中学校社会 歴史/江戸時代のおわり
大政奉還(たいせいほうかん)
[編集]幕府の15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、1867年10月に二条城にて政権を朝廷にかえしました。土佐の藩主の山内豊信(やまのうち とよしげ)などが慶喜に朝廷に政権を返すことを助言しました。
この出来事のことを、つまり徳川幕府が朝廷に政権を返したことを大政奉還(たいせい ほうかん)と言います。
こうして、江戸幕府の約260年の時代は終わりました。
倒幕派は、幕府の再興をきらったので、政治を古来の天皇中心の政治にもどそうとして、王政復古の大号令(おうせいふっこの だいごうれい)を1867年12月に出した。
戊辰戦争(ぼしん せんそう)
[編集]鳥羽伏見の戦い(とばふしみ の たたかい)
[編集]慶喜は、新政府から領地の一部を国に返すように命じらた。また、慶喜の政治への参加が認められなかった。旧幕府はこれに反発し、京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で戦い1868年に起こし、旧幕府軍と新政府軍との戦いになった。この戦いを、鳥羽・伏見の戦い(とばふしみ の たたかい)と言う。この鳥羽伏見の戦いで幕府軍はやぶれた。
江戸城の無血開城(むけつ かいじょう)
[編集]新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍をやぶり、西郷隆盛ひきいる新政府軍は江戸へと進み、1868年に江戸城を戦わずにして開城(かいじょう)させた。無血開城(むけつかいじょう)という。江戸城の開城の交渉では、倒幕派の西郷隆盛(さいごう たかもり)が、幕府の勝海舟(かつ かいしゅう)とが話し合った。
東北の平定と、北海道の平定
[編集]会津藩(あいづはん、今でいう福島県)は、江戸城の開城を不服とし、新政府軍とは対立した。また、東北の諸藩も、会津を支援した。江戸をおさえた新政府軍は北上し、会津藩の城を次々と落としていき平定していった。
会津の戦いでは、16歳~17歳の会津藩士の若い少年兵からなる白虎隊(びゃっこたい)が、会津藩が戦いにやぶれ、城下に火が上がるのを見て、自決した。
旧幕府軍は、会津の他にもいたので、新政府軍は、さらに北上し、新政府軍は1869年に北海道の函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)にたてこもった幕府軍をやぶり、榎本武明(えのもと たけあき)らのひきいる旧幕府軍は負けをみとめ降伏(こうふく)した。この江戸の北上から五稜郭までの一連の戦争を戊辰戦争(ぼしんせんそう)という。
戊辰戦争が終わり、新政府軍は日本国内を平定した。