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中学校社会 歴史/隋と唐

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

このページでは、6~7世紀前後の中国のようすについて紹介します。学校では学習しない範囲が多く含まれているので、注意してください。

隋

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 ※ほとんどの教科書には、隋そのものについての詳しい記述はありません。

隋のはじまり

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中国は、五世紀から六世紀にかけて南北に分裂していました。589年、分裂していた中国を一つにまとめたのが、隋(ずい)です。
隋を建国した楊堅(ようけん)は、「科挙(かきょ)」という官僚を選ぶ試験を作りました。この科挙は、20世紀まで1000年以上行われました。

隋の滅亡

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7世紀はじめ頃のアジアのようす

楊堅に続いて隋を支配した皇帝が、煬帝(ようだい)です。

煬帝は、高句麗遠征(高句麗との戦争)を三回も行い、この遠征のために大運河の建設も進めました。
しかし、遠征は失敗。このために重税を課された人々は 次々に反乱を起こし、中国は内乱状態になります。
結局、都の大興(のちの長安、西安)は、隋の武将であった李淵(りえん)に攻め落とされ、そのすぐ後に隋は滅亡しました。

唐

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 ※学校では学習しない範囲が含まれています。

唐のはじまり

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隋を滅ぼした李淵は、618年に唐(とう)という国を建国し、皇帝になって国を治めました。その後、李淵に続いて皇帝に即位した太宗(たいそう)は、628年に中国の統一を達成します。

唐の拡大

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唐が拡大していくようす

太宗は、当時モンゴル草原を支配していた「東突厥(ひがしとっけつ)」という国を侵略し、支配下に入れました。
三代目の高宗(こうそう)という皇帝は、東突厥の西にあった「西突厥(にしとっけつ)」や朝鮮半島の「高句麗」「百済」を滅ぼし、唐を拡大させていきました。

国際都市・長安

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長安の大雁塔(だいがんとう)
現在の西安(かつての長安)のようす。

中央アジアから朝鮮半島まで領土を広げた唐。唐の都は長安(ちょうあん)(現在の西安)に置かれました。

当時のユーラシア大陸には、地中海から西アジア、中国までを結ぶ「シルクロード」という巨大な交易路がありました。 シルクロードでは、中国の特産品である絹をはじめ、香辛料や金貨・宗教や音楽といった文化も各地に伝えられました。

シルクロードの東に位置する長安には、それらの交易品や文化・技術が集まり、人口百万人を超える国際都市として繁栄しました。

また、シルクロードを通してイスラム教の国々と貿易を行っていた唐では、長安や洛陽(らくよう)・広州(こうしゅう)などの中国の都市でムスリム商人(イスラム教を信じている商人)が活発に活動しました。

唐の律令

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唐では、律令(りつりょう)によって次のようなことが制定されました。
ちなみに、律令の律は「刑法」、令は「政治に関する法」を表します。律令の一部は、日本でも取り入れられました。

・均田制(きんでんせい)
 国が国民に土地を貸し、そこで収穫した作物の一部を国に納めさせる制度。日本では「班田収授法」として取り入れられた。
・租調庸制(そちょうようせい)
 国から土地を借りた国民が、租(作物)・調(絹織物・綿)・庸(都での労役)を国に対して治める制度。税制。
・府兵制(ふへいせい)
  国から土地を借りた国民から、兵士を集める制度。今でいう「徴兵制度」のようなもの。
・科挙(かきょ)
 隋の頃から始まった、官僚を選ぶための試験。