中学校社会 歴史/高度経済成長と日本の役割

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高度経済成長と東京オリンピック[編集]

高度経済成長[編集]

朝鮮戦争による特需による好景気もあり、日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまで、もどった。 1956年に政府が出した経済白書では「もはや戦後ではない。」とまで書かれている。

1950年代のなかごろから重化学工業が発達していった。

池田勇人(いけだ はやと)

1960年に、内閣の池田勇人(いけだ はやと)首相は、「所得倍増計画」(しょとくばいぞう)を目標にかかげた。 好景気により、日本人の所得は増え、1968年には所得が倍増し、目標が達成された。 この好景気は1970年代の前半まで、つづく。

「三種の神器」(さんしゅのじんぎ) 白黒テレビ・電気式洗濯機・電気式冷蔵庫の3つの製品が普及し、「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が「三種の神器」と言われた。

この1960年〜1970年代ころの好景気による日本の経済力の成長のことを、高度経済成長(こうど けいざいせいちょう)と言う。


東京オリンピック。10,000メートルで優勝したミルズ(アメリカ)

東京オリンピックと万国博覧会[編集]

アジアで最初のオリンピック(Olympic)が、1964年に東京で開かれた。(東京オリンピック)

また、東京オリンピックに合わせて新幹線(しんかんせん)もつくられ、東海道新幹線(とうかいどう しんかんせん)が開通した。

大阪での万国博覧会。

1970年には、大阪で万国博覧会(ばんこくはくらんかい、英: Universal Exposition, 仏: Exposition universelle)が、ひらかれた。

沖縄返還[編集]

1972年に沖縄は日本に返還された。

日本の外交[編集]

台湾との断交、人民共和国との国交[編集]

アメリカはソ連との冷戦を有利にすすめるため、中国大陸を支配している共産党の政府である中華人民共和国の政府と、1960年代ごろからアメリカは友好をむすんだ。

アメリカに軍事的に守られている日本も、このような国際的な流れに乗り、1972年の田中角栄(たなか かくえい)内閣のときに、日本は、それまで承認していた台湾の中華民国にかえて、中国大陸の中華人民共和国の政府を承認した。これにともない、日本は一方的に台湾の中華民国政府との国交を断絶した。

1952年に日本と国民党の中華民国とのあいだにむすばれていた日華平和条約(にっか へいわじょうやく)があったのだが、日本は一方的に、この日華平和条約を破棄(はき)したのである。

なお、2013年では、中華民国を国家承認している国家は22カ国である。

さて、1970年代の話に、もどる。 日本は台湾を無視し、人民共和国と日本とのあいだで、一方的に日中共同声明(にっちゅうきょうどうせいめい)を1972年に発表した。また1978年には、やはり台湾との友好を無視し、日本と中華人民共和国とは一方的に日中平和友好条約(にっちゅう こっこうゆうこうじょうやく)を結んだ。

日本では、これら一連の人民共和国との友好化のために台湾を見捨てた政策は、一方的に「日中国交正常化」(にっちゅう こっこう せいじょうか)とか「日中国交回復」(にっちゅう こっこう かいふく)などとして正当化された。


2015年の時点では、台湾の「中華民国」は、日本政府は承認していない国である。

韓国との国交[編集]

朝鮮半島の大韓民国とは、1965年に日韓基本条約(にっかん きほんじょうやく) により、日本と韓国との国交が回復した。 なお、北朝鮮とは、2015年の時点では、まだ日本との国交は、むすばれていない。

備考[編集]

「もはや戦後ではない」

1955年の経済白書に「もはや戦後」ではないと書かれたことで、日本の復興を宣言していると思うかもしれない。そういう側面もあるかもしれないが、じっさいに白書の前後の文章を読んでみると、じつは、だいぶ意味合いが違っている。

じっさいの文章には、「もはや戦後ではない」は、以下のように文章がつづく。

「もはや戦後ではない。われわれは今や異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。」

(中略)

「新しきものの摂取は常に抵抗を伴う。」(中略)「近代化--トランスフォーメーション--とは、自らを改造する過程である。その手術は苦痛なしにはすまされない。明治の初年我々の先人は、この手術を行って、遅れた農業日本をともかくアジアでは進んだ工業国に改造した。その後の日本経済はこれに匹敵するような大きな構造変革を経験しなかった。そして自らを改造する苦痛を避け、自らの条件に合わせて外界を改造(トランスフォーム)しようという試みは、結局軍事的膨張につながったのである。 」

(中略)

「我々は日々に進みゆく世界の技術とそれが変えてゆく世界の環境に一日も早く自らを適応せしめねばならない。もしそれを怠るならば、先進工業国との間に質的な技術水準においてますます大きな差がつけられるばかりではなく、長期計画によって自国の工業化を進展している後進国との間の工業生産の量的な開きも次第に狭められるであろう。」

(中略)

「このような世界の動向に照らしてみるならば、幸運のめぐり合わせによる数量景気の成果に酔うことなく、世界技術革新の波に乗って、日本の新しい国造りに出発することが当面喫緊の必要事ではないであろうか。 」

と1955年の経済白書に書かれたのである。