中学校社会 歴史 旧石器時代から縄文時代へ

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課題[編集]

日本列島の人々はどのような生活をしていたのだろう。

日本列島の生活や文化の様子は、どのように変化していったのだろう。

氷河時代の日本[編集]

オオツノシカ骨格標本。

今から数万年も前の氷河時代(ひょうがじだい) には、地上には、今よりも多く氷った土地があり、そのため海水面が今よりも低く、我が国は大陸(たいりく)と地続きでした。 ナウマンゾウオオツノジカ や マンモス などの動物も、我が国にやってきました。(※「オオツノジカ」とは、大きな(つの)鹿(しか)だから、オオツノジカという。)


ナウマンゾウなどの骨の化石が、我が国で発見されています。野尻湖では、ナウマンゾウとオオツノジカの化石が発見されています。

この時代の気候については、植物の化石からも、地層などから、寒い地域に多い木の花粉の化石が多く見つかっており、今よりも気候が寒冷だったらしいことが分かっています。

マンモスの復元模型
(※ マンモス: 更新世後期の寒冷期にシベリアから北海道に渡来した亜寒帯動物郡の象。同じ頃エゾシカ・ヘラジカなども来ました。)

3万年前[編集]

3万年前には、日本列島に人間(新人)がやってきていました。まだ、石器時代であり、 打製石器(だせい せっき) を使っています旧石器時代(きゅうせっきじだい)です。

当時の人間の生活は、大型動物の狩りをしたり、木の実などを採集していました。

我が国にも、旧石器時代があったことが、考古学の調査により、知られています。 この時代は、まだ土器は作られておらず、先土器時代(せんどきじだい)ともいいます。

住居は、簡単なつくりの小屋や、洞窟(どうくつ)など暮らしていました。

まだ、きちんとした農業は、始まっていません。そもそも、人々は、一つの場所には定住せず、えもの の動物を追って、移り住んでいたと考えられており、したがって農業をする必要もありません。

  • 岩宿遺跡(いわじゅくいせき)

群馬県の 岩宿遺跡(いわじゅくいせき)からは、三万年前の地層と二万年前の地層から、打製石器のかけらが見つかっています。

岩宿遺跡(いわじゅくいせき)の石器は1946年に発見されました。青年の相沢忠洋(あいざわただひろ)により、発見されました。 相沢により、群馬県の関東ローム層の地層から、石器のような、黒曜石(こくようせき)のかけらが発見されます。

相沢は、この石の破片を、大学に調査してもらおうと思い、明治大学(めいじだいがく)に石の破片()調査(ちょうさ)依頼(いらい)しました。(※ 学校名の「明治大学」は、覚えなくて良い。) 明治大学などの学者の調査で、この遺跡が一万年以上前の遺跡であることが分かり、我が国に旧石器時代があったことが証明されます。


人類は 猿人 原人 新人 の順番

2万年前〜[編集]

約2万年前ごろから、気候が温暖になりはじめました。

約1万年前〜[編集]

縄文土器(じょうもんどき)

そして約1万年前には、ついに氷河時代が終わり、南極や氷河の氷が溶けて、海水面が上がっていました。海水面の上昇により、日本列島が大陸(ユーラシア大陸)から切り離され、ほぼ現在の形になっていました。

我が国では、ナウマンゾウやオオツノジカは、絶滅しました。

この時代に、西アジアなどを中心に世界では農業が始まりました。気候が暖かくなったこともあり、農作物が育ちやすくなったと考えられています。 また、土器も、世界では作られ始めました。

縄文時代[編集]

我が国でも、しだいに農業や土器の生産が始まっていきました。農業では、クリなど、実のなるものを栽培していました。クリやドングリなどを食料にしていました。植物の栽培など、原始的な農業は始まっていたが、まだ本格的な農業は、この時代には始まっていないと考えられています。

我が国の土器は、食料の煮炊きや、保存などのために用いられました。ドングリなどを煮炊(にた)きしていました。 (ドングリは、煮て、アクを抜かないと、食べられません。クリは、アクがないので、煮なくても食べられます。)

我が国の、このころの土器は、表面に縄の文様がついているので、縄文土器(じょうもんどき)と言われます。 そして、我が国での、この時代を縄文時代(じょうもんじだい)といいます。

弥生(やよい)時代の竪穴住居(復元、吉野ヶ里遺跡)。
※ 縄文時代とは別の時代(弥生時代)の画像です。画像を代用しています。

縄文時代の人の家の建物(たてもの)は、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)といって、地面に穴をほりさげたあとに、柱を立てて、草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。

加曽利貝塚(かそり かいづか)、北貝層断面

縄文人の集落が あったとおもわれる場所からは、貝がらが多い場所が、たくさんでてきます。

この貝がらが多くある場所を貝塚(かいづか)と言います。

縄文時代の石器には、打製石器の他に、表面を(みが)いた磨製石器(ませいせっき)が見つかっています。 また、矢じりの石器などが見つかっており、弓矢が作られていたらしいことが分かっています。この時代は、弓矢による狩りでは、動きの素早いシカやイノシシなどの中型の(けもの)を狩っていたと思われています。

磨製石器は、石の槍先(やりさき)や、石の矢じり、(おの)などに使われています。

動物の骨でつくった 骨角器(こっかくき)という刃物も、みつかっています。 骨角器でつくった()(ばり)や もり(水中の魚を突き刺す武器) なども、見つかっています。

打製石器を旧石器ということがあるように、磨製石器を新石器(しんせっき)とも言います。

この時代の住まいとして、穴に柱を立てて、草や木の枝で屋根を作っただけの竪穴住居(たてあなじゅうきょ)が出てきました。

土偶(どぐう)。亀ヶ岡遺跡で出土

縄文の遺跡(いせき)からは、土偶(どぐう)という土を焼き固めて作られた、女性のような形の人形が見つかる場合があります。 土偶(どぐう)は、食料が増えることを(いの)ったり、女性の安産をいのったものだと考えられています。


貝塚(かいづか)には、たとえば大森貝塚(おおもりかいづか)があります。明治時代に、アメリカ人のモースが大森貝塚を発見しました。この大森貝塚の発見が、きっかけとなり、日本各地で貝塚の調査や発掘が、始まりました。 ほかの貝塚には、福井県の鳥浜貝塚(とりはまかいづか)や、千葉県の加曽利貝塚(かそりかいづか)があります。

  • 三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)
六本柱建物(復元)

青森県の 三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、今からおよそ5000年前の集落だと思われています。三内丸山遺跡からは、(くり)の木を栽培した形跡(けいせき)が見つかっています。 多くの土器や石器のあとも、みつかっています。

大型の掘立(ほった)(ばしら)も、見つかっています。掘立て柱の用途は、まだ分かっていません。 ヒスイの玉や、黒曜石(こくようせき)で出来た刃物のようなものも、見つかっています。

ヒスイは、この地ではとれず、新潟県の糸魚川(いといがわ)などの他の土地で取れるので、他の地域と交易があったのだろう、ということが考えられています。

この三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、縄文時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。

  • 屈葬(くっそう)

縄文人の死者の骨は、姿勢が、手足を折り曲げて、(ほうむ)られている骨が多く見つかっています。このような葬り方を屈葬(くっそう)と言います。この姿勢で葬った理由は、まだ分かっていません。

※ ウィキペディアに、屈葬の画像が無いので、外部の資料で画像を確認ください。

この時代の社会は、村長はいたが、まだ、貴族などの階級などは無かったと思われています。住居の大きさや、墓などの遺跡を調べても、だれの住居や墓でも、それほど大きさに変わりはなく、副葬品なども少なく、よって貴族などはいなかったと思われています。

以上のような縄文時代が、紀元前500年くらいまで、約1万年と数千年ほど続きました。

イネの栽培については、一説では、すでに縄文時代の後期から、大陸から伝わってきた稲作により、九州を中心に日本各地でイネの栽培が始まっていたという説があります( (※ 範囲外:)「縄文稲作」説とか「縄文農耕」説とか言われる)。一方、定説では、縄文時代のあとの弥生時代から日本各地でイネの栽培が始まったというのが定説です。