中学校社会 歴史/飛鳥・奈良時代の農民の暮らし
課題
[編集]この時代の人々のくらしはどのようなものだろう。
公地公民はどのように崩れたのだろう。
農民のくらし
[編集]- 班田収授(はんでんしゅうじゅ)
人々の身分は良(りょう)と賤(せん)に分かれていました。「賤」は奴隷などのことで、いわゆる「奴婢」(ぬひ)です。男の奴隷が奴(ぬ)で、女の奴隷が婢(ひ)です。奴婢は、売買もされたという。 「良」の人々の多くは、いわゆる農民などのことです。奴婢は全人口の1割ほどで、奴婢以外との結婚を禁じられるなどの差別を受けていました。
政府は人民を管理するために戸籍(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための口分田(くぶんでん)という田を与え耕作させます。
この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。
この奈良時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。
このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。
現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。
詔の本文に、「初造戸籍計帳班田収授之法。」とあります。現代風に読みやすく区切りを入れれば、「初 造 戸籍 計帳 班田収授之法。」とでも、なりましょう。
目的は、収穫から税収をとるためです。前提として、公地公民が必要です。
6年ごとに人口を調査します。
税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。女にも口分田(くぶんでん)が与えられます。
原則として、6才以上の男女に田を与えます。男(6才以上)には2反の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2の田を与えています。5才以下には与えられません。
6年ごとに更新されるため、詳しく言うと、6才から11才までの間に田を与えられる、ということになります。
死んだ人の分の田は、国に返します。
これらの制度を班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)と言い、これは唐の均田制(きんでんせい)に習った制度です。
- 租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)
種類 | 内容 | |
---|---|---|
税 | 租 | 収穫の約3%の稲 |
調 | 地方の特産物(糸、絹、真綿、塩、 魚、海藻、鉄、・・・)などを納める。 | |
庸 | 麻の布を納める。(労役の代わり。) | |
出挙 | 強制的に稲を農民に貸し付け。 5割の利息を農民が払う。 | |
労 役 |
雑徭 | 土木工事など。年間60日以内。 |
運脚 | 税(租庸調)などを都へ運ぶ。 | |
兵 役 |
衛士 | 都で兵士を1年。 |
防人 | 九州北部で兵士を3年。 |
税(ぜい)の種類です。
租(そ)とは、田の収穫量の、およそ3%の稲 を国に納めよ(おさめよ)、という税です。 調とは、絹や地方の特産物を国に納めよ、という税です。
庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。
前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。
これとは別に、出挙(すいこ)という、国司が強制的に農民に春に稲を貸し付けて、秋に5割の利息を農民から取る制度があり、税のように考えられていました。
この他、一般の人々の負担には兵役(へいえき)や労役(ろうえき)などがあり、兵役では防人(さきもり)として3年間ほど九州に送られたり、衛士(えじ)として都の警備を1年間 させられました。
労役では、雑徭(ぞうよう)として土木工事などの労働を60日以内(1年あたり)させられたり、運脚(うんきゃく)として庸・調を都まで運ばされました。
農民の負担が重い一方で、貴族は税などを免除されました。
- 国・郡・里
国 (国司) ┃ 郡 (郡司) ┃ 里 (里長)
政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。
国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。
郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。
- 税について。墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう)
この時代に農民は貧しくて、税の負担は重く生活が苦しく、多くの農民は竪穴建物に住んでいた。山上憶良(やまのうえの おくら)のよんだ貧窮問答歌(ひんきゅう もんどうか)には、このころの農民の苦しい生活のさまが歌われている。
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- 貧窮問答歌(要約)
- 人並みに田畑の仕事で働いているのに、服はボロボロなのを着ていて、家はつぶれて曲がっているようで、地面にはワラを直接に敷いている。父母は私のマクラのほうで嘆き悲しみ、妻子は私の足のほうで嘆き悲しんでいる。かまどには煙も立てられず、こしき(米の蒸し器)にはクモが巣を張り、飯をたくことも忘れてしまったというのに、それでもムチを持った里長(さとおさ)が税を取り立てようとする声が、寝屋まで聞こえる。こんなにも、つらい事なのか、世の中に生きることは。
- 世の中を 憂しとやさしと 思えども 飛び立ちかねつ とりにしあらねば
- (世の中を、つらくて身もやせるほどだと思っても、鳥では無いから、飛び立つこともできない。)
また、人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。
朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年(
さらに743年(
これは、つまり公地公民の原則を廃止したことになる。
また、貴族や豪族は、これを利用し、私有地を広げた。この貴族の私有地は、のちに 荘園(しょうえん) と呼ばれることになる。
- 貨幣(かへい)、和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)
経済では、この奈良時代の都では、和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)という貨幣が708年(和同元年)に発行され、流通していました。 これより古い貨幣には、7世紀後半の天武天皇の頃に富本銭(ふほんせん)という貨幣がつくられています。