中学校社会 歴史/満州事変

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満州事変[編集]

中華民国の状況[編集]

蒋介石(しょう かいせき)

中華民国では、孫文の亡くなったあと、国民党で権力闘争が起き、その闘争に勝った蒋介石(しょう かいせき)が支配していた。蒋介石によって国民党が支配された後、国民党による中国大陸の統一を目指した武力行動によって中華民国内での国民党の勢力が広まっていき、この国民党と日本とのあいだで、満州の権益をあらそうことになっていった。

いっぽう、蒋介石の権力に不満のある軍閥は、共産党(きょうさんとう)という、国民党とはべつの勢力に加わっていくことになる。


満州事変[編集]

満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。
満州国の建国時のポスター。 「五族協和」をうたっており、そのため、右から順に日本・モンゴル族・満州族・朝鮮族・漢民族が書かれている。

中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1932年に満州国(まんしゅうこく)が強行的に建国されます。

満州事変にいたるまでの経緯[編集]

殺された、張作霖(ちょう さくりん)

中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」などというようなことを主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた。

満州を支配していた中国人は、張作霖(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。

満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。


いっぽう、中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。蒋介石は、アメリカ・イギリスとの外交を重視した。

蒋介石は、中国の統一を目指し、張作霖ひきる北京政府を倒す戦いを始めた。この蒋介石のたたかいを 北伐(ほくばつ) と言う。

蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は日本の一部の軍人の陰謀により爆殺される。張作霖が、日本のいうことを聞かなくなってきたので、かれを殺害しようとする陰謀だった。

この爆殺事件を「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりん ばくさつじけん)などと言う。


だが結果的に、陰謀は裏目にでる。張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本に反発し、蒋介石ひきいる国民党に合流することになる。

日本政府は、犯人の軍人たちを、きびしく罰しなかった。そのせいで、のちに軍人たちが政府や議会のいうことを聞かなくなっていく。


日本は直接は満州を支配せず、張作霖などを通して満州への影響力をもっていた。

満州の実効的な支配をめぐって、日本の軍部と蒋介石と張一族などの軍閥とが、あらそった。

満州の住民は、だれも支配者を選挙で選んでいない。日本の進出が満州住民からは選挙で選ばれてない。


日本は、はじめは、まだ満州を占領していない。

満州事変[編集]

満州現地の日本軍の関東軍(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。

溥儀(ふぎ、プーイー)

日本軍は、満州を占領する口実をもうけようとして、満州の日本軍は自作自演(じさくじえん)の事件を起こさせた。

どういう事件かというと、柳条湖(りゅうじょうこ、リウティアオフー)ちかくの南満州鉄道(みなみ まんしゅう てつどう)の線路を爆破した事件である。この自作自演の事件を 柳条湖事件(りゅうじょうこ じけん) と言う。

日本軍である関東軍は、この柳条湖事件を中国側のしわざだと断定し、奉天などの都市を占領し支配下においた。 そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。


しかし、満州は表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。 このことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを「傀儡(かいらい)政権」とか「傀儡国家」などと言われることが多い。傀儡(かいらい)とは、操り人形(あやつりにんぎょう)のことである。


このとき日本本土(ほんど・・・満州や朝鮮などの「外地」に対し、本州などを「本土」と言う。)の政府は、中国とは戦争をしない方針だった。なぜかというと、イギリスが中国を支持していたため、イギリスと戦争したくない日本政府は、中国とも戦争しない方針だった。

しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった 溥儀(ふぎ) を、満州国の元首(げんしゅ)にさせた。

この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を 満州事変(まんしゅう じへん) という。


満州事変では、宣戦布告(せんせん ふこく)が無いので、「戦争」とは言わずに「事変」(じへん)と言います。


当時の中華民国は、満州国の建国をみとめずに、日本と対立した。

(※ このような満州国の正当性をめぐる対立という背景のため、検定教科書では、満州のことを「満州」あるいは「満州国」 のようにカギ括弧つきで表現する教科書出版社も多い。ちなみに当時の中華民国は皮肉たっぷりに「新 満州国」などと言ってる。 後述するリットン調査書に、「新 満州国」のような中華民国による呼び方の報告がある。 )
※ 満州事変の意図を、「不況解決策として植民地拡大のために満州事変が行われた。」と見なす解釈について。 
日本軍の満州事変の意図の別の解釈として、世界恐慌にともなう日本の経済危機の解決策として、「日本の軍部が大陸への経済ブロックを確立しようと、中国への権益の支配および拡大を目指して、満州事変を起こした。」というような観点での解釈もある。たとえば高校教科書の「詳説 世界史B」(山川出版社、2012年検定版)では、だいたい、そのような感じの解釈が取られている。
現在でも、この山川出版のような、不況解決策として日本軍が満州事変を起こしたと解釈を取る学者や評論家も多い。このような「満州事変は、日本の不況解決策」という解釈も通説・定説の一つであり、読者の中学生は頭の片隅(かたすみ)に入れておく必要があるだろう。

五・一五事件(ご・いちご じけん)[編集]

五・一五事件を報じる朝日新聞
犬養毅(いぬかい つよし)。犬飼は、おそってきた将校に「話せば分かる」と語ったといわれている。将校は「問答無用」(もんどうむよう)と答えてから犬飼を殺害したらしい。

このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。首相の犬養毅は、満州国の承認には反対していた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校(しょうこう)らが総理官邸に乱入して、首相の犬養毅(いぬかい つよし)を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が首相を殺害した殺人事件を 五・一五事件(ご・いちご じけん) と言う。

犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強かったので、犯人の軍人への刑罰を軽くした。(このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになる。)


首相だった犬養毅が死んでしまったので、つぎの首相を決めることになり、そして次の首相は齊藤実(さいとう まこと)に決まった。斉藤は海軍出身であった。

そして斉藤内閣は、満州国を承認した。

犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在(2014年)の学校教科書などでは、このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わった、と言われることが多い。

リットン調査団と日本の国際連盟脱退[編集]

中華民国の上海に到着(とうちゃく)したリットン調査団
柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。
リットン。第2代リットン伯爵(リットンはくしゃく)、ヴィクター・ブルワー=リットン Victor Bulwer-Lytton

中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになったので、イギリス人の リットン を委員長とする調査団の リットン調査団(リットンちょうさだん、英:Lytton Commission) が満州におくられた。


調査の結果、リットン調査団は、日本の主張を、みとめなかった。

調査団の報告と分析は、つぎのようなものであった。

・ 調査の結果、満州族の住民による自発的(じはつてき)な独立運動では、無い。
・ よって、満州の独立は、みとめないべきである。
・ 日本は、事変以後の占領地からは、兵を引きあげるべきである。
・ しかし、日本の(鉄道権益などの)事変前からの権益は正当なものであり、保護されるべきである。
・ 日中の両国とも、国際連盟の加盟国であり、したがって両国の権利は公平に尊重されるべきである。


※ 教育出版、自由社、育鵬社の教科書に、リットン調査団が日本の満州での権益を認めたことが書かれている。

日本の世論および政府は、リットン報告書(リットンほうこくしょ、英:Lytton Report)が満州国の建国をみとめるべきでないと主張してることからリットン報告を日本に不利な内容とおもい、報告書の提案に反発した。

1933年の、日本の国際連盟からの脱退を報じる新聞記事。(1933年2月25日)

日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。

しかし、この間にも、満州では陸軍が占領地を拡大していき(熱河作戦、ねっかさくせん)、こうして日本は国際的な信用をうしなってしまい、日本は国際的に孤立していき、ついに日本は1933年(昭和8年)3月に国際連盟から脱退した。

なお、ドイツも翌1934年に国際連盟を脱退する。このように主要国である日本とドイツが脱退してしまったので、国際連盟は紛争の調停の場所としての役割が弱まってしまう。

※参考 国際連盟では満州国建国の自発性が否定されたとは言っても、満洲国は日本以外にも、いくつかの国家から国家として承認を受け、外交関係が結ばれた。のちにドイツやイタリアが満州国を承認(しょうにん)したほか、フィンランドやタイやクロアチア、スペインやバチカン、デンマークをはじめ20か国が満州国を承認した。
※参考 また、日本と中国とのあいだで、1933年5月には停戦協定がむすばれ、満州事変は、ひとまずは、おわった。


※参考 現代の評論家の一部には、1931年の満州事変から、1945年の第二次世界大戦の終わりまでの15年間を、「15年戦争」(じゅうごねん せんそう)などと言う評論家もいるが、実際にはこの15年間には停戦期間などもあるので、歴史学的には「15年戦争」という解釈は、あまり受け入れられていない。また、中学校教育では「15年戦争」の語は用いられない。

さて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。当時は世界恐慌の影響がある時代だったが、日本では、国策(こくさく)による満洲関連の投資や、軍需産業への投資などが始まり、日本では、あらたに成長する新興(しんこう)の財閥(ざいばつ)があらわれた(いわゆる「新興財閥」)。 (※ 新興財閥についても、中学の範囲。帝国書院の教科書に記述あり。)

しかし農村では、ひきつづき不景気が続いていた。

日本政府は満州を「王道楽土」(おうどう らくど)「五族協和」(ごぞく きょうわ)などと宣伝した。また、満州を開拓するための満蒙開拓団などを募集したので、日本から多くの移住者が満州に移り住んだ。そのほか、朝鮮や中国など周辺の地域からも多くの者が満州に移住した。


二・二六事件[編集]

二・二六事件
昭和の二・二六事件のときの、反乱軍に投降を呼びかける政府広告。

犬養の後継の首相は、軍隊出身の元・海軍大臣で穏健派の斉藤実(さいとう まこと)首相になったが、それでも軍隊の暴走は収まらなかった。斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらず、斎藤内閣は反対派の陰謀とも噂される疑獄事件(ぎごくじけん)により倒れ、1934年同じ海軍出身の岡田啓介(おかだ けいすけ)が首相に就任し組閣した。

そのような中、ついに陸軍の青年将校の一部が、1936年2月26日に兵数1400人ほどの部隊を率いて反乱を起こし、首相官邸や警視庁などを襲って(おそって)、大臣らを襲った。首相の岡田啓介は一命をとりとめたものの、前首相の斎藤実と蔵相の高橋是清(たかはし これきよ)は、反乱軍によって殺害された。


反乱軍は名目として、日本の不況や国難の原因を政党と財閥による腐敗政治だと唱え、天皇中心の革命をかかげた。だが、天皇は反乱を認めずに、正式の軍隊に反乱軍の鎮圧を命じた。

この反乱は、正式の軍隊によって鎮圧された。

しかし、国民や新聞の多くは、青年将校たちの反乱を賞賛した。不況を解決できない政党への国民の不振や、満州での様々な反日暴動などを解決できない政党への不振から、国民や新聞などは青年将校の反乱を賞賛した。このため、以降の政治では、軍部の発言力が強まっていく。

一部の政党政治家も、政争を自分たちの党に有利に進めるために、国民による軍部の支持を利用して、軍部に理解をしめしたので、議会が軍部につけこまれる原因をつくってしまった。


また、議会でも国際協調路線の政治家の発言力が弱まっていく。軍部内でも、外国に対して強硬的な方針の者の発言力が強まり、国際協調などの路線の発言力は弱まっていく。


そして、軍部に反する言論が取り締まりを受けることになっていった。


大正デモクラシーの自由主義的な風潮から一転して、昭和初期の日本では、議会の制度はあったものの、しだいに、まるで軍部の支配する国のようになっていく。

ワシントン体制の崩壊[編集]

日本は、ワシントンの軍縮条約、ロンドンの軍縮条約を、アメリカやイギリスと結んでいたが、1936年に軍縮条約が期限をむかえるのに合わせ、軍縮条約を破棄してしまう。こうして、日本は軍備を増強していく。いっぽう、英米の主導する国際社会からは、日本は孤立していく。

なお、国際連盟からは、日本とドイツはすでに脱退している。

こうして、第一次大戦後の国際体制の「ワシントン体制」は崩壊(ほうかい)していった。

当時の日本経済[編集]

1930年代の当時の日本経済は、世界恐慌の影響で不況ではありましたが、ドルに比べて円安だった時期があって、綿製品や雑貨などが一時的に輸出でよく売れましたが、その後、欧米諸国が日本製品の関税を引き上げました。

いっぽう、日本では政府が軍需産業に投資を行ったので、重化学工業が発達しました。