島(でじま)に移した。長崎は幕府が直接に支配する直轄地(ちょっかつち)である。

このように、幕府は貿易を独占し、また、制限していく。

貿易だけでなく、キリスト教の布教も禁止し、また、外国人が、一部の地域をのぞいて日本に入れないようにした。

この、江戸幕府による、外国人と日本人との交流を減らして(へらして)いった対外政策は、のちに江戸時代の1800年ごろから鎖国(さこく)と言われはじめ、明治時代から「鎖国」という用語が広がります。


なお、江戸幕府は長崎のオランダ商館に、外国のようすを幕府に報告(ほうこく)させるための報告書(ほうこくしょ)の提出を義務づけ、『オランダ風説書』(オランダふうせつがき)の提出が義務づけられた。

オランダの宗教は、宗教改革のプロテスタントの国である。それまで戦国時代に貿易していた相手国であるスペインやポルトガルは、カトリックの国である。

結果的に、日本はカトリック国との貿易を日本国民に禁止したことになり、そして日本は結果的にプロテスタント国であるオタンダとの貿易を日本国民に認めたことになる。

  • 朝鮮との貿易
朝鮮通信使 江戸の町を朝鮮通信使の一行がおとずれた様子です。

徳川家康の時代に、対馬藩(つしまはん)を通して朝鮮(ちょうせん)との貿易が行われます。秀吉の時代には朝鮮出兵により貿易が中断(ちゅうだん)しましたが、江戸時代に入り日本と朝鮮との国交が回復し、日本と朝鮮との貿易が再開します。対馬藩(つしまはん)の大名である宗(そう)氏の媒により、朝鮮と日本との貿易が復活します。朝鮮から日本への(、日本が輸入した)輸入品は、生糸や木綿、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)です。

日本からは銅や銀が輸出されました。

3代将軍の家光の時代からは、日本で将軍の代替わり(だいがわり)ごとに、朝鮮からの通信使(つうしんし)が訪れるようになります。朝鮮からの通信使を 朝鮮通信使(ちょうせん つうしんし) と言います。

また、朝鮮の釜山(プサン)には倭館(わかん)が作られ、貿易の拠点になりました。

江戸時代の沖縄と北海道[編集]

琉球(りゅうきゅう)王国[編集]

首里城(しゅりじょう、方言:スイ グスク)。沖縄県の那覇市(なは し)にある守礼門(しゅれいもん)は、この琉球の王朝のころに琉球王国の国王が住んでいた首里城(しゅりじょう)というグスク(「城」のこと、沖縄方言)の正門のこと。首里城は 世界遺産(せかい いさん) に登録されている。首里(しゅり)は、今でいう、那覇(なは)のこと。

江戸時代、沖縄は「琉球」(りゅうきゅう)という王国でした。

江戸時代の初めごろ、17世紀に、琉球国は薩摩藩によって征服(せいふく)されました。そして、薩摩藩によって、琉球は年貢を取られるようになりました。

幕府や薩摩藩は、琉球国に、日本と中国との貿易を仲介させました。琉球が、日本に征服される以前から行っていた中国との貿易をつづけさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。

また、中国は、朝貢をする国とだけ貿易をする方針だったので、日本は、琉球国を仲介して、琉球を中国に朝貢させた。江戸幕府も、琉球に中国との貿易を仲介させるため、琉球が中国に朝貢することを認めた。

このため、琉球王国は、日本に征服されているのに、琉球は中国に朝貢するという、独特な立場の国になった。

中国との貿易のために、このような朝貢貿易という名目があったため、江戸時代のあいだ、琉球王国は、ほろんでいません。


(江戸幕府)将軍や琉球国王の代替わりごとに江戸に使節を送らせるのが慣例になり、幕府の権威(けんい)が琉球にまで及んでいる事を江戸などの人々に印象づけた。

幕府は、琉球からの使節には、中国風の衣服を着させることで、あたかも中国が日本に服属しているかのような印象を、庶民に与えたと言われています。



北海道[編集]

江戸時代、北海道は「蝦夷(えぞ)」とよばれており、アイヌ民族が住んでいました。

現代では、この北海道のいくつかの民族をまとめて、アイヌ民族と呼んでいます。

アイヌは、松前藩(まつまえはん)と貿易をさせられていました。 アイヌの人が持ってくるサケやコンブを、わずかな米などと交換していたといいます。

このような不公平な貿易におこったアイヌの人たちが、1669年、反乱を起こしました。シャクシャインという人物を中心に反乱を起こしました。

松前藩は、シャクシャインをだまし討ちして殺害しました。松前藩は、停戦を申し込むとウソをいってシャクシャインをまねき、シャクシャインがやってきたところを、殺害しました。(※ 検定教科書の範囲内 東京書籍や帝国書院の教科書で、本文外の写真などの下のコラムで記述。)

そしてアイヌによる反乱は鎮圧され、いっそう厳しく(きびしく)、アイヌは支配されました。

貿易の品目は、日本からは、コメや酒、鉄器などを、アイヌに輸出していたと言われています。


身分制度[編集]

江戸時代は身分制度がきびしく定められた時代です。 江戸幕府は、それ以前の秀吉の時代からの兵農分離(刀狩り)の政策を江戸幕府も受け継ぎ、江戸幕府は人々を、武士(ぶし)、百姓(ひゃくしょう)・町人(ちょうにん)に区別する身分制度を定めました。

※ 現代語の「町」(まち、ちょう)とは、江戸時代の「町」(ちょう)は、意味がちがいます。

江戸時代の「町人」とは、今でいう、城下町などの比較的に大きな都市(当時は城下町などが都市だった)に住む住人、というような意味です。また、町人の職業も、今でいう商人と職人です。

江戸時代の身分別の人口割合。(関山直太朗『近世日本の人口構造』より)

百姓(ひゃくしょう)は、主に農民たちです。江戸時代の全人口の80%以上は百姓(農民)です。

町人は、主に、商人と(大工などの)職人です。

武士や町民のような、比較的に高い身分は、原則として、その家の親から長男に代々、受け継がれました。また、勝手に身分を変えることは出来ませんでした。

また、身分や職業や家柄などによって、住む場所がほとんど決められており、それ以外の場所に住むことは原則的に出来ませんでした。

武士は、城下町に住まわされました。

また、江戸時代は、武士・百姓・町人のほかに、「えた」「ひにん」という低い身分が定められていました。


  • 身分別の人口割合
江戸時代の総人口: 3200万人
百姓 : 約85%
武士 : 約 7%
町人 : 約 5%
僧侶・公家・えた・ひにん : 約 3%

(身分別の人口割合 おわり)。


武士・百姓・町人[編集]

武士[編集]

  • 武士は、人々を支配する身分でもあります。足軽も将軍も、身分は武士です。

武士の頂点に立つのが将軍であり、その下に様々な役職が置かれました。

武士の特権として、名字(みょうじ)を名乗ったり、刀を持つこと(帯刀、たいとう)は原則として武士のみ許されていた。武士の住む場所は、主に城下町でも城に近いところに住むようにされました。


百姓(ひゃくしょう)[編集]

  • 全人口の80%ほどを百姓(ひゃくしょう)がしめた。百姓の大半は農民ですが、漁業や林業を行う人も百姓にふくまれます。

農民は、おもに農村に住まわされました。農村は、城下町よりも離れたところに作られています。

農民は主に二つに区別されており、土地を持つ本百姓(ほんびゃくしょう)と、土地をもたない水呑百姓(みずのみびゃくしょう)に区別されていました。

収穫高の40~50パーセントが年貢として納められた。年貢が5割の場合、五公五民(ごこう ごみん)と、いいます。「五公」で年貢が5割という意味です。

年代によって年貢が6割の場合もあり、その場合は六公四民(ろくこう よんみん)といいます。 年代によって年貢が4割の場合もあり、その場合は四公六民(よんこう ろくみん)といいます。

つまり、江戸時代の年貢は、五公五民ぐらいでした。

年貢となる農作物は、おもに米(こめ)ですが、地域の実情に応じて、特産品などが代わりに年貢として納められる場合もあります。

村役人は、有力な本百姓のなかから、藩などによって選ばれました。有力な本百姓は、「名主」(なぬし)、「組頭」(くみがしら)、「百姓代」(ひゃくしょうだい)などといわれる村役人に選ばれました。名主は、「庄屋」(しょうや)ともいいます。


  • 農民への御触書(おふれがき)

農民のくらしは、贅沢(ぜいたく)をしないように、きびしく管理されました。

農民への御触書(おふれがき)によって、農民の生活のきまりが、幕府によって定められました。 御触書の内容は、現代風に訳すと次のような内容です。

 農民への御触書(おふれがき)

一. 朝は早起きをして草を刈り、昼には田畑の耕作をして、夜には縄(なわ)をつくって俵(たわら)を編む(あむ)など、それぞれの仕事をしっかりと行うこと。
一. 幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えず、また名主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。
一. 酒や茶を飲まないこと。
一. 農民は麦・ひえ・あわ などの雑穀(ざっこく)などを食べ、なるべく米を食べないこと。
一. 農民の服は、麻(あさ)と木綿(もめん)だけであり、ほかの服は着てはいけない、裏地(うらじ)にも他の布を使ってはならない。


以上の内容が御触書の内容として有名ですが、他にもつぎのような内容も御触書にあります。 (※ おぼえなくても、大丈夫だろう。)

 農民への御触書(おふれがき)

一. タバコは、吸うな(すうな)。
一. 名主(なぬし、村長のこと)は親のように敬え(うやまえ)。

御触書などの命令により、江戸時代では、田畑の売買は禁止されていました。


  • 五人組(ごにんぐみ)

農民には、村で5〜6件ごとに五人組(ごにんぐみ)という集団をつくらせ、年貢の未納や犯罪などに連帯責任を負わせました。

町人[編集]

  • 町人の職業は、主に商人か職人です。

土地や家屋などを持つ町人は、それぞれ「地主」(じぬし)、「家持」(いえもち)と言われた。それらを持たない町人は、「地借」(じがり)、「店子」(たなこ)と呼ばれた。

家や店を持つ町民は、営業税を納める必要がありました。しかし、町人の負担は、百姓と比べると軽かったです。


えた、ひにん[編集]

このほか、「えた」 および 「ひにん」 と言われる、農民よりも身分が低くされ、もっとも身分が低い(ひくい)という差別をされた人々がいました。「えた」と「ひにん」は、それぞれ別の身分です。

えたは、皮革業(ひかくぎょう)などのような、動物の死体をあつかう職業などをしていた身分です。このような死体を扱う身分は、いやしい職業だと、古くから考えられていました。しかし、武士なども、戦(いくさ)のときには敵をころしたりしますが、武士は低い身分とはされませんでした。このように、とても武士に都合のいい非合理な差別でした。

「えた」や「ひにん」は皮革業のほかにも、さまざまな職業の者がいました。犯罪者の処刑にたずさわったりする職業の「えた」・「ひにん」の者もいました。「ひにん」には、役人のもとで下働きをしたり、あるいは芸能にたずさわる者もいました。

「えた」「ひにん」の住む場所は、きびしく制限され、あまり他の身分の者と関わる機会の少ないような場所にすまされ、他身分との交流なども制限を受けた。百姓や町人の住む場所とも別の場所にと、「えた」「ひにん」の住む場所は区別されました。


「士農工商」(しのうこうしょう)

かつて昭和の終わりころまで、江戸時代には「士農工商」(しのうこうしょう)の4つの身分がある、と言われてました。

しかし、近年の研究により、4つの身分に区分するよりも、武士・町人・百姓の3つに区分するほうが実態に近い事が分かっています。

そもそも「士農工商」とは、中国(今でいう中華人民共和国の「中国」)の古い書物にある用語だったようです。


「家」制度[編集]

(※ 中学歴史の範囲内です。検定教科書で江戸時代の家制度についての記述がある事を確認した。)

江戸時代、家庭は、父親の権限が強かった。(いわゆる家父長制(かふちょうせい)である。)

家長(かちょう)には、原則として父親がなるものとされた。(家長とは、いわゆる「戸主」(こしゅ)のことであり、その家の主(あるじ)のことである。)武家の場合、女性は家長になることは許されなかったし、財産を相続することも許されなかった。(※ 武家と女性の相続についての参考文献: 清水書院の検定教科書。) 

※ (範囲外:) 鎌倉時代は、北条政子(ほうじょう まさこ)のように、武家でも女性の地位が高かった。だが、しかし、江戸時代は違うのである。

また、次の家長になるものとして、長男が優遇された。女性や次男以下の家庭内での地位は、低かった。

(で、自由社の検定教科書などが指摘してる事だが、)江戸時代の「家」は、企業・自営業(じえいぎょう)に近い。だから、たとえ長男であっても、家業(かぎょう)を継がない場合は、家を継げなかったのである。「家業」とは、たとえば店を経営している商家なら、その店を経営することが「家業」。

江戸時代、家業と家の財産は、家長ではなく、家そのものに属するものとされた。(※ 参考文献: 日本文教出版の検定教科書。)

よく、江戸時代の家制度の説明で「家は長男が継ぐものとされた」などと教科書で書かれる場合があるが、家を継ぐ場合には家業も継がねばならない、という条件がある。

べつに商人に限ったことではなく、江戸時代に限ったことでもなく、武家や戦国時代から、こうである。(※ 参考文献: 『大学の日本史 2―教養から考える歴史へ 中世』山川出版社、2016年第1版、192ページ、)

(で、自由社の検定教科書が言うには)江戸時代の家制度は、血統による身分の区分ではなく、職業による身分の区分である。(※ 参考文献: 自由社『あたらしい歴史教科書』、平成23年検定版、127ページ)

だから、百姓・町人などから武士に取り立てられる者もいれば、その逆に武士から町人になる者もいた(・・・と自由社は主張している)。

(※ 範囲外:) たとえば、「3本の矢」の故事でも有名な戦国大名・毛利元就(もうり もとなり)は、息子の苗字が「吉川」元春(きっかわ もとはる)・「小早川」隆景(こばやかわ たかかげ)のように、倒した敵大名の苗字を名乗らせているのは、敵大名の統治していた領地や家臣団・領民などを、息子に継がせるために、その敵大名家の苗字を名乗らせたのである。(※ 参考文献: 『大学の日本史 2―教養から考える歴史へ 中世』山川出版社、2016年第1版、192ページ、)


産業[編集]

農業[編集]

17世紀のなかばごろになると、平和な時代になったこともあり、幕府や藩は、大規模な新田開発を進めました。

その結果、開墾(かいこん)が進み、全国の田畑の耕地面積が秀吉の頃の、ほぼ2倍 に広がりました。

幕府や藩の財政は百姓からの年貢にたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要があったのです。

江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って貨幣(かへい)に現金化していました。 年貢米は江戸や大阪にある蔵屋敷(くらやしき)に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。

治水(ちすい)工事も進み、農地に水を引く灌漑(かんがい)のための用水路(ようすいろ)が各地にできた。 箱根上水(はこね じょうすい) や 玉川上水(たまがわ じょうすい) は江戸時代に出来た。

九州の有明湾で干拓(かんたく)事業がされた。

備中ぐわ
千歯こき
  • 農具の発達

備中鍬(びっちゅうぐわ)・千歯こき(せんばこき)・千石どおし(せんごくどおし)などが開発された。

備中鍬(びっちゅうぐわ) ・・・ 耕すための農具で、深く耕せる。
千歯こき(せんばこき ・・・ 稲(いね)の穂(ほ)から米つぶを脱穀するための道具。くし状の部分が鉄製で、何本もの、くし状の「こき」があるので、一度に多くの穂(ほ)を脱穀できる。
千石どおし(せんごくどおし)、とおみ ・・・ 脱穀(だっこく)が出来る。脱穀とは、もみを、ふるい分ける事。
水車(みずぐるま)、踏み車(香取市)
  • 踏車(ふみぐるま) ・・・ 灌漑(かんがい)用の水車である踏車(ふみぐるま)なども開発された。

踏車は、人間が踏んで回す水車なので、重力に逆らって水を高いところにあげられるという仕組みである。

竜骨車(りゅうこつしゃ)という、かんがい用の農具もあります。形は踏車とちがいますが、竜骨車も、農民が足で踏んで(ふんで)動かすことで、水がくみあがる仕組みです。


  • 商品作物

売ることを目的に、綿・なたね・茶・麻・あい、、、などの、今で言うところの商品作物(しょうひんさくもつ)が作られるようになった。 農村でも貨幣(かへい)が使われるようになった。


綿の生産の発達により、民衆の服は麻(あさ)から綿(めん)に変わっていく。 あい や べにばな などは、染料として使われた。

外国から伝わった作物も、つくられるようになった。さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ・とうもろこし、などである。


  • 肥料

油かす(あぶらかす) ・・・ なたね油やごま油の しぼりかす であり、肥料として使われる。 干鰯(ほしか) ・・・  いわし。肥料として使われた。

  • 水産業

沿岸漁業が、ほとんど。

九十九里浜(くじゅうくりはま、現在の千葉県)では、いわし漁がさかんだった。瀬戸内海では塩田(えんでん)が発達した。

工業[編集]

家内制手工業(かないせい しゅこうぎょう)

農民は、農作業のないときに綿花や絹などの織物(おりもの)をして商品を生産したり、菜種油や麻(あさ)材料など、商品の生産をするようになった。


問屋制家内工業

商人などが生産に必要な設備(せつび)や資金(しきん)などを百姓に貸し与え、百姓が生産して、出来あがった製品を商人が買い取り、商人が販売するという方式。


工場制手工業(こうじょうせい しゅこうぎょう)

工場制手工業 (『尾張名所図会』(おわり めいしょ ずえ))
商人や大地主が、生産に必要な設備を買い入れ、職場に多くの人をあつめて働かせるという、今でいう工場のような生産方式が出始める。工場制手工業(こうじょうせい しゅこうぎょう)という。18世紀になると、日本では工場制手工業が行われるようになってきた。

西洋史で言う マニュファクチュア に対応している。

  • 鉱業(こうぎょう)
鉱山(こうざん)の多くは、幕府が経営した。そのため、得られた金銀などは幕府の収入になった。生産された金・銀・銅は貨幣の材料になったり、輸出品になった。

金山(きんざん)

佐渡(さど、新潟県)の金山や、石見(いわみ、島根県)の金山がある。

銀山(ぎんざん)

生野(いくの、兵庫県)の銀山。


銅山(どうざん)

足尾(あしお、栃木県)の銅山や、別子(べっし、愛媛県)の銅山。

銅は長崎貿易の輸出品に、なった。

鉄(てつ)は砂鉄(さてつ)や、釜石(かまいし、岩手県)の鉄山から。

商業[編集]

江戸時代は、商人があつかう商品の量や種類が増えた。このため、商業の仕組みが発達した。貨幣が全国的に流通するようになった。

商品の量や種類がふえ、複雑(ふくざつ)化していったので、商人も分業化するようになり、問屋(とんや)や仲買(なかがい)や小売商(こうりしょう)の区別ができた。

問屋どうしの中でも分業はすすみ、さらに分業化が商品の種類ごとに進み、米をあつかう米問屋(こめどんや)や、木綿(もめん)をあつかう木綿問屋(もめんどんや)、油問屋(あぶらとんや)など、専業化していった。

問屋(とんや)とは、生産者から商品を仕入れ、販売店などの小売業者に商品を販売する仕事である。


村の外や藩の外との取引が活発ということは、前提として、村どうし・藩どうしが信用しあっているということです。つまり、日本が平和ということです。江戸時代の商業は、戦国時代とは、ちがう、というわけです。
また、商品を輸送(ゆそう)する物流(ぶつりゅう)のためには、道路や運送業(うんそうぎょう)が必要です。江戸時代の道路や街道などの発達の理由は、「参勤交代のため」という理由の他にも、もしかしたら商業上での商品の輸送(ゆそう)が必要という物流(ぶつりゅう)上の理由もあったのかもしれません。
なお、大量の商品を運ぶには、海上交通をつかうと、時間はかかるが安く運びやすい。このため、江戸時代は海運(かいうん)が発達した。


商人の種類[編集]

いろんな種類の商人の職が出てきます。現代の仕事に関連づけて、おぼえてください。現代の仕事に関連づけないと、おぼえづらいでしょう。

  • 蔵屋敷(くらやしき)

江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って貨幣(かへい)に現金化していました。

年貢米や、年貢のかわりの特産物(とくさんぶつ)は、江戸や大阪にある蔵屋敷(くらやしき)に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。 大阪は商業がさかえ、「天下の台所」(てんかの だいどころ)と言われました。

分業化は蔵屋敷でも、されていました。仕事の種類によって、大阪では蔵元(くらもと) や 掛屋(かけや)などに分業されました。江戸では 札差(ふださし) などがありました。

蔵元(くらもと)は、売りさばきが担当の商人です。今でいう販売員です。

掛屋(かけや)は、売上金の輸送や保管の仕事です。今でいう銀行の 預金業務(よきんぎょうむ) や 振り込み(ふりこみ) のような仕事をしています。


蔵屋敷で現金化できる年貢や特産物など、諸藩からの商品をあわせて、 蔵物(くらもの) と言います。

いっぽう、民間から出た商品も出回り、納屋物(なやもの)といいます。 (※ おぼえなくてよい。)


  • 両替商

両替商(りょうがえしょう)は、もともとは、金貨や銀貨や銅貨の交換を、手数料をもらって行なう仕事ですが、そのうち仕事の内容が変わり、今でいう銀行のような預金(よきん)業務と貸付(かしつけ)業務を行なうようになった。

両替商は貨幣の調達などに信用があるので、両替商どうしの帳簿(ちょうぼ)上の処理(しょり)で貨幣(かへい)の送金(そうきん)の代わり(かわり)とする 信用取引(しんようとりひき) の仕組みが発達した。


江戸を中心に関東では金が取引の主流であり、大阪などの関西では銀が取引の主流であったので、両替が必要だった。「両」とは金貨のこと、あるいは金貨の単位である。

商人のなかには、江戸の三井(みつい)や大阪の鴻池(こうのいけ)のように、財政の苦しい藩(はん)や大名に おかね を貸し付けたり、藩の財政にかかわるほどの、有力な商人もあらわれた。


  • 鉱山の開発

貨幣をつくるには、材料の金や銀が必要なので、幕府は鉱山を開発しました。 また、貨幣をつくる権利は幕府が独占した。


商業の発達には、交通の発達も必要である。

越後屋[編集]

江戸時代の始めごろまでは、商売の支払い方法では、後でまとめて払う方法が普通だった。

しかし1673年に、三井高利(みつい たかとし)が江戸で開いた越後屋呉服店(えちごや ごふくてん)が、現金払いで店頭ですぐに売買する商法を始めた。

このような商法は江戸時代の当時「現金かけ値なし」(げんきん かけねなし)と言われた。「かけ値」とは、定価よりも高く売ること。

越後屋は、かけ値をやめたのである。(※ 東京書籍、清水書院、教育出版など、多くの検定教科書で紹介。)

※ 当時、越後屋以外の服屋では、値札(ねふだ)をつけてない呉服屋が多かった。そもそも、値札や定価(ていか)という考え方そのものが、この時代は、うすかった。越後屋以前の常識では、呉服などの販売では定価をさだめずに、客の値引き交渉に応じることこそマナーだと思われていたが、しかし越後屋はその従来の方法は効率を低下させる間違った手法だろうとして、販売手法の改革をしたわけだ。

売買がすぐに成立するぶん、越後屋はすぐに代金を改修できるし、また、客にとっては安く販売できるため、越後屋と客の双方に利点があった。(※ ← ほぼ帝国書院の教科書の見解)

越後屋は、呉服店のほか、両替商(りょうがえしょう)も行った。

※ ちなみに現代の三越(みつこし)デパートの会社は、もとを正すと江戸時代の三井の越後屋がもとになってる。「三」井の「越」後屋の頭文字をとって、三越という名前をつけたのである。

海上交通の発達[編集]

船は、大量の荷物を、少ない人物で運べます。しかも、一度、船に積めば、目的地までは途中で積み替えをする必要がありません。

このため、大量の商品を運ぶには、海上交通をつかうと、時間はかかるが安く運びやすい。このような理由で、海運(かいうん)が発達した。 また、船も改良され発達した。

菱垣廻船の復元船「浪華丸」

菱垣廻船(ひがきかいせん)

積み荷が船から落ちないように、船の両側に垣(かき)がつけられ、その垣の形が菱型(ひしがた)に組まれていたので、菱垣廻船(ひがきかいせん)という。

樽廻船(たるかいせん)

酒はくさりやすいので、素早く運ぶ必要があった。そのためのスピードが早くなる工夫をされた船である。


  • 航路

東廻り(ひがしまわり)航路

東北地方の太平洋側から、太平洋側を通り、江戸までをむすぶ航路。


西廻り(にしまわり)航路

日本海側の東北地方から、瀬戸内海を通り、大阪までをむすぶ航路。


江戸の商人である川村瑞賢(かわむら ずいけん)によって、東回り航路と西回り航路が開かれた。

陸路の交通[編集]

全国を道でつなぐため、街道(がいどう)が出来た。

江戸の日本橋の、ようす。五街道は日本橋が起点。画:歌川広重『東海道五十三次』より。

江戸の日本橋(にほんばし)を起点とする幹線道路(かんせんどうろ)としての街道が5本あるが、これを五街道(ごかいどう)という。読みは「ごいどう」ではなく「ごいどう」なので、まちがえないように注意。

五街道(ごかいどう) と、そのほかの道である 脇街道(わきかいどう) などによって、東北から山陰・山陽地方までが道でつながった。

九州や四国も、それぞれの島の内部が、道でつながった。


五街道は、東北地方の南部の今でいう福島県から京都までしか、つながっていない。

日光へと向かう 五街道のうちの街道が日光街道(にっこうかいどう)である。


日光街道は、北関東の宇都宮(うつのみや)のあたりで、ふたまたに分かれていて、宇都宮から福島の白河(しらかわ)へと向かう奥州街道(おうしゅうかいどう)に分岐(ぶんき)している。 (※ 宇都宮・白河など、細かな地名は、おそらく教科書の範囲外なので、学校対策では、おぼえなくてよい。)

以上の二本の街道が、五街道への北への方面である。


次に京都方面について、説明する。

京都の方面へと江戸から向かう街道は3本あるが、そのうちの2本は、途中(とちゅう)で合流(ごうりゅう)する。

五街道のうちの一つである甲州道中(こうしゅうどうちゅう)は、長野県の信濃(しなの)の諏訪(すわ)のあたりで、五街道のうちの別の一つである中山道(なかせんどう)と合流する。 甲州道中の名前は「甲州」道中だし甲府(こうふ)を通るが、じつは長野県の信濃まで、つながっている。

五街道のうちの一つである東海道は、太平洋ぞいの街道であり、京都まで他の街道とは、つながっていない。東海道の経路は、今でいう神奈川県 → 静岡県 → 愛知県 → 京都 の経路である。 当時の用語で言えば、小田原(おだわら、神奈川) → 駿府(すんぷ、静岡) → 名古屋(なごや、愛知) → 京都 である。

東海道は、もっとも人々の行き来が、さかんだった。


  • 関所(せきしょ)
関所の様式の門。観光テーマパークでの復元。

警備(けいび)上の理由から、街道には、通行者の取り調べるため通行を制限(せいげん)する関所(せきしょ)が、おかれた。

関所では、通行者は、関所の役人に、通行許可証である手形(てがた)を見せる必要があった。

関所では、とくに江戸に入る鉄砲(てっぽう)と、江戸から出る女は、きびしく調べられた。鉄砲の取り調べは、反乱を恐れて(おそれて)、のことである。江戸から出る女は、参勤交代で人質として江戸に住まわせた女である、大名の妻が、こっそり江戸から故郷(こきょう)へ帰国(きこく)することを恐れて、である。

「入り鉄砲に出女」(いりでっぽうに、でおんな)と言われ、これら2つは、きびしく調べられた。


街道には、旅行者が寝泊まり(ねとまり)するための宿場(しゅくば)が、もうけられ、宿場町が発達した。

大名(だいみょう)や幕府の役人のとまる宿(やど)である本陣(ほんじん)や、ふつうの武士のとまる脇本陣(わきほんじん)や、一般の旅行者が泊まる旅籠(はたご)が、もうけられた。

宿場の周辺の人々には、役人などのため人手をかす負担があって、この負担を 助郷(すけごう) という。

東海道には53の宿場があり、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)と言われた。


街道には、通行者が場所をわかりやすいように、並木(なみき) や 道しるべ が、もうけられた。また街道の道のりの約4キロメートルごとに一里塚(いちりづか) が、もうけられた。一里(いちり)とは、長さの単位(たんい)であり、今でいう約4キロメートル。


  • 通信の発達。飛脚(ひきゃく)

郵便物をとどけるため、人が走ったり馬をつかって運ぶ飛脚(ひきゃく)の仕事が発達した。

幕府が管理する飛脚を 継飛脚(つぎひきゃく) という。町人のあいだでは 町飛脚(まちひきゃく) が利用された。

都市の発達[編集]

江戸時代に商業の中心的な都市は、江戸と大阪です。江戸と大阪と京都を三都(さんと)という。

江戸

将軍のいる江戸城の城下町なので、江戸は「将軍の おひざもと」と言われました。江戸時代なかごろの18世紀には、人口が100万人をこえる大都市になった。

大阪

全国から年貢や特産物が集まり、商業のさかんな街である。年貢を現金化する蔵屋敷(くらやしき)があり、各藩の大名の蔵屋敷が大阪にあった。大阪は「天下の台所」と言われた。

貨幣は、江戸と大阪で違っており、江戸では主に金が用いられ、大阪では主に銀が用いられた。そのため、両替商が金銀の交換を行った。

その他の都市

京都

天皇の住む皇居(こうきょ)があり、寺社も多い。伝統文化の中心地だった。西陣織(にしじんおり)や清水焼(きよみずやき)などの工芸品の産地でもある。


都市では、商業の発達にともない、商人たちが同業者の組合である株仲間(かぶなかま)が結成されていった。 株仲間は、幕府の許可のもと、営業を独占するかわりに、税を納めた。

商人には、大名にも金をかすほどの有力な商人もあらわれ、江戸の三井(みつい)家や、大阪の鴻池(こうのいけ)家などの有力な商人が現れた。


5代将軍の徳川綱吉(とくがわ つなよし)[編集]

4代将軍〜5代将軍のから、幕府は財政が悪化していき、財政のあまり良くない状況が、江戸時代の終わりまでずっと続きます。 江戸時代には貨幣が普及していきますが、田畑の収穫が急にふえるわけでもなく、そのくせ人口はふえるし、鉱山から採れる金銀の量もへっていきますので、今の時代から見れば財政がわるくなっても当然です。

5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)は、動物を極端に保護する、生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)を出した。

綱吉が、いぬ年の生まれで、特に犬を保護したので、犬公方(いぬ くぼう)と大衆から呼ばれて、きらわれた。 令を出した理由は、一節には、綱吉には、子がなく、僧からのすすめで、殺生を禁じたら子ができる、と僧にすすめられ、とくに犬を大切にすれば子ができるとすすめられたらしいのが、令を出した理由だと言われている。


儒学などの学問に力を入れた。湯島に孔子(こうし)をまつる聖堂(せいどう)を立てる。儒学の中でも、とくに朱子学(しゅしがく)という学問を重んじた。朱子学は身分秩序を重んじるため、幕府にとって都合がよかった。

前将軍のときの火事の、明暦の大火(めいれきのたいか)での費用がかさむなどが、財政悪化の理由の一つです。


金貨・銀貨にふくまれる金・銀の量をへらした貨幣を発行したが、貨幣の信用がさがり、そのため物価(ぶっか)が上がった。

  • 発展的事項: 貨幣の質と、物価についての解説

現代でも、一般に、貨幣の信用が下がると、物価が上がります。

江戸時代は貨幣の信用のうらづけは、金貨や銀貨にふくまれている金・銀なので、貨幣の中の金銀のわりあいを減らせば、商人が物を売るときに今までと同じ金・銀を手に入れるには値段を上げなければ金銀の量が前と同じになりません。

なので、貨幣の質をさげると、物価が上がってしまいやすいのです。

※ 教科書には「物価が上がったから不況になった」とは書かれてないことに気をつけよう(そういう教科書もあるかもしれないが)。現代の経済政策では、不景気のときの対策として、貨幣の価値をさげることで、取り引きを一時的に活発にして不況を脱しようという手法がある。(なぜ貨幣の価値をさげると取り引きが活発化するかは、中学3年の公民や高校『政治経済』などで習う。)

ただし、綱吉の政権がそこまで経済政策に詳しかったかどうかは、まだ未解明である。歴史学者が研究中であるので、中学生は深入りしなくていい。

(発展的事項、おわり。)

  • 雑談

綱吉が、このように儒学などの学問を重んじた理由や、あわれみの令を出して殺生(せっしょう)をきらった理由としては、一節には、家康からの軍事力にたよった武断(ぶだん)的(てき)な政治をあらためるためかも?・・・という説も今では言われています。しかし、家康のころから朱子学を重んじてはいましたので、綱吉のねらいがコレかどうかは、わかりません。

(雑談、おわり。)

新井白石(あらい はくせき)の改革[編集]

新井白石(あらい はくせき)

新井白石(あらい はくせき)は、綱吉のあとの、6代所軍の家宣(いえのぶ)に使え、7代将軍の家継(いえつぐ)に仕えた儒学者である。

新井白石は、綱吉のときに質の低下した金貨・銀貨の質をもとの質にもどした。また、貿易で金銀が外国に流出していたので、長崎貿易に制限を掛け、金銀の海外流出をおさえた。この白石の政治(せいじ)を、正徳の治(しょうとく の ち)という

綱吉の生類あわれみの令は、白石によって廃止(はいし)されます。